車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 大阪府箕面市

2022年11月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

箕面市(みのおし)は大阪府の北摂豊能地域に位置する市です。池田市、豊中市、吹田市、茨木市、豊能郡豊能町に。また県を跨いで兵庫県川西市に隣接。西南部には箕面川が南西方向に流れ、中南部を千里川が西方向に、東南部を勝尾寺川が東方向に流れ、中部から北部にかけては山間地で、箕面滝、勝尾寺、瀧安寺などの観光名所や箕面川ダムなどがあり、明治の森箕面国定公園として保全されています。古くから修験道の道場として知られ、勝尾寺、瀧安寺、延喜式内大社:阿比太神社や為那都比古神社などを擁し、西国街道が横断。瀬川には宿場がおかれていました。「市の木:イロハモミジ」「市の花:笹百合」を制定。

キャッチフレーズは「ひとが元気 まちが元気 やまが元気 ~みんなでつくる「箕面のあした」~」

明治22年(1889)、 町村制の施行により、豊島郡箕面村・萱野村・止々呂美村、島下郡豊川村が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、豊島郡が豊能郡に、島下郡が三島郡に変更。

1948年、箕面村が町制を施行、豊能郡箕面町となる。

1948年、豊能郡箕面町が萱野村、止々呂美村と合併、改めて箕面町が発足。

1956年、三島郡豊川村を編入、市制を施行、箕面市が発足しました。

マンホールには、緑豊かなイメージを表す「市の木:イロハモミジ」と、清流のシンボルである「箕面大滝」がデザインされています。

池田市マンホールサミット展示蓋

鴻池水未来センター展示蓋

防火水槽マンホールには、鮮やかな紅葉と箕面の大滝を背景にポーズを決める『滝ノ道ゆずる』君。

消火栓、水道用のハンドホールは、いずれも「市の木:イロハモミジ」が描かれています。

昭和31年(1956)12月1日制定の市章は「手を繋ぎ合って市の発展を祈る「ノ」の字が組合って 、そして又「人」の字が組合って、人と人とが共に仲良く、一致団結して市の為に尽くす、常に手を合わしあった気持ちで感謝の日々を過すように」公式HPより

箕面市公式キャラクター『滝ノ道ゆずる』。お仕事は箕面の自然と、大粒で風味や香りの良い「箕面の柚子(ゆず)」をアピールすることです。

箕面市内を運行する「オレンジゆずるバス」。『滝ノ道ゆずる』と並んでいるのは箕面市キャラクターの『モミジーヌ』で、普段は箕面市のお知らせなどを呟いているそうです。ちなみに頭の紅葉を取ると・・・・何かが起こるらしい・・デス。

「箕面 東海自然歩道西の起点」

「義士 萱野三平邸址」の碑

箕面には滝を鑑賞する為に一度、次は滝鑑賞と「瀧安寺の護摩供養」の為に訪問。が、当寺はデジカメなんぞと言うハイカラなものは持っておらず、どの写真も景色よりも人物優先。マンホールに目覚めてからの再々訪は、見るものと言えば地面ばっかり、もちろん写す物もマンホールばっかり(笑)・・・・記事にして改めて気がついた驚愕の事実でした (ーー゛);

撮影日:2008年5月5日&2017年6月12日

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大阪府箕面市のマンホールカード第6弾

2022年11月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「箕面市」のマンホールカードは、「箕面 交通・観光案内所」でいただけます。

1995年に設置開始されたマンホールには「箕面大滝」と「市の木:イロハモミジ」がデザインされています。

「箕面市の名所である箕面大滝と紅葉をデザインしたマンホール蓋です。 箕面大滝は、「日本の滝百選」に選ばれている落差33mの滝。 箕面の地名は、一説では、滝の流れ落ちる姿(「面」)が農具の「蓑」に似ていることから、「箕面」と表記するようになったと言われています。 また、箕面大滝のある明治の森箕面国定公園は、紅葉の名所としても知られ、毎年多くの観光客が訪れます。 春は爽やかな新緑を感じながらのハイキング、夏はライトアップされた箕面大滝での納涼など、四季折々の楽しみ方があります。 マンホール巡りを満喫した後は、実際に箕面公園を訪れてみてはいかがでしょうか。」

