8月5日~8月7日
久々の帰省。今回は全行程バス*(バス)*と電車だった。
初日は、早起きしておきながら、うっかり出発時刻を間違えていて、朝っぱらからタクシー*(車)*で稲毛駅へ。
でも、東京⇔仙台間のバスは、今まで乗ったバスの中でも最高級の乗り心地だった*(酔払い)*なのに、昼便で3,700円はお得!椅子は足もとがフラットになっていて、疲れ方が断然違った。
予定より早く着き、私は荷物を受け取りながら、思わず運転手さんに
「今まで乗った高速バスの中で、一番良かったです*(青ハート)*お疲れ様でした。ありがとうございました」
と声をかけていたほどだった。
久々の故郷宮城県は日差しは痛いほど暑かったけれど、空気はカラっとしてサラッとしてて、湿度がない分、暑くても快適だった。
夜、高校時代の友人に近所のレストランでごちそうしてもらい、何年かぶりで思いっきり話せて、楽しかった。
*(ジュース)* *(オレジュー)* *(コーヒー)* *(紅茶)* *(お茶)*
2日目は、妹と会津に行った。
実は、今回の帰省のメインテーマは、妹のお見合い相手に会いに行くことだった。
話があってから、3か月。その間、二人はメールのやり取りや電話で話しはしていたが、
「一度会ってみたら?」
と言われ、
形式ばった『お見合い』の席で会う前に、
「会津に会いに行っちゃおう!」
という私の提案に、本人たちも周りも賛成してくれ、気がついたら、私も一緒に行く羽目に・・・・。
当初の予定としては、昼食を一緒に取った後は、
「後は若いお二人で・・・」
とお邪魔虫は退散し、帰りのバスの出発時間まで一人で会津若松市内を散策する予定だったのだが…。
彼の友人の作るおそばを食べに行ったら、とても遠くて、会津若松まで一人で戻れなくなり、結局1日中同行することになってしまった。
最初、小学校の修学旅行以来という、『野口英世記念館』に連れて行ってもらった。
http://www.noguchihideyo.or.jp/
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/noguchi/hideyo.htm
彼が故郷を去る時に、床の間の床柱に刻んだ立志の文字や、母シカが英世に送った「きてくたされ」の手紙はを読んだ時は、小学校6年生の時に見た時とはまた違う感動で泣けた。
特に、清作(英世の幼名)が1歳の時、囲炉裏に落ちて大やけどをしたときに、シカが洗い物をしていた小川を見た時は涙が出た。
自分もまた、同じような経験があるからだ。
私もちょうど息子が2歳のときに、私が台所で洗い物をしていた時、居間で転んで頭をぶつけ、上まぶたを切ってしまったのだ。
その日は忘れもしない1月17日湾岸戦争勃発の晩。外はものすごい大雪で、私は臨月のおなかを抱えて、右往左往。
息子は
「ママ、ごめんね。ごめんね。ケガしちゃってごめんね」
と痛みをこらえて泣いている。
主人は遠方に出張中で、雪でタクシーも呼べず、止血はしたものの、傷口はバックリあいたまま。
まんじりともせずに夜を過ごし、朝一番で病院に行ったが、瞼の傷は残ると言われた。
よくぞ、目がつぶれなかったと安心しながらも、子どもの顔に傷を残してしまったことを後悔した。
「あの時、救急車でも呼んで、すぐに病院に駆けつけていたら、傷はもっとくっついていたのではないか」
出張から帰った主人は、臨月の私がそうやって悲嘆に暮れているのを見かねてか、
「男の子はこれから生傷は絶えないものだ。傷を作るたびにいちいち気に病んでいてどうする」
と慰めてくれた。
21歳になった今もうっすら残る傷跡を見るたびに、あの日のことが思い出されて胸が痛む母なのであった。
だから。今、母となってみる英世とシカの母子関係は、とても他人事とは思えず、見入ってしまい、一人で感動していた。
また、享年51歳で亡くなった英世と来年同じ年になる私。
彼が命懸けで取り組んだ研究とその足跡に、改めて敬意を表する。
*(山)* *(車)* *(山)* *(車)* *(山)*
午後からは大内宿に行った。
