山口市鋳銭司(すぜんじ)・長沢池の北に鎮座される「大村(おおむら)神社」。御祭神は『大村益次郎公』。
「鋳銭司出身で「維新の十傑」の一人にも数えられる大村益次郎を祀る。益次郎はわが国近代兵制の創始者で、幼名を村田宗太郎といい、ついで、良庵、後に蔵六と改め、さらに大村益次郎と改名。明治2年9月、京都で旧思想の武士たちに襲撃を受け、その年の11月15日大阪の病院で没しました。遺骸は瀬戸内海を船で郷里に運ばれ、この地に埋葬されました。墓の後方には明治11年に建立された神道碑があり、建碑に賛同した多くの顕官の名が刻してあります。もとはこの墓の側にありましたが、昭和16年に神社改築の話が起こり、全国から寄付金が集められ、昭和21年現在地に完成。」山口市観光情報サイトより
現在の社殿が完成したのは昭和21年。当時無格社であった大村神社を県社に格付けするように申請。県社に相応しい社殿の着工が始まったのは昭和16年からでしたが、同年に太平洋戦争が始まり、戦況の悪化に伴って建築資材は不足。神社が完成したのは、終戦後の昭和21年のことでした。
公式HPに「幕末から明治にかけて日本の近代国家に貢献した英傑は、次々と神社に祀られました。吉田松陰:東京の松陰神社が没後23年、伊藤博文:没後23年、乃木希典:東京の乃木神社が没後8年。大村神社が益次郎さんの没後3年で建てられた事を考えると、当時の鋳銭司の人々の益次郎さんに対する強い思いが想像されます。」
鋳銭司郷土資料館入口の『大村益次郎』レリーフ
神社から少し山間に入った場所に建立された『大村益次郎』・『妻:琴子』の墓。
明治十二年、大村没後十年祭に際し墓所の後方に、益次郎の事績などが記された石碑「神道碑」を建立。撰文『山田顕義』、篆額『有栖川宮熾仁親王』。裏面には三條実美や伊藤博文・井上馨・毛利元徳・伊達宗城等々・・発起人五名、寄付人六十八名と彫士、計七十四名の名が彫られています。
「史跡:大村益次郎墓」碑と案内
「大村益次郎先生百年祭記念碑」
昭和52年の某局大河ドラので放送された司馬廉太郎の長編歴史小説「花神」を記念して建立された「花神碑」。
「防長の山河の美しきは天下に比類がない。萩の海辺の島々は夢の国のようであるし、山々をめぐるたたずまいの優しさはどの土地にもない。 「防長の山河は優しいのです」 蔵六はいう。 蔵六のおかしさは、その優美ななかでも第一等の地は、「鋳銭司村です」と、おのれの生まれた在所を誇ったあたり、お琴がきいていても滑稽であった。」小説「花神」より
鋳銭司郷土資料館内で見たパンフレットの挿絵。何とも言えない優しさは、おそらく郷土の子供たちの目にも身近に感じられる事と思います。
筒袖羽織に短袴(たんこ)を着け、左手に双眼鏡を持った「大村益次郎銅像」は、明治26年に靖国神社に建立された日本初の西洋式銅像。靖国の地が選ばれたのは、彼が靖国神社創建の地の選定に深く関わった事に由来します。鋳銭司郷土資料館内では、高さ12メートルを超える巨大な銅像のレプリカが訪問者を出迎えてくれます。
「鎮魂 彼我之英霊」碑
大村神社への途次にある、周囲約6Kmの大湖「長沢池」。由来碑には「慶安4年(1651)頃、代官東条九郎右衛門の在役中に築工。天保年間には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に堤水を供給し、たとえ他村が旱魃に見舞われても、長沢堤を利用する村々は旱魃を免れたと伝えられる。」
参拝日:2015年11月12日
幕末の志士や、明治の元勲を輩出した松下村塾のある山口県には、さすがに中身の濃い神社がたくさんあるのですね。
そしてその多くの方たちは、悲運のうちに生涯を閉じています。このような神社が大切に守られ、限り、守る人々がいる限り、日本人の心が受け継がれているのだと教えられます。
郷土愛、祖国愛、家族への愛、隣人への愛、ご先祖への感謝・・・貴方のブログで様々なものに接します。
平成27年11月11日と12日は、貴方にとっても充実した、大切な日だったことが伝わってきます。
たまたま巡回に来られた池の水利組合の役員さんがなんと大村益次郎係累のご子孫。
大河「花神」ネタなどで盛り上がりました。
https://blog.goo.ne.jp/match1128/e/322373dfbfd6ff55685f68591c48d20f
大切にしなければいけないもの
そうした何かに触れられるのも、旅の楽しさの一つですね。
心地よい空気 温かい人の言葉
とても良い体験をさせて頂きました
不思議な縁のようなものが感じられます。
こちらの溜池も本当に「綺麗」という言葉がぴったりくる景色でした。
あの水の色・・本当に綺麗でした