2月8日(日)
今日は調布の文化会館で行われた「実篤を聴く」という朗読会に行った。
主催は、調布市武者小路実篤記念館で、文化会館での「武者小路実篤の世界」展とのタイアップ企画だ。
演出は、テアトル・エコー時代の恩師、川和孝先生。年頭にわざわざ封書でご案内を頂いた。
私は「朗読会」というのは初めての経験だった。
今回聴きに行く動機としては、それだけでなく、もうひとつ理由があった。
調布市武者小路実篤記念館は、私の主人のプランナーとしての初仕事であった。
当時、実篤の三女の辰子さんが、実篤の念願の美術館の建設と、収蔵品の保管を兼ねた記念館の企画を調布市と進めていた。
そこで、主人が依頼を受け、辰子さんと頻繁に打ち合わせをして昭和60年の開館にこぎつけるのである。
その頃、私も中学時代に読んだ実篤の本を読み返し、記念館のオープンにも出かけて行った。
その時は時間がなくて、「仙川の家」まで行きながら、庭を見て歩けなかったのはいまだに心残りだ。
今回の朗読を聞き、改めて実篤の生き方や、思想にとても共感した。
「人生論・愛について」(新潮文庫)や、「人生論・健康について」(岩波書店)は、90歳まで生きた実篤の人生観がにじみ出てくるようなとても説得力のある内容だった。
「本当の画」(『美術論集』実業之日本社)と「素人と玄人」(『画をかく喜び』創現社)は、美術教師のみならず、創造活動・自己表現を目指す私にとっては、何よりものエールだった。
読み手の方は皆さん役者さんだったが、芝居とは違った『朗読』という表現方法は、私にとってはとても新鮮で貴重な体験だった。
開演時間に遅れたために1回目の最初の部分を聞き逃したので、2回目も最初から最後まで聞いた。
2回目はより内容が理解できて、ラッキーだった。
私の愛読書に『声に出して読む日本語』という本があるが、声に出してこそ、人の声を通してこそより伝わるものもあるのだと思う。
『朗読』とは単なる『音読』ではなく、内容を深く読み込んだ読み手が、自分の『声』を通して、作者・筆者のメッセージと伝えるという表現活動なのだと思う。
『朗読』という表現方法と、『武者小路実篤』という人物像と作品に『再会』出来て、実に充実した1日だった。
今日は調布の文化会館で行われた「実篤を聴く」という朗読会に行った。
主催は、調布市武者小路実篤記念館で、文化会館での「武者小路実篤の世界」展とのタイアップ企画だ。
演出は、テアトル・エコー時代の恩師、川和孝先生。年頭にわざわざ封書でご案内を頂いた。
私は「朗読会」というのは初めての経験だった。
今回聴きに行く動機としては、それだけでなく、もうひとつ理由があった。
調布市武者小路実篤記念館は、私の主人のプランナーとしての初仕事であった。
当時、実篤の三女の辰子さんが、実篤の念願の美術館の建設と、収蔵品の保管を兼ねた記念館の企画を調布市と進めていた。
そこで、主人が依頼を受け、辰子さんと頻繁に打ち合わせをして昭和60年の開館にこぎつけるのである。
その頃、私も中学時代に読んだ実篤の本を読み返し、記念館のオープンにも出かけて行った。
その時は時間がなくて、「仙川の家」まで行きながら、庭を見て歩けなかったのはいまだに心残りだ。
今回の朗読を聞き、改めて実篤の生き方や、思想にとても共感した。
「人生論・愛について」(新潮文庫)や、「人生論・健康について」(岩波書店)は、90歳まで生きた実篤の人生観がにじみ出てくるようなとても説得力のある内容だった。
「本当の画」(『美術論集』実業之日本社)と「素人と玄人」(『画をかく喜び』創現社)は、美術教師のみならず、創造活動・自己表現を目指す私にとっては、何よりものエールだった。
読み手の方は皆さん役者さんだったが、芝居とは違った『朗読』という表現方法は、私にとってはとても新鮮で貴重な体験だった。
開演時間に遅れたために1回目の最初の部分を聞き逃したので、2回目も最初から最後まで聞いた。
2回目はより内容が理解できて、ラッキーだった。
私の愛読書に『声に出して読む日本語』という本があるが、声に出してこそ、人の声を通してこそより伝わるものもあるのだと思う。
『朗読』とは単なる『音読』ではなく、内容を深く読み込んだ読み手が、自分の『声』を通して、作者・筆者のメッセージと伝えるという表現活動なのだと思う。
『朗読』という表現方法と、『武者小路実篤』という人物像と作品に『再会』出来て、実に充実した1日だった。