座標軸マンホール

箕面の大滝(紙焼き写真をデジカメで再撮影)

訪問日:2017年6月12日

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科長(しなが)神社 in 太子町山田

2022年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

太子町山田に鎮座される「科長(しなが)神社」。式内社で旧社格は小社。御祭神は『級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長津姫命(しなつひめのみこと)』

「由緒は不詳。元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していた。暦仁元年(1238)に現在地に遷座した。現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝える。江戸時代までは「八社大明神」と称していた。」御朱印の社名は元録15年(1702)に『藤原頼孝卿』によって揮毫された鳥居額の文字を写したもので「八社大明神」とあります。

案内によれば、この地は『神功皇后』誕生の地という伝承もあり、社宝には『神功皇后』が使用したと伝える、雛形の小さな兜もあるそうです。本瓦葺平入入母屋造・千鳥破風の付いた拝殿。その奥に続く三間社流造の本殿は残念ながらここからでは拝見できません。

拝殿前左右より神域を守護されるのは浪花型と位置付けるにはかなり異質な感じの狛犬さん一対。首の長い狛犬さんと言うのは、とても珍しい気がします

今でも不思議なのですが、もしかして拝殿から回り込めば本殿を見る事が出来たのでは? それとも行けない理由があったのだろうか?・・考えても思い出せません。多分後者のような気もします。

拝殿千鳥破風の左右に施された一対の龍。青銅で作られたのではないかと思われる色合いですが真偽は不明。

留め蓋瓦には唐獅子に牡丹。何とも豪快に飛び跳ねています。

軒丸瓦の御神紋はかなり珍しい「五瓜(ごか)に唐花」。木瓜(もっこう)紋は、その昔、御簾(みす)の上部につく絹織物の「帽額(もこう)」にあしらわれた文様であった事から、帽額にちなんで木瓜と呼ばれています。

画像が鮮明でないので分かり難いかもですが、迫力満点の龍ものたうっています(⌒∇⌒)

境内入ってすぐの左手に鎮座される「金平大明神」。御祭神は『稲荷神』

社伝前左右より神域を守護されるのは、耳の大きな神狐さん一対。いつの建立なのか確認し忘れましたが、それぞれに巻物と玉を口に、とても個性的で良い表情をされています。

科長神社一帯はかつて『蘇我倉山田石川麻呂』の発祥の地であり、社頭には『小野妹子』の墳墓があります。聖徳太子のお使いで「日出処の天子より」の書状を隋国に持って行った人物 (^▽^)/。 文言に諸説はありますが、私は、私流に解釈した「日出処天子・・」の意味が大好きです(笑)

そんなこんなで是非とも行かなければ!と・・石段を登りかけたのですが、上を見あげた瞬間、回れ右(笑)。後の痛みを考えると・・仕方ない(^^;)

参拝日:2015年10月9日

 

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日出処の聖徳太子 in 太子町

2022年11月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

どこの自治体でも同じなのでしょうが・・太子町の名所旧跡を訪ねていると、様々な場所で観光マップを見かけます。そしていずれにも「聖徳太子」のイラストが書かれていて、ここが太子縁の地であることを強く感じさせられます。個人的には「近つ飛鳥の里・太子探訪」の観光マップに描かれている「馬上の太子」が一押し(笑)

観光マップ

気付かれた方もいると思いますが、マップの右下にも太子と二人の子供のイラストが有ります。「聖徳太子及び二王子像」とも称し、左が太子の弟『殖栗皇子(えくりのみこ)』。右は実子である『山背大兄王(やましろのおおえのおう』。イラストの元になったのは「唐本御影」で、これは聖徳太子を描いた最古の肖像画と伝えられています。ちなみに昭和32に発行された五千円札の肖像として、更に昭和33年に発行された日本初の一万円札の肖像にも採用されました。

