ブロ友さんへ
今秋の間に詩15「満干のUta」を自費出版します。
何しろ限定本なので、必要な人、読んでくれる人に渡るだけの冊数しか作りません。
それで、此のお知らせを読んで(三度ほど告知を繰り返しますが)
心が動いた方は、読んでみようと思われた方は
「降って来るもの」トップページのサイドバーの”メッセージ欄”に贈り先を!!
大丈夫です。極秘扱いで僕以外に漏れる心配はありませんから。
この長月中が締め切りの、読者募集のお知らせです
09/10 04:26:26 万甫
ブロ友さんへ
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何しろ限定本なので、必要な人、読んでくれる人に渡るだけの冊数しか作りません。
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09/10 04:26:26 万甫
詩15「有無の言伝」 あとがき
”ぱーそなる こんぴゅーたー”が発狂して依りかかっていた日常性が破壊され、寸断された継続状態が、有無を言わせぬ掟のように、もはや取り戻せないほどの日時を経過してしまった。
日々の、或いは月日の連続性のなかでこそ活き活きと伝聞し、颯爽と伝播していた伝言も言伝も、その出来事と共鳴するように途絶えたので、詩15「有無の言伝」は一先ず此処でperiodを打つことにする。
それでも僕のinochiは続いていくように、その過程で僕の言語の淵に再び”言葉溜まり”が出現したら、降ってくるものが耳朶を掠めてゆくようになったら、僕は又、手のひらサイズのmemo帳と四色のball penを持って日常性に復帰することだろう。疑いもなく!!
2018(H30)水無月半ば 万甫
我がChronicle.Ⅸ-再甦へ-
母の死と云う否応なしに齎された現実に因って、押し寄せる、もう永遠に”子供には戻れない”という類なき淋しさと切なさと儚さを契機に、三十年に亘る定型詩の成果を「道、なかば、」という歌集に纏めて一区切りつけると、間髪を置かず、僕はその哀しみとの引き換えのように、その侘しさを埋めるように「ぽえむ」に復帰する。
二十代に自費出版したと思い込んでいた第4詩集”明日の鏡”の原稿を、母が居なくなって無人になった故郷の家の整理中に発見したのだ。果たしてそれらは無事に出版されて陽の目を見たのか?遠い記憶を辿ってみても記憶の行き着く先は茫洋としたまま。
其処で手始めに復帰への第一弾として、その原稿に残存する当時の詩に、それ以後の20年余に僅かに書き溜めていた数10篇の詩を加え、改めて詩4「明日の鏡」として独立させたのだった。
その出来事は、実に1979年から2010年に及ぶ30年もの年月を超える詩の空白の隙間を埋めるように、詩に、詩を書くことを僕に促し、その本然に復帰した紛れも無き瞬間だったような気がする。
想えば、短歌の師でもあった母がそのように促がしてくれたのかも知れぬ契機を通過して僕は、劃して翌年の誕生日の日付で詩6「再甦」を生み出し、以後は毎年のように”多作こそ才能!!”と断じてくれた恩師の言葉を躊躇わず実行してゆく。
我がChronicle.Ⅷ-episodeⅢ.愛しきもの-
僕は幸せなことに”古来希なり!”の齢を前に「七人の孫」を持つ満願成就の爺ぢいになった。しかも、もしかしたら其れは現在進行中かも知れないのだ。
思えば京都で暮らしていた長女に最初の女の子が生まれた時から、僕は初爺に為れた嬉しさと、その愛しさに否応なく衝き動かされて「愛しきもの」に残す詩歌集を一心不乱に編んだのだ。若しかしたらその情熱こそが僕を詩の世界に引き戻した原因かもしれないと想える程に。
「遙花の詩」は2010年まだママのお腹でイノチを養っている月日から、誕生して我が家で母子ともの安静な時間の集積を終えて京都に帰るまでの、凡そ2年間に亘って綴った詩歌を三冊の本に纏めたものだ。
それから、嫁いで三重に住む次女に長男が生まれた時にも産前産後を共に過ごした溢れるばかりの愛しさを文字にして、彼女がblog上で自ら綴った「新米ママの育児日記」を本にして、その後半のページを埋めた。
そうして、一緒に住むことになった長男夫婦に、長男の「湊人」に続いて長女「蒼唯」を授かり、僕は今嬉々として事あるごとにペンを握り「君の詩を!!」を現在進行形で書き継いでいる
