明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(762)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(下)

2013年11月09日 08時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131109 08:00)

肥田先生とプフルークバイル博士の会話の3回目(最終回)です。

今回は、肥田先生が、放射線治療の方法をアメリカ軍から聞き出そうとして、交渉に臨んだことなどが出てきます。こうしたことには、肥田先生の、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた闘士としての片鱗がのぞいています。
僕はこの点は、あまりみなさんが気づいてないところであるように思えます。肥田先生は見るからに柔和で優しい老紳士ですが・・・実際にそうですが・・・本当にいろいろな経験を経てこられています。
そのため人を見る眼もとても鋭く、数回会っただけで、相手のかなり深いところを見抜いてしまわれるようなところがあります。ヒバクシャを守るため、そして人々の権利を守るため、GHQや政府と長年渡り合って培われてきた鋭い眼力があるのです。

僕は先生の、ある意味ではよく知られてもいる被ばく体験、被ばく医療体験だけでなく、ここにも示されたような人生の様々な断片、なかでも戦後医療の理想的な改革をめざして、さまざまに重ねられた創意工夫のすべてに学ぶ必要性を感じています。
そこにこそ、現代を生きる私たちにとって珠玉の知恵が詰まっていると感じるのです。

・・・そんなことも頭の片隅に置きながら、対談の最後の一幕をお読みいただけると嬉しいです。

*****

肥田・プフルークバイル対談(下)
2013年11月3日

松井 
福島原発事故のあと、福島県民健康管理調査がやられていて、子どもの乳歯を調べようと言う提案があったけれど、止められてしまいました。
肥田
福島では山下という男がいて、福島医大の副学長になってしまいました。長崎の原爆についてあることないこと吹聴して、彼はでたらめな人間です。嘘ばっかりついて。
それが福島県の医師会と医学界を政治的におさえて、発言させないし、研究をさせないのです。

松井
福島では山下だけではなくて、他にもいろいろなものが、被ばくを研究させなかったのですね。山下だけではなくて、他にも山下のような人物がいた。
セバスチャンは、この間の市民国際会議のときに、山下をグリム童話の悪い小人になぞらえて、「小人はかれだけではない」と最後の方の司会としてのまとめとして言われたのです。
肥田
要するに保身から立身出世したいのが、そういうことをどんどん思いついてしまうから。

守田
岩波新書で暴露本が出ました。『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』というとてもよく書かれた本です。
ここで福島県の県民調査では、一般に公開する会議の前に、あらかじめ全部裏会議をやっていて、これに関してはこう発表するとか細かく決めていたことなどが書かれていました。
肥田
そういうやり方はみんなアメリカから来ているのです。安保条約の中で。今でも放射線は軍事機密になっている。だから今でも強烈なアメリカの指導がある。

僕は今でも不思議で仕方がないのは19万3千人の子どもの中で43人も甲状腺が出た。100万人に数人のものが出たのに、日本の放射線学会も、甲状腺学会も何も言わない。
何年か経ってもっと明らかになったら、世界中からもの凄く批判されますよ。世界に隠したのだから。

松井 
世界の良心的な人たちから今でも批判は出ています。ただ困ったことは、国連の安保理のすぐ下に、IAEAとUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)があることです。
IAEAが福島に早い時期から乗り込んできて、彼らが福島県立医大、福島県、外務省との間に協定を結んで、福島に健康被害は起こってないと言っている。
そういう意味では国連そのものが、日本政府にも圧力をかけているという構造的なものがあります。これをなんとかしないといけない。
被爆者の骨の中にストロンチウム90があって、骨髄が被曝しているということを書いた研究者を抑圧した占領軍のやり方が、そのまま今、福島に引き継がれているわけです。それが深刻なところです。

肥田
GHQ、マッカーサー司令部に直接にいって、最高の軍医に会って、日本の良心的な医師が困っていることを訴えにいった経験が私にはあります。初めは厚生大臣にアメリカに交渉して欲しいと言いました。
良心的な医者がいろいろと被爆者を診た資料まで全部没収して、治療を妨害している。人道的な問題だから、人を助けることだけはちゃんとやらしてくれと渡り合ってくれと、団体交渉でやりあったのです。
でもなんぼいってもいかないのです。「天皇でもいけないのにいけるわけはない」という。それで喧嘩になって、「そんな生意気なことを言うならお前が代理と名乗っていいからお前がいけ」といわれました。

それで、「俺が行く」と言いましたが、行くといったって、マッカーサー司令部には中にすら入れない。でも私は軍人だったので、自分の病院に傷病兵が帰ってきて、その部隊が秘密の部隊だったら、なんぼ家族が面会に来ても入れないことを知っていました。
そのときにどういうことになるかと言うと、毎日家族が来るのです。そうすると衛兵が顔なじみになって同情するわけだ。「あんたは何をしたいのか」というと「子どもが生まれたので一目見せたい」と言う。
「それなら俺が兵隊を連れてきて門の外に出さずに中に立たしておく。お前は外から赤ん坊を見せろ。それならできる」ということになる。

