降って来るもの

写真と散文とぽえむ

幾兎をも追って

2017-06-07 07:10:08 | 随想

          幾兎をも追って

 

 目覚めの時刻はその朝によって多少のバラツキはあるけれど、もう随分と前から四時半から五時の間に収斂され、其処から凡そ六時過ぎまでの”百分余り”が僕の思索と創造と執筆の為の必要不可欠な掛け買いのない-tokinomanimani-になっている。

 立春の頃の五時なら、依然として漆黒が支配する夜の部類の闇に属し、恐らく六時を迎えてもその包囲網は解かれずに自然光の兆しさえ封印された時間帯だったが、その容易に訪れなかった夜明けを暗示する明るさが、立夏を過ぎて最早ひと月を越え夏至まで三週間を切ったこの頃では、目覚める時刻には既に東の方角の山並みの上の空に早くも姿を現し白み始める風景を描き出している。

 何時でも快晴の空を確認すれば、僕はdeepblueを撮ろうと算段してカメラを袈裟懸けに”かわたれ”の風景の中へ飛び出す。そうして歩きながら脳裏を掠めてゆく思いを胸の原稿用紙に書き留め、降ってくるもの達の囁きをポケットのメモ帳に写し取り、時折に立ち止まっては肩から外したカメラを構えて、その新鮮な刺激の儘を内臓のUSBに蓄積してゆく。

 それはまるで高名な哲学者を真似るように。現代詩の重鎮の所作のように。時には童話作家の微笑みで。或いは連絡帳を開く保父さんの仕草のように。僕は様々な種類のbokuに変身してはそれぞれの一期一会の邂逅を胸奥の収納庫に保存してゆく。何時か、時のまにまにその扉を開ける時が来たら、浦島太郎とは違って、僕は其処から若々しい精神の匂い立つ秘密のkeywordを取り出すのだ。

 もちろん思い描くようには運ばない筋書きの展開もあるけれど、そんな時の事さえ原稿の餌食にしてしまう術を経験と知恵で身につけているのだと自負しながら、悠々と静寂の窮まる執筆時間を味わってゆく。

 過日には、風邪気味で頗るご機嫌斜めの”あひる組”が五時半に起きてきて纏わりついた。お陰で爺ぢいに変身を余儀なくされたボクは更新のための画像をデスクトップに保存しただけでその日のブログUPを断念。仕方がない、今第一義になすべきは孫との触れ合いなのだと納得づくで諦める。更新は意志と意欲を失くさない限り何時でも出来るのだから・・と上手に折り合いをつけ、否応なく途切れる日が来るまでは(何時いかなる理由でも廻って来てほしくはないが)二兎どころか幾兎をも追ってゆきたいと決意しているマンボだ。

 今朝の静寂は短針が六を過ぎる頃まで続いてくれた。そろそろ女房が起きてきて、暫く間があって孫が起きてくる。僕の思索と執筆の今日の一時限目もそれと同時に終了のチャイムが鳴るだろう。衣替えに因る年間で最も忙しい生業と、孫に関わる幸せを綯い交ぜにしながらの二限目からが幕を開ける。家族に「蒼唯」が加わってからは、5000歩の時間が確保できるかはその朝の様様な要因の結果次第と云うことになる。

*2017 06/07 07:10:07 まんぼ

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