エリア全体が遺跡博物館ともいわれる陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」。その中核的文化施設として1994年に開館した「近つ飛鳥博物館」。ひときわ高くそびえているのは『安藤忠雄』設計の「黄泉の搭」。

こちらは明日紹介する「科長神社」の近くに立てられていた「ふるさと太子・散歩道」の観光マップ。ここにも聖徳太子と二人の子供のイラストが漫画チックに書かれています。

長神社から道の駅に向かう途次に見かけた、太子町山田の「観音堂」。太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰からでしょうか?辻に見かける観音堂はいずれも手入れが行き届き香華が手向けられています。

「道の駅・近つ飛鳥の里・太子」、定番ともいえる顔出しも、「聖徳太子及び二王子像」

記念スタンプももしや!・・と思ったのですが・・。独特のポーズは一緒ですが、二上山と叡福寺を背にしたゆるキャラの『たいしくん』でした。

ちなみに「二上山」のモニュメントもあります。

歴史的な人物が悉く可愛いキャラに変身して・・可愛すぎないか?と思っていたら、何と初代の太子さんキャラを発見!!。

一般的に思い浮かべる聖徳太子の姿により近いデザインで、しっかりヒゲも蓄えています。しかも今でも現役で、町のそこかしこに・・何と「飛び出し聖徳太子」になって活躍していました。

どのような事情で二代目が誕生したのかわかりませんが、それにしてもゆるキャラの定義って? イラストであろうが着ぐるみだろうが(笑)、見つければせっせと画像に納めている私が言うのもどうかと思いますが、一体何なんでせうね(笑) そうそう、お花畑的雰囲気満載の聖徳太子さんもいます・・何というか実に多彩で面白い(笑)

ネタも尽きたので(笑)少し真面目モードで、聖徳太子に関わる方たちの御陵を紹介します。太子町春日にある「河内磯長陵(用命天皇陵)」

『用命天皇』は第31代天皇で、和風諡号は『橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)』聖徳太子は用命天皇の第二皇子で、名は『厩戸皇子』。一般的に馴染みの深い『聖徳太子』は死後の諡です。

推古天皇の摂政であった『聖徳太子』は、十七条憲法や冠位十二階の制定をした事で知られ、また、遣隋使の派遣などで大陸の制度や文化を積極的に取り入れました。「和を以って貴しと為す」の言葉はあまりにも有名で、ご亭主殿はこれを座右の銘としています。
それはともかく、この言葉のイメージから、何故か左に傾ききった自称平和主義者からお仲間のように扱われる事もある(気のどくな)『聖徳太子』ですが、隋の皇帝に宛てて『小野妹子』に持たせた手紙の書き出し【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)は、私的にはまさに痛快(*^^*)。日本を「日の出る国」、隋を「日が落ちる国」と表現し、しかも「日出処の天子」としたのです。何と痛快な!!以来、私の中で聖徳太子は「日出処の天子」としてすっかり定着しました。
誰が書いたのか忘れましたが、何かのコラムに、「この言葉は、ただ単に地理的、方向的な意味合いで、日本が上、中国が下などと言う他意は無く、互いに対等な関係でといった意味である」と、かなり強硬に解説されていました。それを読んだ時、ああ、【東が上】思想の中国にとってあの言葉は、相当以上に侮辱だったんだなと改めて痛快さを覚えたものです。
ともあれ、昨今、特定の二カ国に対し、謝罪だ土下座だと(鳩〇元総理はK国に出向いて土下座しましたね)日本人とは思えぬ醜態をさらす政治家達を見ると、外交においては毅然とした態度を貫き、誇りある日本人として振舞って欲しいと切に思うのです。
少なくとも、日本は世界のどの国とも対等に付き合っていける筈だと・・・私は思っています。

訪問日:2015年10月9日

 

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磯長山:叡福寺(えいふくじ) in 太子町太子

2022年11月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

太子町太子にある太子宗:本山寺院「磯長山(しながさん)・叡福寺(えいふくじ)」。『如意輪観音』を本尊とします。聖徳太子建立三太子の一つで、「野中寺」の「中の太子」、「大聖勝軍寺」の「下の太子」に対し、「上の太子」と呼ばれます。