そういうことを知っていたから、衛兵と仲良くなればあてができると思ったのです。3回も5回も行けば、何とかなる。それでとうとう中に入ったのですよ。
最初に行ったら衛兵が立っている。「約束がないなら帰れ」という。そいつが次にでるのが3日目なのですよ。「また来たか」という顔をしている。さらに3日経っていくと、「お前何の用があるんだ」という。
「若い軍医と会いたい」と言ったら「そんなの中に入る必要はない。俺がここに連れてくるから」というので、若い軍医と初めて会いました。

アメリカの若い、僕と同じ軍医中尉が出てきました。それに医者として人道的に困っている問題を訴えて、こういうことを中で頼みたいといったら、「俺が軍医部の一番偉いやつに会わせてやる」ということになって、結局、偉いのに会ったのです。
決められた日に呼ばれて、中に入ることができて、軍医大佐に会いました。かなり偉い人です。その人に日本の医者が困っていることを話したわけだ。
患者を診て助けたいのだけれど、何をどうしていいかわからない。アメリカは原爆を作った方だから、いろんなことを知っているだろうから、「人道上の立場で治療上に必要なことだけを教えてくれ」と言いました。原爆の作り方とかはどうでもいい。
英語を書いて持っていって、読まなくても言えるようにずいぶん練習もしていきました。

それに対して向こうがこう言いました。「お前の言っていることはよく分かった。しかしその問題を左右する力をマッカーサー司令官は持っていない。すべて本国政府が決める。アメリカの大統領でなければ決められない。
原爆に関することは、被害であろうと何であろうと全部、軍事機密で、すべて大統領決済になる。」
私は「では自分がここで頼んでいることを、大統領に伝えてもらえるか」と言いました。でもちょうど、そのころアメリカは朝鮮戦争をはじまる直前で、対日占領軍のメンバーがすべて変わっていたのですね。
初めは日本の民主化を助ける桃色の連中が来ていたのだけれど、ぎりぎりの戦争屋に変わったところだったのです。だから「そんなことは絶対にできない」といってえばっているのです。

最後に帰る前に、「お前にひとこと言うことがある」と向こうが言うのですよ。
「お前の国は戦争に負けた。普段でもお前は軍医中尉で、俺は軍医大佐だ。だからまともに会ってやるような状態ではない。しかもお前の国は負けたのだから、俺はお前に会ってやる必要などない人間だ。でも部下が言うから会ってやったのだ。」
「お前は人道的に正しいことだから、どこでもそのことは通ると思ってきたのだろうと思う。しかし戦争の中では人道的に正しいとか正しくないとか、そんなことは全然、無意味だ。決定するのはパワーだ。”Power is almighty”(力こそ全能だ)」と言ったのです。
聞いて腹が立ってね。人間の命のことで相談に来ているのに、”Power is almighty”と説教までしたので、この連中に日本から帰ってもらわなければ、日本人はいつまで経っても人間になれないと思ったから、今日から俺は、この連中を追い出す立場で働くと決心したのです。
ひとりではどうしようもないから、かねがね、日本の政党の中で、日本の独立を論じていたのは共産党しかなかったのですね。だから帰りに渋谷まで行って、共産党の本部まで行って、「私を共産党に入れてください」と言ったのです。

―プフルークバイル夫妻、大いに喜ぶ!

松井
アメリカ軍の大佐とあったのはどこだったのですか。
肥田
マッカーサー司令部です。今の日比谷公園の日本生命の本社があるところです。

プフルークバイル
少し質問しても良いでしょうか。
肥田
どうぞどうぞ。少し私ばかり話過ぎましたね。

プフルークバイル
日本の医者の中には、原発と核兵器が違うものだと思っている人がかなりいるように思うのですがその点はどうお考えでしょうか。

肥田
そうだと思います。彼らは原爆についても正しい知識を持っていない。ただ大きな爆弾で町が一つ吹き飛んだ。何十万も殺されたというだけで。急性放射線症でまずたくさん殺されました。
それから内部被曝が長い時間かけて体を蝕んできました。こういうことは何にも知らない。内部被曝をまったく知らないのです。あのときだけだと思っている。だから原発は別のものだと思っているのです。