一歳の誕生日を目途に書いてきたが、そうしてその日から早や一ヶ月が経過してしまったが・・。まだ閉じるのが惜しくて継続中のままにしてある。
爺ぢい記念日を七つも与えてくれた「愛しきもの達」は、それぞれにそれぞれの表情で僕の中に”宝物”としてあり、僕のイノチと共に、或いは僕のイノチを支える心柱として一緒に生きていると実感する日々である
我がChronicle.Ⅶ-祝歌と挽歌-
書くことを支えたその短詩系の”みそひともじ”の形式は、省略と凝縮という書くことの重要なプロセスの在り方を鍛えてくれた。
詩を書くことから隔たった三十年の月日を、折々に奏でる短歌を新聞に掲載される週に一度の地方版の短歌係宛てに投稿する日々。数多い投稿歌から入選に選ばれるのも、はたまた特選の栄誉に輝くのも、或いは没(書いた数の歌の比べれば、掲載されるのは一割にも遠く及ばない確率だったが)の憂き目を見るのも、全ては選者の感覚次第の新聞投稿の短歌欄だったが、其処で切磋琢磨した二十数年の武者修行は知らぬ間に僕のpoemの感覚も磨いてくれたような気がする。
1982年運命の伴侶に巡り合って結婚。10数年ぶりに詩心が復活して愛のUTAを詩5として成立させた後は再び沈黙のTOKIを移ろったが短歌に限れば、その後の”祝歌と挽歌”で膨大な数の作品を生んだ時期でもあった。
1984年1月、初めての我が子を授かる。それから一年半たって次女が誕生。僕はその度に何首もの”祝歌”を書き何度も応募した。1986年二人の孫娘を目の中に入れても痛くない程に可愛がってくれた義父が急死して舞台は暗転する。
地域の消防の副団長という要職にあった義父が、行ってらっしゃい!と送り出したその火災現場で”脳内出血”で倒れ、ICUでの緊急の治療も叶わず僅か51歳の男盛りでこの世を去り、子供たちは飛び切りの”爺ぢい”を喪失。
1987年に長男誕生。喜びも束の間に2年後の平成元年(1989年)に父がこの世を去る。喜怒哀楽を繰り返しながら、その度に僕はその感情の起伏を歌日記にしながら日々を送った。
一人に為った母はその後の20年余りを故郷の家で過ごしていたが2011年に倒れ、それから四か月介護の甲斐なく他界する。
ようように心が穏やかになった頃に、母への挽歌「円ゐ」を編んで仏前に供えた。
翌年の一月、母の生まれ変わりのように京都に住む長女に初孫が誕生する。紆余曲折を経て僕はとうとう本物の”爺ぢい”になったのだ。
平成22年、新聞に掲載された入選特選歌が200首を突破したのを契機に思い立ち、女房の百%の協力を得て詩歌集「道、なかば、」を完成させ、短歌と共に歩んだ20有余年の集大成としたのだった。
その間にも子供たちの結婚、孫の誕生と続き、僕は息つく間もない日常を余儀なくされていたが、多分それは幸せに裏付けされた繫忙の日々だったのに違いない。
その日常の中から再び詩心が芽生え、その芽を伸ばし始めるのはもう少し後の話になる。
満気になることなど
気は様々の用途と居場所で
色々に変化するものだが
中でも
満気になることなど当に希少で
もしも
そんな好運に遭遇したら
他所は
絶対に見えなくなる
それが幸か不幸か
即断はしかねるけど
警戒する必要は
有りそうだ
気を散らしたり、或いは
気を小刻みに使ったり、又は
気を紛らわせて、ほどほどの気分で
気長に生きるのが得策かもしれぬ
kokoroとkaradaと
僕の本体を
安全に維持し保護し持ち運ぶ器が
覚醒してゆく意識下で
karadaとして回復してゆく
その機能の恙ない状況を
少しずつ確認しながら
僕の総称は
敷布団の上で
今日の心身を揃えてゆく
是から捕え難い刹那というTOKIとの
戦に出てゆくのだ
僕は何時でも
AIするHITOの為に在る
AIされているのかとは
別の次元の
生きている!と
ほんとうに其処に
僕が居ると
確認できる
秘密の出来事
僕を生かすのは
付与された器の品質次第だが
僕を成り立たせるのは
その中身に誂えられる
イノチの豊饒さに因る
tokidoki オスになる
メスが恋しいのだ
そんなトキに
本能で生きる
動物なのだと分かる
僕も
大部分の細胞は
僕を抱合して
時間を動かし始めたけれど
彼方此方 イタイ!!