「推古30年(622)旧暦2月22日、太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになった。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えた。天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失うが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建。その後、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興された。」公式HPより

境内に入って最初に目にするのが「南大門」。天正2年(1574)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建。腐朽のため昭和33年(1958)に再々建築されました。

山門内に安置される「金剛力士像」

山門内を入ってまず目にするのは、叡福寺のシンボルともいえる重要文化財の「宝塔」。承応元年(1652)の再建で、本尊は東面に『釈迦・文殊・普賢』の三尊像。西面に金剛界の『大日如来』を安置し、四本の柱には四天王の像が描かれています。

この日は秋晴れのとても爽やかな午後でした。青空を背景に立つ宝塔がまるで何かの意思を持っているかのように虹彩を従えて見えます。

南大門を入って北側には、享保17年(1732)の再建で府指定文化財の「金堂」。聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づき『如意輪観音』の坐像を本尊とします。

縁台左端には『賓頭盧尊者』、俗になで仏とされる「おびんづる様」。

右端にはボケ封じの観音様がおられます。まだ早いだろうと笑われますが、人生いつ何があるか・・一寸先は闇。どうかこれ以上ボケませんように!!

太子廟の入り口である二天門は、元禄元年(1688)に『徳川綱吉』の命によって丹南藩第六代藩主『高木正陳』が寄進したもの。

叡福寺の最も重要な位置づけにあるのが「聖徳太子御廟」。直径54・3m、高さ7.2mの円墳。横穴式石室で、『太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女』の三体を合葬した三骨一廟となっています。

御霊屋唐破風屋根の向拝に施された釈迦三尊の御来迎額

聖域を護るにふさわしい猛々しさで天空を睨み据えるのは、唐破風の上の龍。

墳丘周囲490本の「結界石」は、聖地と俗界を隔てるものとして弘法太子が築いたと言われ、いずれも観音の梵字が刻まれています。

桃山末期の特徴を示す「聖霊殿(重要文化財)」は「太子堂」とも呼ばれ、文治3年(1187)に後鳥羽天皇から下賜された「聖徳太子十六歳植髪等身像」「南無仏太子二歳像」が祀られています。

『伊藤加賀守秀盛』によって慶長2年(1597)に再建された「浄土堂」。御本尊は『阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩』。 弘法大師御参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたと伝えられています。

「見真大師堂」は明治45年(1912)の建立。本尊は、聖人が八十八歳で御参籠の折、自ら刻んで遺されたという「親鸞聖人坐像」

「念仏堂」。本尊は『阿弥陀如来』で、脇侍は『観音・勢至菩薩』。善光寺48箇所中の第13番札所とされます。

何処の屋根にいたものか、すっかり失念している鬼瓦。数ある鬼瓦の中でも非常に特異な顔立ち・・まるで狼のような容貌で印象に残った一対です。

多くの写経典類が納められている「経蔵」

「久邇元帥宮御遺髪塔」。聖徳太子奉賛会総裁であった『久邇宮邦彦王殿下(香淳皇后の父君)』の遺髪が納められています。

一通り境内を廻った後、名残惜しく振り返った時に残した画像ですが、この何とも形容しがたい神々しさを思わせる景色は、何年たっても鮮やかで忘れ難い思い出です。

御詠歌【磯長(しなが)なる み寺にいまも うまやどの みこのみたまは しずまりてます】

参拝日:2015年10月9日

 

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ご当地マンホール in 大阪府太子町

2022年11月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

南河内郡太子町(たいしちょう)は大阪府の東南部に位置する町です。北は羽曳野市、西は富田林市、南は南河内郡河南町に。また東は県を跨ぎ金剛・葛城の山々を介し奈良県香芝市、葛城市に隣接。東に聳える二上山の山麓から産出するサヌカイトは、旧石器時代以降、石器の材料として広く近畿一円で利用されました。飛鳥時代には二上山の南麓に、推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥"と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥"と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。町名は推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子にちなんで太子町と名付けられました。「町の木:クスノキ」「町の花:サツキ」を制定。