プフルークバイル
ご自身はどうでしたでしょうか。原発と核兵器の関係に気づいていましたか?
肥田
そうです。原発が入ってくるときに、一番、反対して運動した方だから。原発は事故のないときも、日常的に放射線をずっともらしているわけです。
それを無害だと言っているだけで、われわれはそれを吸い込んだり、畑の作物についたものを食べたりして病気になることを僕らは研究して知っていたから。
カナダの医者のペトカウが、放射線の害について、体内に入ったものについて量が少ないほど危険だという論文を書きました。アメリカは彼を「狂人」だといって阻害した。僕はその人の論文を翻訳しました。
アメリカでペトカウの理論を大事にするスターングラスという教授に会って、いろいろと教えられました。内部に入った放射線がどういう風に体を侵すのかというところまで一応、勉強したのです。
私はアメリカの研究者が内部被曝を詳しく研究して書いた本を5冊、読んで翻訳したのです。世界の最高レベルの内部被曝の知識を個人的には勉強しました。

守田
先生は70歳ぐらいから、臨床のお医者さんをしながら、次々と本を翻訳されたのです。

プフルークバイル
先生に比べたら私たちはまだ大変若いわけです。自分は1970年代に放射線のことを調べ始めて、そのときにもう、先生の書かれたものを読んだ記憶があります。
そのあとでウラン鉱山の問題ですとか、原発の問題をずっと研究してきたわけですけれども、今日、こうしてお話をうかがったことで、これからもこの分野で仕事をしなければならない、していきたいという思いを新たにしました。
ありがとうございました。

終わり

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明日に向けて(761)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(中)

2013年11月08日 12時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131108 12:00)

昨日の肥田先生とプフルークバイル博士の語らいの続きです。
今回収録部分で肥田先生が語られているのは、内部被曝についてです。原爆投下後の数日間、人々は熱線と原爆から飛び出した放射線にやられて、バタバタと悲惨に亡くなっていきました。
この放射線は「初期放射線」と言われているもので、中性子線とガンマ線がその正体です。原爆が破裂して1分以内に地上に到達したものと定義されています。激しい外部被曝を及ぼしました。

ところが1週間ぐらい経ってから、原爆投下時に広島市内におらず、熱線も初期放射線も浴びてない人が倒れだしました。放射能が蔓延する広島市内に入ってしまい、放射性の塵をたくさん吸い込んで内部被曝した方たちでした。
肥田先生は、初期にバタバタと亡くなっていった人々に続いて、内部被曝で倒れた人たちを診ていくことになります。そのまま生涯を内部被曝との格闘に費やされていくことになりました。なぜか。アメリカがそれを隠そうとしたからです。
今回は、肥田先生が初めて内部被曝に倒れたヒバクシャと出会った話から始まります。

*****

肥田・プフルークバイル対談(中)
2013年11月3日

肥田
それから、1週間ぐらい経ってから、患者自身が、「先生、自分は爆弾にあっていません」いうのが寝ているのですね。診るとなるほど焼けてない。
「どうしたんだ」と聞いたら、「自分は広島から何十キロも離れた別の部隊にいて、翌日、救援のために広島に入った兵隊なのです。
それで焼けている火の中で、人を助けたりしているうちに、労働が激しくて、脱水症状で意識を失って倒れた。仲間にかつがれて、医者のいるところに連れてこられた。

寝ているから私がそこにいったら、本人が訴えるのです。「軍医殿、自分は原爆にあっておりません。」
来たのは翌日のお昼です。人を助けているうちに、倒れて、僕らがみているところに連れてこられたので、寝ていて、医師がきたらみてもらおうと思った。
本人は周りが火傷して死んでいく中に寝ていてみているから、どうなると死んでいるか分かっている。目や鼻や口から血が出て、頭の毛がとれて、紫斑が出ると死んでいく。
すると自分が寝ていたら紫斑がでてきた。それが出ると死ぬのをみているから、私の腰をひっぱって、「軍医殿、自分はピカにあっておりまへん」というのです。
被爆者は原爆のことをピカというのですよ。それでどうしたと言ったら、今の話だった。原爆に会ってないのに、後から町に入って、気分が悪くなったという。

4、5日経って、またその場所で死人が出て呼ばれたのでいきました。30人ぐらいが寝ている。「ここに、自分は原爆にあってないといって寝ていた兵隊がいた。
あれはどうした?帰ったか?」と聞いたら、「死にました」と周りの人はいう。
「えーっ」と思いました。原爆にあってないのが死んだというのだから。それでどんな風だったと聞いたら、みんなと同じだったという。

一番典型的な例は、ある若い夫婦の話しです。もともと日本海の側(松江)の人だけれども、旦那が広島の県庁に勤めて広島に越してきた。
ちょうど1年経って、奥さんがお腹が大きくなった。原爆の落ち1週間ぐらい前に、おっかさんのところで子どもを産むということで。日本海の町に帰った。旦那1人残って県庁で働いていた。