大内宿は、江戸時代の宿場の面影を今もそのままに残している山間集落。街道は会津西街道、南山通りまたは下野街道※と呼ばれ、 会津若松と日光今市を結ぶ重要な道でした。
http://www.ookawaso.co.jp/sightseeing/oouchi.html
江戸情緒たっぷりの宿場町風景を堪能し、かき氷をを食べに入ったお店で、この大内宿の保存を呼び掛けたのが武蔵野美術大学大学の民俗学の教授と聞いて、武蔵美同窓生の私と妹はなんだかすごくうれしくなった。
大内宿を後にし、一路会津若松へ。鶴ヶ城は現在工事中ということで、美しい雄姿を観られなかったことと、飯盛山は時間がなくて素通りしてしまったのが心残りだった。
妹のお見合い手の方は、終始フェミニストで、やさしい気遣いのできる方だった。地元の方だが、野口英世記念館も大内宿も、初めて訪れたのだそうだ。
そんな行ったこともないところに、初対面の私たちを乗せて、一日中車を運転してくださり、さぞやお疲れになったことだろう。本当にお世話になりました。
「智恵子抄」に出てくるような青い空と、目が洗われる様な緑・碧・翠…。
山々の緑も田園風景も、湖の木々や空を映す色も、皆美しくて目も心も癒された。
また会津を訪れるようなことがあったら、今度は赤べこの由来の寺があるという「柳津」を訪れてみたい。
*(バス)* *(バス)* *(バス)* *(バス)* *(バス)*
最終日は今度は高校時代の友人が家に迎えにきてくれ、そのまま10時に仙台で待ち合わせたもう一人の友人と3人で、仙台駅ビル・エスパルのお店をはしごしながらダベリまくった。
高速バスの出発時間の13時に行ったのだが、エアコン口調のため、別の車を配送しているのだが仙台七夕で道が混んでいるため、到着が遅れているとのことだった。
約1時間半遅れの出発は、東北自動車道で起きた交通事故のためさらに遅れ、最終的には終バスもなく、結局、帰りもタクシーを使うはめになってしまった。
まあ、盛りだくさんの二泊三日だったが、なかなか充実した帰省だった。
久々の帰省。今回は全行程バス*(バス)*と電車だった。
初日は、早起きしておきながら、うっかり出発時刻を間違えていて、朝っぱらからタクシー*(車)*で稲毛駅へ。
でも、東京⇔仙台間のバスは、今まで乗ったバスの中でも最高級の乗り心地だった*(酔払い)*なのに、昼便で3,700円はお得!椅子は足もとがフラットになっていて、疲れ方が断然違った。
予定より早く着き、私は荷物を受け取りながら、思わず運転手さんに
「今まで乗った高速バスの中で、一番良かったです*(青ハート)*お疲れ様でした。ありがとうございました」
と声をかけていたほどだった。
久々の故郷宮城県は日差しは痛いほど暑かったけれど、空気はカラっとしてサラッとしてて、湿度がない分、暑くても快適だった。
夜、高校時代の友人に近所のレストランでごちそうしてもらい、何年かぶりで思いっきり話せて、楽しかった。
*(ジュース)* *(オレジュー)* *(コーヒー)* *(紅茶)* *(お茶)*
2日目は、妹と会津に行った。
実は、今回の帰省のメインテーマは、妹のお見合い相手に会いに行くことだった。
話があってから、3か月。その間、二人はメールのやり取りや電話で話しはしていたが、
「一度会ってみたら?」
と言われ、
形式ばった『お見合い』の席で会う前に、
「会津に会いに行っちゃおう!」
という私の提案に、本人たちも周りも賛成してくれ、気がついたら、私も一緒に行く羽目に・・・・。
当初の予定としては、昼食を一緒に取った後は、
「後は若いお二人で・・・」
とお邪魔虫は退散し、帰りのバスの出発時間まで一人で会津若松市内を散策する予定だったのだが…。
彼の友人の作るおそばを食べに行ったら、とても遠くて、会津若松まで一人で戻れなくなり、結局1日中同行することになってしまった。
最初、小学校の修学旅行以来という、『野口英世記念館』に連れて行ってもらった。
http://www.noguchihideyo.or.jp/