キャッチフレーズは「《太子町まちづくり協働宣言》みんなでめざします 豊かな緑と歴史を活かした元気のあるまち 太子町」

明治22年(1889)、 町村制の施行により、石川郡磯長村(しながむら)、 山田村が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、所属郡が南河内郡に変更。

1956年、磯長村と山田村が合併、南河内郡太子町が発足。

マンホールには「二上山」と「叡福寺の多宝塔」「町の花:さつき」。右に十七条憲法の1ヶ条「和を以って貴しと為す」がデザインされています。

池田市マンホールサミット:展示マンホール

鴻池水未来センター展示マンホール

マンホールに描かれた多宝塔は承応元年(1652)の建立で、重要文化財に指定されています。実物を見るとイメージが良く伝わってきますが、でも二上山はこんな風には見えません(笑)

昭和38年(1963)10月7日制定の町章は「聖徳太子の「和を以って貴しと為す」を町のモットーとしており、太子町ではその意をくんで「太」の字を図案化し、平和の鳩をあしらってつくられた。」HPより

太子町観光PR大使『たいしくん』は永遠の4歳。のんびりした性格で、みんなを“やさしいきもち”にすることが得意。趣味は二上山の山登りと叡福寺や竹内街道の散歩。好きな言葉は、「和を以って貴しと為す」です。

明日はマンホールのデザインにもなった「叡福寺」の紹介です。

撮影日:2008年6月17日&2015年10月9日&2019年10月19日

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大阪府太子町のマンホールカード第7弾

2022年11月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(計301自治体342種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「太子町」のマンホールカードは、「【月・火以外】太子町まちづくり観光交流センター 【月・火のみ】太子町役場 地域整備課」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには「二上山」と「叡福寺多宝塔」、「和を以って貴しと成す」の文字がデザインされています。

「万葉集にも詠まれた名峰「二上山(にじょうざん)」を背景に、手前に町の花「サツキ」、右に聖徳太子が定めた十七条憲法の一文、「和を以って貴しと為す(わをもってとうとしとなす)、左に聖徳太子墓の守護寺である叡福寺の「多宝塔」を配したデザインマンホール蓋です。 太子町はその名の通り聖徳太子に所縁のある町で、天皇陵をはじめとする多くの古墳や、日本遺産となった最古の官道である竹内街道など、数々の歴史遺産に恵まれています。 本町にお越しの際には是非、この歴史情緒豊かなマンホール蓋をご覧いただき、いにしえに思いを馳せながら歴史散策をお楽しみください。」

 

「叡福寺多宝塔」

配布場所内の展示蓋

カードと共に配布された団扇等

池田市マンホールサミット:展示マンホール

 

訪問日:2018年4月28日

 

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山田池公園の花 in 大阪府枚方市

2022年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

枚方市東部方面の丘陵地帯に設けられた大阪府営の山田池公園。園の北部に広がる山田池がこの公園の名前の由来となっており、その広さは東京ドームの約十六個分と広大です。

四季の花木が植えられた丘陵地にある花木園には、チューリップやパンジー、ウメ、ツツジ、ライラック等々・・・大切に手入れされた折々の花が、豊かな香りと共に美しさを競っています。

茶花としても愛されてきた「利休梅(りきゅうばい)」。清楚な美しさをそのまま和服の裾模様に出来たらどんなにか素敵でしょう。私の大好きな花の一つです。

ピンクの花弁が可愛らしいこの花、桃に良く似ていますが実は「アーモンド」。辺りにはあの独特の甘いアーモンドの香が漂っていて、何となく幸せな気分に。

積もった落ち葉の中を熱心に突いている二羽の鳥。落ち葉の色にカムフラージュされているのは山鳩? 不思議な黄色い羽を持つこの小鳥は何と言う鳥でしょうか??こっそりデジカメを向けて精一杯のズームで得た写真、う~~~ん、可愛い!!