そうしたら爆弾が落ちて、生まれた子どもを抱えていたら、ラジオや新聞で広島が大変だということを見た。しばらくは原子爆弾という新型爆弾が落ちて、相当な被害がでた模様というだけでよく分からない。
やがて松江の人で、広島に親戚がいるので見に行った人がいた。それが帰ってきてあることないこと話す。広島は焼け野原で誰も生きていないという。
人がみんな死んだと聞いて、びっくりして、子どもをお母さんに預けて、ちょうど1週間目に広島にでてきた。

町のかなり遠くから歩いて広島に入った。一面の焼け野原で何が何だか分からない。
近くの村の人が親切に「心配だからうちに泊まりなさい」と言ってくれて、郊外の農家に泊まって、そこから毎日、自分が住んでいた辺りの焼跡を歩いた。近所を探したけれど、訳が分からない。
そのうちに、「焼け跡を幾ら探しても分からない。もし旦那が生きているならば、周りの村に逃げているかもしれないから、生きている旦那に会いたければ、周りの村を歩けと言われて、あちこちの村を歩いて、僕のいる村にもやってきた。
そこでぴったりと旦那と会うことができたのですよ。珍しい例でした。

旦那は広島の県庁の地下室で被ばくをして、上から天井が落ちてきて、大腿骨折で折れた骨が外に出ていた。そのまま担架に乗せられて、火の中を逃げて、私のいた村に親戚があったものだから、やってきて、そこで寝ていた。
土蔵があって、重傷の人が何人か寝ていた。その中に彼も寝ていた。衛生兵が回ってきて、「俺が治してやる」と柱につかまらせて、足をぎゅっとひっぱった。そうしたら折れて飛び出していた骨が中に入った。
包帯も何もないから、ぼろきれを拾ってきて撒いて、竹の棒を荒縄で縛って、一応、理屈にある治療を受けて寝ていた。そこに松江から出てきて、村を回った奥さんがやってきて、会った。それで奥さんは旦那の看病を始めたわけだ。
そうしたら、その奥さんに熱が出て、いろんな症状がでてきて、旦那より重症になってしまった。15日ぐらい広島に入って、一週間、市内を歩いて、それから来たわけですが、熱が出始めて、血を吐いて、9月15日に死んだのです。

アメリカは、原爆を落とす前から、内部被ばくで、あとあと症状がでることを知っていたのですね。そのことを隠すことが目的でした。
後から市内に入って、原爆をあびてないのに死ぬというのは不思議だから、それをみた私たちが話題にしてしゃべるじゃないですか。それがすぐにアメリカにばれるのです。
それを聞いたアメリカはすぐに放送をしてね、「原爆の被爆者の中で、原爆を浴びていないのに、後から町に入って、症状が出て、具合が悪くなることがかなり騒ぎになっているようだけれども、それはまったく原爆とは関係ない」という放送です。それをもうやっているのですよ。

アメリカが占領したのは9月2日だった。ちょうど3週間ぐらい。その前の日から、日本のラジオを通じて、アメリカの占領軍司令官の命令という形でそのことがでてくるのです。
僕らはめったにラジオを聞けないのだけれど、聞いていたやつがこういうことを言っていたと教えてくれた。しかしよく分からないのですね。
要するに、焼跡に後から入ってものからたくさん病気がでていると日本で言っているけれども、マッカーサーの方では「それは放射線とは関係ない」という放送を最初から始めたのです。

アメリカは落とす前から、放射線による被害の中で、内部被曝が一番問題だという意識を持っていたのです。それさえ隠せば、爆弾の大きさは、橋が落ちたとか建物が焼けたとか、そんなものは時間が経てば消えていく。
いつまで経っても残るのは放射線の害なのです。これだけは隠すというのが向こうの方針だったのです。

ずっと後になって、10月ごろに、11月ごろかな。日本の学者が焼跡に入って、血液を採ったり、死因などを調べているのです。
その中でストロンチウムが骨に沈着して、造血機能がやられている。骨の中の骨髄で血液を作っているのだけれど、骨が被曝するから、中の血液がやられるということを、研究した学者がいるのです。それを印刷して、僕らにも配ってくれた。
すぐに占領軍が動き出して、それを止めて、本人を逮捕して、研究が止められた。向こうがそうやって必死に隠すことに本質があるのだとこっちも思うから、そこを一生懸命、勉強したわけですね。

プフルークバイル
名前は分かりますか?
肥田
分かります。東京大学教授です。後で名前を教えます。論文もあります。
そのときは逮捕されて没収されたのですが、みんなで運動をしたのです。こういうときはマッカーサーといくら交渉してもだめなのですよ。厚生省を通じて本国政府とやったのです。
そうしたら没収されたものは返さなかったけれど、本人は釈放はされました。