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/noguchi/hideyo.htm
彼が故郷を去る時に、床の間の床柱に刻んだ立志の文字や、母シカが英世に送った「きてくたされ」の手紙はを読んだ時は、小学校6年生の時に見た時とはまた違う感動で泣けた。
特に、清作(英世の幼名)が1歳の時、囲炉裏に落ちて大やけどをしたときに、シカが洗い物をしていた小川を見た時は涙が出た。
自分もまた、同じような経験があるからだ。
私もちょうど息子が2歳のときに、私が台所で洗い物をしていた時、居間で転んで頭をぶつけ、上まぶたを切ってしまったのだ。
その日は忘れもしない1月17日湾岸戦争勃発の晩。外はものすごい大雪で、私は臨月のおなかを抱えて、右往左往。
息子は
「ママ、ごめんね。ごめんね。ケガしちゃってごめんね」
と痛みをこらえて泣いている。
主人は遠方に出張中で、雪でタクシーも呼べず、止血はしたものの、傷口はバックリあいたまま。
まんじりともせずに夜を過ごし、朝一番で病院に行ったが、瞼の傷は残ると言われた。
よくぞ、目がつぶれなかったと安心しながらも、子どもの顔に傷を残してしまったことを後悔した。
「あの時、救急車でも呼んで、すぐに病院に駆けつけていたら、傷はもっとくっついていたのではないか」
出張から帰った主人は、臨月の私がそうやって悲嘆に暮れているのを見かねてか、
「男の子はこれから生傷は絶えないものだ。傷を作るたびにいちいち気に病んでいてどうする」
と慰めてくれた。
21歳になった今もうっすら残る傷跡を見るたびに、あの日のことが思い出されて胸が痛む母なのであった。
だから。今、母となってみる英世とシカの母子関係は、とても他人事とは思えず、見入ってしまい、一人で感動していた。
また、享年51歳で亡くなった英世と来年同じ年になる私。
彼が命懸けで取り組んだ研究とその足跡に、改めて敬意を表する。
*(山)* *(車)* *(山)* *(車)* *(山)*
午後からは大内宿に行った。
大内宿は、江戸時代の宿場の面影を今もそのままに残している山間集落。街道は会津西街道、南山通りまたは下野街道※と呼ばれ、 会津若松と日光今市を結ぶ重要な道でした。
http://www.ookawaso.co.jp/sightseeing/oouchi.html
江戸情緒たっぷりの宿場町風景を堪能し、かき氷をを食べに入ったお店で、この大内宿の保存を呼び掛けたのが武蔵野美術大学大学の民俗学の教授と聞いて、武蔵美同窓生の私と妹はなんだかすごくうれしくなった。
大内宿を後にし、一路会津若松へ。鶴ヶ城は現在工事中ということで、美しい雄姿を観られなかったことと、飯盛山は時間がなくて素通りしてしまったのが心残りだった。
妹のお見合い手の方は、終始フェミニストで、やさしい気遣いのできる方だった。地元の方だが、野口英世記念館も大内宿も、初めて訪れたのだそうだ。
そんな行ったこともないところに、初対面の私たちを乗せて、一日中車を運転してくださり、さぞやお疲れになったことだろう。本当にお世話になりました。
「智恵子抄」に出てくるような青い空と、目が洗われる様な緑・碧・翠…。
山々の緑も田園風景も、湖の木々や空を映す色も、皆美しくて目も心も癒された。
また会津を訪れるようなことがあったら、今度は赤べこの由来の寺があるという「柳津」を訪れてみたい。
*(バス)* *(バス)* *(バス)* *(バス)* *(バス)*
最終日は今度は高校時代の友人が家に迎えにきてくれ、そのまま10時に仙台で待ち合わせたもう一人の友人と3人で、仙台駅ビル・エスパルのお店をはしごしながらダベリまくった。
高速バスの出発時間の13時に行ったのだが、エアコン口調のため、別の車を配送しているのだが仙台七夕で道が混んでいるため、到着が遅れているとのことだった。
約1時間半遅れの出発は、東北自動車道で起きた交通事故のためさらに遅れ、最終的には終バスもなく、結局、帰りもタクシーを使うはめになってしまった。
まあ、盛りだくさんの二泊三日だったが、なかなか充実した帰省だった。