水生花園には、花しょうぶ園やあじさい園、睡蓮池等があり、近隣市民の憩いの場となっています。4月のこの時期、花しょうぶ園は一面の緑が爽やかに香っています。

六月の山田池公園は、「水生花園」に咲く約120品種・8000株の花しょうぶが有名。この日は途中から生憎の雨となってしまいましたが、それでも随分と沢山の人が訪れていました。

花しょうぶの季節はまた紫陽花の美しい季節。園内に咲く約1600株の紫陽花は、折からの雨に打たれて生き生きと輝いて見えます。

ふと足元に目をやれば、鮮やかな黄色の「未央柳(ビョウヤナギ)」。

訪問日:2007年4月15日&6月10日

 

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本覚寺(ほんかくじ) in 大阪府枚方市田口山

2022年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪と言えば太閤秀吉さん、有名過ぎるくらい有名な名前ですが、彼の甥であった『豊臣秀次』の存在を意外に知らない人が多く、ちょっと驚きでした。戦国時代の歴史に興味があれば、秀次の非業の死はとても有名な話なのですが・・。ちなみに秀次公の墓は和歌山県高野町の「光臺院」と、京都市の「瑞泉寺」にあります。ところが秀次公ゆかりの寺がここ枚方市にもあったのです。

枚方市田口山にある、本門法華宗寺院「眞如山:本覚寺」。案内に秀次公の名前を見た時はちょっと吃驚でしたが、その名前に誘われて参詣しました。桜の綺麗なお寺として評判だとか、私たちが初めて訪れた日も、空を覆う満開の桜に出迎えられました。

「永禄五年、京都妙蓮寺の僧日守大徳が布教の場として大阪上町に開山。文禄四年七月十四日 豊臣秀次公は謀反を理由に秀吉より切腹を命じられ、高野山青巌寺にて自刃、その一族四十人も京都三条河原で処刑された。のちに秀吉は、秀次と一族の刑死に心を痛め秀次の菩提を弔うため、日守上人を招き大阪唐物町北端に堂宇を建立し菩提寺とする。昭和四十七年七月、大阪市より枚方市に移転し堂塔伽藍等の整備を行い今に至る。」公式HPより

「秀次公菩提之塔」

旧暦7月15日、高野山で切腹した秀次公の首は京都三条河原にさらされ、8月2日にはその首の前で、秀次公の妻妾と子供たち三十九人が次々と処刑されたといいます。信頼し、心から忠義を尽くした秀吉から切腹を命じられた秀次公。むろん一族郎党に至るまで処刑されることも分っていたでしょう。その心情を思う時、何とも切なくやり切れなく・・胸の痛みが抑えられませんでした。

【 磯かげの 松のあらしや友ちどり いきてなくねの すみにしの浦 】

年老いて出来た我が子の可愛さに目がくらんでしまった秀吉。その結果、大事な我が子を護る事が出来た重要な人物を、自ら殺してしまった・・・・わが身の才覚だけで天下人にまで登りつめた秀吉。あれほどの器量を持つ人物でも、我執からは逃れられなかったという事でしょうか。

「秀次公菩提之塔」の右手には『有賀長因(歌人)』『並木宗輔(大阪浄瑠璃・歌舞伎・狂言の作者)』の墓。この二基が秀次公の菩提の塔と同じ場所に建立されている理由はわかりません。

境内の一画に建立されている「鬼子母神堂」。一般的に、鬼子母神は法華経の守護神として、法華宗・日蓮宗の寺院に多く祀られています。

500人(千人とも)の子の母であった鬼子母神は、自らの糧として人間の子を捕り食らっていました。我が子を奪われた幾人もの親の悲しみを見かねた釈迦は、ある時、彼女の末の子を隠してしまいました。半狂乱となって世界中を探し回るも愛しい子は見つからず、釈迦に縋り助けを求めます。釈迦は「500人の子を持つお前がたった一人の子を失っただけで、狂うほど嘆き悲しんでいる。ただ一人の子をお前に食い殺された親の苦しみはお前の比ではない。」と諭したのです。悔い改めた彼女は仏法の守護神となり、子供と安産の守り神となりました。

紋幕の紋は「柘榴(ざくろ)」。これは、どうしても人間の子が食べたくなったらこれを食せよと釈迦が鬼子母神に与えた果実が「柘榴」であった事に由来すると云われます。

本堂の前に奉納されていた釈迦像の・・これは香炉台でしょうか?