ただあのころの日本の学界の偉い方たちは、自分の保身のために向こうにつくのがいっぱいましたから、その先生をみんなが支持しなければいけないのに、似たような有名なのがむこうについてしまって悪口言うのが出てきました。あのときは情けなかったですね。
当時の日本の放射線学者とか、臨床の方でも放射線についての専門家はたくさんいましたが、ほとんど向こうにくっついてしまった。

続く

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明日に向けて(760)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(上)

2013年11月07日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131107 23:00)

このところ忙しさにかまけて、「明日に向けて」の更新が滞ってしまいました。すみません。
さて、今回は、被爆医師、肥田舜太郎先生と、ドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイル博士とのビック対談を取り上げたいと思います。

プフルークバイル博士は、日本の医師たちとの対話などのために、10月半ばから日本に来られています。10月25日、26日には京都にも来られ、そのときもお会いしました。
京都では、関西の医師たちとの会談を目的にされたのですが、同時に、これまで何度も日本に来られていながら、観光をしたことがないとのことで、ささやかでしたが京都観光の案内もさせていただきました。
25日の夜は、岩倉のNONベクレル食堂にいって、集まったたくさんの方と歓談。同時にとても貴重なインタビューもさせていただきました。
それやこれやの報告も今後、させていただきますが、今宵は、スペシャルな対談である、肥田先生への訪問のお話です。

この訪問は、内部被曝問題に一貫した取り組みをされてきた、医師で岐阜環境医学研究所長の松井英介さんのプロモートで実現されました。
当日は、プフルークバイル博士と、今回一緒に訪日されているお連れ合いのクリスチーナさん、松井先生と、お連れ合いの松井和子さん、ドイツ語通訳の山本知佳子さん、それに守田がお訪ねしました。
肥田先生の秘書役を務めてくださっている辻仁美さんが私たちをピックアップしてくださいました。

ちなみに肥田先生は現在96歳。来年のお正月で97歳になられます。プフルークバイル博士は67歳ですが、肥田先生の息子さんが同い年なのだそうです。
お二人は一世代違いますが、放射線防護、そして内部被曝問題への関わりの熱さは共通のことです。この素晴らしい会合に同席させていただいてとても幸せでした。
お話はプフルークバイル博士が、肥田先生に質問し、お話を聞く形で進みました。記録を書き起こしますので、どうかその場に一緒にいたつもりになってお読みください!

*****

肥田・プフルークバイル対談
2013年11月3日

プフルークバイル
今日はお時間をとってくれてありがとうございます。
肥田
ドイツには8回行きました。当時は東には行けませんでした。

プフルークバイル
広島のことについて、いろいろなされてきたことを本でも読んだのですが、幾つか質問させていただいてもいいでしょうか。
原爆が広島・長崎に投下されてから、およそ5年間の間、情報が隠されていたと聞きましたが、どうしてそういうことが可能だったのでしょうか。アメリカがやったのでしょうか。
肥田
アメリカは戦争が終わるときに上陸してきた、軍事占領をやりました。占領という形ですから、われわれは無力で、こちらから何を言っても通じませんでした。アメリカが一方的に占領軍として振る舞ってきた。それが原因ですね。

プフルークバイル
公式の命令という形で秘密にしなければいけないと言われたのか、事実上、秘密になっていて、誰も口を開かなかったのか、どっちなのでしょうか。
肥田
文章には残ってないのですけれども、マッカーサーが占領軍司令官という形で命令を出しました。絶対権力者でしたから。日本の政治家も軍人も、誰も一言も応答ができない。頭からこうしなさいといういい方です。
国民には、原爆の被害については、一切、軍事機密である。だから自分の症状についてもしゃべってはいけないというような厳重なものでした。文章としては残ってないけれども、命令としてなされました。

プフルークバイル
マッカーサー将軍が権力を握っていたのですね。
肥田
彼はアメリカ軍の司令官であるだけではなくて、連合軍の総司令官でした。だから日本と戦ったすべての国の司令官として占領を行ったのです。
マッカーサーが中心にいるわけだけれども、日本を細かく行政区に分けて、全部に彼の部下を配置しました。広島には広島の軍の司令官がいて、上からの命令が下りてきて細かく占領されました。
僕らの周りには、アメリカの憲兵がいて、町の中を細かく支配していた。
とくに占領直後は、日本の軍隊が管理されて、軍隊の抵抗はほとんどできなかったし、しなかったのだと思います。