摩耗し疲弊し錆び付いて
イ.タ.イ・・・
06/09 06:06 万甫
我がChronicle.Ⅵ-episodeⅡ.背番号3-
生計を維持するためと、3人の父親としての子育てに追われた十数年の月日。自分を外と内の二面に分割できるとしたら、この期間は当に目まぐるしく変貌してゆく環境の変化と、否応なく巻き込まれてゆく由なしごとに翻弄され、その対応だけの明け暮れだけで100%のTOKIが消えてゆく時代であった。
町立の保育園に3人を預けている間に、自営業という立場も加味されてどうしても拒否できなく引き受けた“保護者会会長”の役職。更にその続きのように3人が在籍する小学校では長女が6年生になった春から、当然のようにお鉢が回ってきた、否応なしの”PTA会長”に就任して何れも心身ともに繫忙の日々を過ごしたのだった。
長男は二年生からその小学校を主体とする地元の少年野球部に入れてもらった。4年生になって試合に出るようになると女房と二人でその姿を愉しんだものだったが、創設者で20年余を監督として支えて来た恩人が高齢を理由に引退することになり、保護者の忘年会で僕に次期監督を!!との要請が有ったのだ。
息子は6年生になってキャプテンになった。いろいろ担った役柄と同じように、此の時にも断れる理由が無くて監督を引き受け、以後1999年1月から世紀を跨いで2005年7月までの6年弱の年月を、少年野球部の監督として殆どの土曜日曜祭日を提供する環境に存在した。
僕はもともと「背番号3.長嶋茂雄」の信奉者で、彼のお陰で以後今日までの半世紀をスポーツ好きで過ごせてきたように思える。就職した会社の食堂で”引退試合”を見てもらい泣きしたのを、今でも新鮮な感動で思い出すことが出来る幸せな巡り会い。僕の人生の一面を背番号3の鮮烈さが支えてくれたと言っても過言ではなかった。
当然のように息子は3年からキャプテンになって仕方なくの10番を付ける6年の春まで、前監督に懇願して3番を付けさせてもらった。それより以前の20年ばかり継続した草野球で僕はピッチャーとして存在したが、背に着けた番号はやはり選択の余地なく「3」だった。
毎年卒団式には子供たちから感謝の言葉が書かれた、永遠の記念品になる色紙を貰った。
それが、6年も監督を続けられた秘訣だったような気がする。軟式野球、少年野球、地域のソフトボールのリーグ戦でそれぞれに獲得したトロフィー。
書かずにはおれないこの間の内面とのバランスを辛うじて賄ってくれていたのが、日に数行を書き記す記録の部分の日記帳と、胸の哀楽を31文字に絞りぬいて記憶の一部として書き残す五七五七七の短歌の存在だった。
我がChronicle.Ⅴ-抱idaいて-
輝きの頂点のような二十歳から豊饒の夜明けのような三十代へ、其の百彩に彩られるべき云わば”黄金の時代”に、僕は理解不能の憂鬱を抱えて放浪した。それ故の混沌の坩堝で踠き苦悩し、先の見えない未来と抜け出せぬ現実の蟻地獄に陥って虚しく手足をバタつかせていたのだ。
そういう荒れ果てた日常の中で必然のように詩を書く心情から逸脱する。軈て再びそれを取り戻すまでの三十年間に亘る不毛のTOKIを、短い詩型の三十一文字に縋って”書く事”の枯渇を何とか免れていた現状だった。
三十代になって如何やら生活の基盤となるべき仕事(その後の四十年を満たしてくれる)に巡り会った僕は、ようように精神の安定を確保すると、運命の女神はその頃合いを見計らったように赤い糸を垂らしてくれた。
1982年、その糸の一端を持つ女性と巡り逢って結婚。33歳になっていた僕は、奇蹟のように復活した詩魂を傾注し、その彼女への”愛の詩”を謳った。表紙を友人に頼んで純白、トムソン(浮き出し)の形態にして完成させた限定五十部の「詩5.抱いて」は、結婚式の記念品として招待客の全ての人に持ち帰ってもらったのだった。
仕事と女房と三人の子どもに恵まれ、その幸せの維持の為に僕は再び書くことから遙かに遠ざかり、沈黙の歳月は知らぬ間に二十年という膨大な年月を過去へと押し流し、その状態は第6詩集「再甦」で不毛の詩の荒野から復活を遂げるまで延々と続いた。
その青春の蹉跌の時代に、僕は多くの師と出逢った。そのお陰が無ければきっとこうしてchronicleを綴る現実になど住まいしていなかっただろうことを想えば、人生はやはり、その時々の縁の糸の存在に尽きる!!と思えるのだ。そうして、その事の為にこそ自分に磨きをかけるべきなのだと。
TOKIはMachで
月日も時間も
音もたてずに、滑るように、軽やかに
全ての現在を包括して
唯、絶えず、永遠の昨日へ、
果て無い過去へ
有無を言わせず、運んでゆく
それぞれに戻れぬ極地へ
儚いそれぞれの目次へと
無表情に、
イノチの一行を、書き込みながら・・
嗚呼、僕は何度溜息を衝いただろう
嗚呼、僕は幾つの嘆息を吐いたろう
不文律の、その、
非情と否常のTOKIの掟に
06/05 22:31:31 万甫