武士のうち重臣の多くは三の丸である堀内に居住しましたが、平安古では開墾が進むのに並行して数多くの武士が屋敷地を構えました。保存地区は橋本川沿いにあり、江戸時代の地割りをよく残し、当時の屋敷構えをうかがうことができます。
昨日に続く平安古地区の町歩き、スタートは平安古町満行寺筋に残る「村田清風別宅跡」長屋門。藩政改革を行い明治維新に長州藩が活躍する財政的基盤を築いた人物。藩政にたずさわった約25年間を、この地で過ごしたといわれています。
「15歳で明倫館に入り文武を修得。藩主・毛利斉房の小姓役を命じられ、以来13代・毛利敬親まで5代の藩主に仕え藩政の中枢に参画。天保の改革で手腕を発揮し、藩の殖産「米・蝋・塩・紙」は清風の幼名から長州のシロベエとも呼ばれた。弘化2年(1845)63歳で三隅に隠居。人材育成に力を注ぎ、吉田松陰をはじめ多くの人々が清風の教えを乞う為に三隅の山荘を訪れている。安政2年(1855)、平安古別宅で逝去・享年73歳。」萩観光サイトより
萩城三の丸・平安古総門前の外堀に架けられている「平安橋」。玄武岩で造られており、無橋脚の珍しい橋と紹介されています。
平安橋から眺める萩城外堀。
外堀の石垣に目をやれば、重さに耐えかねたかのように水面近くまで枝を伸ばす柿の実。・・・一羽の鴨が何度も何度も枝をつついています。ややあって、見事に一個をちぎり落とし嬉々として水中に頭を突っ込んでいました😊 柿を食べる鴨を見たのは初めて、実に興味深いシーンでした。
怪しくなり始めた空模様に急かされて「平安古の総門跡」の碑。平安古地区から三の丸へは、外堀にかかる平安橋を渡り平安古総門を通って行き来していました。
萩市堀内の一画に残る「古明倫館跡」の碑。萩城三の丸の南門、平安古の惣門跡の北西100メートルの地にあった藩校明倫館。享保四年(1719)五代藩主毛利吉元によって創建。嘉永二年(1849)に江向に移され再建された新明倫館と区別して「古明倫館」とよばれています。
何となく怪しかった空模様・・・そろそろ元来た場所に向かわなければ・・・と思う間もなくいきなりの冷たい雨。
この「鍵曲(かいまがり)」がラスト。11月半ばの萩市内、雨の冷たさが足元から這い上がってきます。
しっとりと沈み込む長い築地塀。わずかに面影山の姿が見える。
旧田中義一男爵別邸の土塀が見えて来たところで、平安古地区の町歩きはひとまず終了。車内にもどって遅い昼食。車内食だからと言って決して有り合わせではありません😊、熱々のお味噌汁が、雨に濡れた体を温めてくれました。雨が通り過ぎるまで車内で待機、お天気が持ち直すようであれば、萩市江向にある「明倫館」へと向かいます。
訪問日:2012年11月13日
🌸明日は萩明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校の紹介です。
藩政改革の中心人物として手腕をふるった清風
幕末の激動の時代 彼のなした数々の偉業は
まさに新しい時代に必須の手腕であったと知りました
日本という国が大きく動き始めたとき
そこにはいずれの立場に立とうとも
真剣に国を憂いこの国を守ろうとした人物たちの存在があった事を思わずにはいられません。
愛車エブリィ茶々丸は車内でお湯が沸かせます。
それが可能なように、tononekoさんが頑張って大工仕事をしてくれました
温かいお味噌汁はインスタントですが
でもその暖かさが二人の時間を最高に優しくしてくれます」。
こんなところで長州藩の家老・村田清風の名前が出てくるとは、意外でした。
来て見れば さほどでもなし 富士の山
釈迦も孔子も かくやあるらん
初めて江戸へ登り、富士を見た時の印象だと思いますが、傲慢なのか謙虚なのか、不思議な歌なので忘れられません。
柿の実を食べる鴨にも驚かされましたが、今回しみじみと心に残ったのは、冷たい雨の中での、車中のお二人の姿です。映像はありませんが、暖かく切なく、ちょっと説明のできない不思議な感動です。
「熱々のお味噌汁が、雨に濡れた体を温めてくれました。」
味噌汁を温めていたのは、tononeko殿だったのではないでしょうか・・・
有難うございます
柿を食べる鴨、私もビックリしました。
そこに柿が有るのを知ってると言った感じで一直線
もしかしたら、あの柿は
鴨さんの秘密のスポットなのかも知れません
しばらく見ていましたが
そこに他の鴨が近づいてくる事はありませんでした。
柿を食べる鴨珍しいですね。
きっと美味しかったことでしょう。
築地塀、趣がありますね。