その次にアメリカが恐れたのは、被爆者の実情が世界に知られることでした。だから広島・長崎の管理はとくに厳重だった。
当時、広島は建物は何もない。生き残ったものががれきの中に寝転がっていた。そこを僕が歩き回って相談したりしていた。僕らがやけどの治療などをしていると、必ず米軍の憲兵がそこにくるのですよ。何をしているのかを見ている。
私は医者ですから、重症が寝てれば回ってきてそこに来るわけですね。他に医者がいないわけですから。そうすると、特定の被害者のところにいって、何か画策しているのではと疑いをもたれる。だから絶えず私が行って治療するところは、憲兵が来てずっと見ていました。

松井 
その頃、先生を含めて生き残った医師は何人だったのですか。
肥田
僕の周りでは5人ぐらい。もともといた市内の開業医はほとんど自分もやられていますから、生きていてもやっと寝ているぐらいでしょう。活発に動ける人はぜんぜんいませんでした。

クリスチーナ・プフルークバイル
医師の数が少しずつ増えていって、状態が改善されていったのはいつごろからですか。
肥田
6日に爆弾が落ちて、9日から九州や四国の軍隊の軍医が、衛生兵や看護婦と薬品などを持って応援にきましたから、9日からは少し手が増えた。
広島はだいたい、直径が4キロぐらいの町です。爆心地に近い辺りはほとんど即死しています。助かったのはその周辺にいたのに住民にしても兵隊にしても生き残ったものがでた。
私たちは6キロ離れた戸坂村にて、そこに3万人も逃げてきましたから、それを診ていて、結局そのままその村にくぎ付けになって、その人たちを専門に診ていました。
広島市内に、患者が、日赤病院とか逓信病院とか、もともと病院のあったところに医者も患者も集まった。焼けたボロボロの中で一つセンターができる。結局4つセンターができました。僕のところは大きくて3万人いた。もうひとつ可部という西の方に大きな塊ができた。
市内に2つ、全部で4つ、医者がいて治療のできる塊ができた。

僕のいた村は人口が1300人でした。そこに3万人もきたのですから、いるところがない。建物もみんな崩れている。結局、学校の校庭や道路にみんな寝た。
最初の3日間、ほとんど寝ずに患者をみました。死んで行くのをみるだけだった。治療をして助かるなんて状態ではなくて、上半身がみな、やけどですからね。
当時はやけどの治療法が間違っていました。軟膏を塗りつけました。ホウ酸軟膏という白いものをべたべた塗った。今考えると間違いです。今は水をかけて冷やして洗うのが基本です。当時はホウ酸を塗りつける。ところが薬がぜんぜんない。
仕方がないので、農家から菜種油をだしてもらいました。大事な、食べている油ですが、それを出してもらって、バケツの底に入れて、ぼろきれを入れてべちゃべちゃにしました。それを小学生の男の子に持たして、女の子がぼろきれに油をつけて、寝転がっている患者に塗って歩くというのが唯一の治療だった。

松井
小さい子供がだいじな手伝いをしたのですね。
肥田
村の中には壮年はみんないませんでした。男も女もみんな動員されて、戦争の準備として建物を壊したりしていました。いたのは年寄り夫婦と小学生でした。中学生以上はみんな動員されていた。だから僕の相手をしてくれたのは、おじいさんやおばあさんと小学生で、それがいろいろな手伝いをしてくれました。
患者が死ぬと、担架にのせて、どこかに運んでいくのですね。林の中に死骸を集める。それはおじいさんしかできない。大きな竹の棒を切ってきて、荒縄を渡すと臨時の担架になる。それに死んだ人を乗せて、みんなから見えない遠くの林の中へおいてくるのです。
それを60、70くらいのおじいさんが二人で持つのだけれど、重たいのは上がらないのです。担架をずるずるひきずっていきました。死んでいるからいいようなものだけれど、そんな具合でした。

クリスチーナ・プフルークバイル
痛み止めなどはもちろんなかったのですよね。
肥田
ぜんぜん。そんなものは。

内科的に症状を訴えるなどということはまったくなくて、死ぬか生きるかだけだった。初めの3日ぐらいはね。
僕が呼ばれるのは死人がでてきたときでした。死んだことを医者が認めなければ、死人にならないのです。焼き場に持っていけない。村長からも「生き死にだけをみてください」と最初から言われているから、死んだところに飛んでいって、証明するだけでした。
最初に、放射線ということはわかりません。原爆ということも分からないわけだ。ただ火傷で人が死んでいく中で、内科的な症状が初めて出てきたのは3日目なのです。8月9日の朝でした。