山門入って左手、境内の中に作庭されていた滝と池

人の気配を感じて近寄ってくる鯉。12年前に参拝した時と何も変わることなく、境内は穏やかで静かです。

参拝日:2009年4月12日&2021年10月19日

 

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ご当地マンホール in 大阪府枚方市 

2022年11月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

枚方市(ひらかたし)は大阪市と京都市のほぼ中間にあたる大阪府北東部、北河内地域に位置する市です。寝屋川市、交野市、高槻市、三島郡島本町に。また県を跨いで京都府八幡市、京田辺市に。さらに奈良県生駒市に隣接。枚方の地名は古く、古事記、日本書紀、風土記などにも登場。西に淀川、東に生駒山系の山々があり、平安時代には貴族の遊猟地として知られ、江戸時代には京街道の宿場町として発展。近代になると近郊農村から住宅のまちへ徐々に変ぼうを遂げ、戦後は大規模な住宅団地の開発により人口は急増。市内には6つの大学が所在し、21世紀の新たなまちのイメージとして、「学園都市」をめざしています。市域にはバレーボールVリーグパナソニックパンサーズの本拠地があり、また菊人形で有名な「ひらかたパーク(通称:ひらパー)」は、現在まで続く、日本最古の遊園地です。「市の木:柳」「市の花:菊・桜」「市の鳥:カワセミ」を制定。

キャッチフレーズは「風・きらり 夢・ひらり」

明治22年(1889)、 町村制の施行により、茨田郡枚方町・蹉跎村、交野郡牧野村・招提村・山田村・樟葉村・川越村・津田村・氷室村・菅原村が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、茨田郡、交野郡が北河内郡に変更。

1935年、牧野村・招提村が合併して北河内郡殿山町が発足。

1938年、枚方町が殿山町・山田村・樟葉村・川越村・蹉跎村が合併、改めて北河内郡枚方町が発足。

1940年、北河内郡津田村・氷室村・菅原村が合併し、北河内郡津田町が発足。

1947年、北河内郡枚方町が市制を施行、枚方市が発足。

1955年、北河内郡津田町を編入、現在に至っています。

マンホールには「市の花:菊」と、享和2年(1802)に十辺舎一九が「東海道中膝栗毛」にて描いた「淀川を行き交う三十石舟」と「食べ物を売るくらわんか舟」がデザインされています。(関西医科大学付属病院前のタイル歩道・枚方市駅付近に設置)

汚水用カラーマンホール

雨水用カラーマンホール

「枚方市上下水道事業部:上下水道計画課」展示マンホール

「鴻池水みらいセンター」展示マンホール

昭和22年10月30日制定の市章は「枚方は淀川とともに栄えてきたまちで、船とは深いつながりがあります。かたかなの「ヒ」「ラ」と漢字の「方」を組み合わせて、三十石船を型どっています。」公式HPより

雨水用マンホール

仕切弁

バタフライ弁

空気弁

消火栓

量水器

枚方市水道局:仕切弁

枚方市水道局:電動弁室

枚方市:電気

枚方市:三角基準点

枚方市駅前に設置「やめようポイ捨て」啓発マンホール

企業提携のCM用シールマンホール

枚方市産業振興キャラクターとして誕生した『ひこぼしくん』。枚方市をPRするために、枚方市職員として魅力発信に奮闘中。ちなみに隣接する交野市のキャラクター「おりひめちゃん」が大好きなんだそうです。

まち美化シンボルキャラクター『ひらっきー』。「枚方」の“ひら”と、「拾う」の“ひら”と“ラッキー”がかけられています。ごみを拾うとラッキーなことに巡り合えるかもしれません!

 

撮影日:2008年4月13日&2009年4月12日&2011年8月4日

2016年7月19日&2017年4月21日・・・

コメント (2)
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