そのときはね、前の日の夜に看護婦さんがたくさんきてくれたのです。九州と四国からたくさん来ていた。その連中が、道路に寝ているものたちのところに出て行って、みんな診てくれたのですね。
そうしたら、「軍医殿、40度の熱が出ています」という。内科の患者で40度の熱がでることはまずない。マラリアとチフスぐらいです。だから40度出るというと、看護婦も自分で判断できないから医者を呼ぶのですね。大きな声で「軍医殿、軍医殿」と呼ぶから近くにいるものが飛んでくる。
体温計をみると確かに40度出ている。でもなぜ出ているか分からないのです。そのとき、一番びっくりしたのは出血です。鼻と口から血を吐く。それは普段から見ているから驚かないのだけれど、目尻から出てきて、それはみたことがなかった。「あっかんべー」をする白いところから、たらたら、たらたら、血が出てくる。
それで、全部焼けているから聴診器があてられないのです。脈をとろうと思っても、手も焼けている人が多い。聴診器をあてるのが苦労でしたけれども、そのうちに鼻や口や目尻から血がでるだけでなくて、吐くようになった。
下から、肛門からと女性の前の方から下血が起こった。みんな、地べたに筵をひいて寝ているのですが、それがたちまち血の海になっていく。
僕ら、膝をついてみているわけでしょう。するともう腰から下が、出てきた血でべたべたになってしまう。次から次にそれがあるわけ。

医者ですから、高い熱が出ているから、夜も地べたに寝ているわけだから、扁桃腺が腫れているに違いないと思う。それで無理やり口の中を開けてみてみた。
すると普通、口の中は桃色で赤いでしょう。真っ黒なのですよ。腐敗していてネフローゼを起こしている。無理やり開けると臭いんですよ。腐敗臭ですからね。それが特徴でした。
それともう一つ、あのときの特徴は、焼けていない肌に紫色の斑点がでるのです。紫斑といいます。ちょうど鉛筆のお尻に紫色のインクをつけてポンポンポンとやったような感じで。紫斑です。それがいっぱいでる。

最後に特徴的なのは、みんな苦しいからなんとなく頭に手をやる。そうすると男も女も手が触れたところの毛がみんなとれてしまう。脱毛という感じではないのですね。あれはなんと言ったらいいのでしょうね。
教科書をみると、今は「脱毛が起きた」と書いていますが、脱毛とは思えないのです。触ったところがすっととれるのです。頭が真っ白になる。
男性は、当時はみんな散髪して短いので、男はあまり気がつかないのです。女の人はやるうと手にごっそりついてくる。間違いなく女性はそれをみて泣きだすのですよ。

たくさん毛がついてくる。私も女性が自分の髪の毛がなくなったときに、死にそうな体でいながら、あんなに大きな声で泣きだすのは初めてみました。女性はみんな泣きましたね。頭の毛が無くなって、それがみんな手についてきますから。そうすると大声で泣き出す。よくこんな声が今頃でるなと思いました。
強い放射線にやられた急性症状は、まず出血と脱毛、紫斑、口のなかのネフローゼですね。真っ黒になって。そういう症状がでると1時間も経たずにみんな死にます。
私たちは学問的に教わったわけではないけれど、初めて診る症状で、アメリカの放送で原子爆弾だということは聞いたのですが、聞いてもそれがどういうものか分かりませんから、今度の爆弾ではこういう症状が出るなということを、実際に診ている中で覚えたのです。

続く

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明日に向けて(758)原発災害についての心得(アップデート版)

2013年10月25日 23時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131023 23:30)

台風27号が太平洋沖をゆっくりと北東に移動中です。僕のいる京都も一日雨が降りましたが、今は小降りになっています。台風はこのまま各地に雨を降らしながら移動する予定です。関東などこれから雨が多くなるところは、十分な警戒をもってのぞんでください。

台風の到来を前にして、福島第一原発では、再び三度、汚染水タンクの周りの堰から高濃度のストロンチウムを含む放射能水が溢れだしてしまいました。対策は完全に破たんしていて、福島のサイトは、放射能汚染水の沼と化しています。
海の汚染が本当に深刻に進んでいます。同時に、作業環境の悪化と、作業員の方たちの被曝の深刻化ばかりが深まっています。
にもかかわらず安倍首相は23日にも国会で「原発は完全にコントロールされている」「汚染水は完全にブロックされている」と大嘘を繰り返しました。僕は首相がこのように言うこと自身に、大変な危機があると思います。

現実が直視されていない。現場の困難が嘘でもみ消されようとしている。でも嘘で放射能は消えません。現場の士気が著しく削がれるばかりです。コントロールできないものと命をかけて格闘している作業員の方たちにあまりに失礼であり、打撃であり、危機を深めるばかりです。
おりしも11月から4号機の燃料棒の抜き取りという、もっとも困難で、危険でありながら、どうしても避けて通れない作業が始まります。この重大な作業を前に嘘を放置していてはなりません。

ではどうしたらいいのか。大切なのは私たちの側が危機ときちんと向かい合っていくことです。福島原発がまったくコントロールなどされていないこと、いつまたどのような深刻な危機が深まるかも分からないことと向き合うことです。
そのため必要なのは、各地で原発災害をリアルに想定した避難訓練を始めること。とくに東北・関東で積極的に行う必要があります。ぜひそれぞれの地域、職場、学園、市民グル―プで、あるいはご家族で行ってください。

多くの市民が原発災害対策を始めたことが現場に伝わってこそ、はじめて現場は、「やっと自分たちの危機感、苦しさ、使命感が伝わった」と感じることができます。原発災害避難訓練は、4号機燃料棒抜き取りをはじめとした現場労働と連帯する行為です。
もちろん、原発災害のリアルさに目覚めることの中から、現場労働者の被曝対策の強化の意識を高めることも大事です。避難訓練=原発災害対策は、二重三重に、原発労働にリンクしています。

各地で避難訓練に取り組むために「原発災害に対する心得」(保存版)をお伝えします。10月20日の同志社大学松蔭寮の講演で使い、明日の午後1時半からの京都アスニーの講演でも使うものです。過去に掲載したもののアップデート版です。
避難訓練といっても、第一に行うべきことは図上訓練=座学です。まずは「原発災害についての心得」を参照し、学習会を行ってください。呼んでいただければどこへでもうかがいます。

周りの方、地域の方と、原発災害対策について話し合いましょう。災害対策では、原発への是非をいったん横において、多くの方と原発の危険性を論じ合うことができます。再稼働が賛成だという方ともぜひ一緒に行ってください。
消防士、警察官、自衛官の方にも知って欲しい。原発災害があったときに、真っ先に高濃度放射能地帯に派遣されるのはこれらの人々だからです。

安倍首相の大嘘を、ただ批判しているだけでは足りません。いわんや、揶揄して笑っていてはいけません。危機なのです!嘘に対抗するのは真実を掲げることです。真実は福島原発の危機です。すべての原発のあまりの危険性です。
原発災害対策を各地で力強く進めましょう!

*****

原発災害に対する心得 保存版
                                
知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
〇正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
〇同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
〇パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
〇バイアス解除に最も効果的なのは避難訓練。

2、知っておくべき人間の本能
〇人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
〇人は「自分だけは地震(災害)で死なない」と思う。
〇実は人は逃げない。
〇パニックは簡単には起こらない。
〇都市生活は危機本能を低下させる。
〇携帯電話なしの現代人は弱い。
〇日本人は自分を守る意識が低い。(備蓄が大切!)

3、災害時!とるべき行動
〇周りが逃げなくても、逃げる!
〇専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
〇悪いことはまず知らせる!
〇地震は予知できると過信しない。
〇「以前はこうだった」ととらわれない。
〇「もしかして」「念のため」を大事にする。
〇災害時には空気を読まない。
〇正しい情報・知識を手に入れる。


心にとめおきたい避難の3原則(社会災害工学の知恵)
1、想定にとらわれない
〇ハザードマップを信じない。
〇想定はあくまでも人間の推論。それを超えることがありえる。
〇行政の判断に頼らない。危機を感じたらすぐに行動する。

2、いかなる状況においても最善を尽くす
〇自分や周りの人の命を守るために最善の道は何かを考えて行動する。
〇災害で絶対に助かる道はないことを踏まえつつ、最善を尽くす。
〇大事なのは普段の蓄積。いざというときのための準備を重ねておく。

3、率先的避難者になる
〇自分が逃げ出せば他の人も逃げ出す。人を救うためにもまず自分が逃げる。
〇自分と人を逃がすことを最優先する。救助はあとから(津波てんでんこ)。


放射線被曝についての心得
1、福島原発事故での放射能の流れと被曝状況
〇福島原発事故では風の道=人の道に沿って放射能が流れた。
〇被曝範囲は東北・関東の広範囲の地域。京都にも微量ながら降っている。
〇SPEEDIの情報隠しなど、東電と政府の事故隠しが被曝を拡大した。
〇子どもの甲状腺がんをはじめ、健康被害が広がっている。

2、放射線に関する基礎知識
〇放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。体への危険度もこの順番。
〇空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
〇このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
〇より怖いのは内部被曝。外部被曝の数百倍の危険性がある。(ECRR)
〇放射能には半減期(放射線を出す力が半分になる期間)がある。
〇事故直後は半減期の短いものから放射線がたくさん出るため放射線値が高い。

3、被曝の避け方
〇外部被曝を避ける⇒放射線を遮蔽、線源から離れる、線量の十分低いところに避難。
〇内部被曝を避ける⇒放射能の吸引、飲食を避ける。汚染されていないところに避難。
〇まずはとっとと逃げる。事故の推移はあとから確認し、安全が確認できてから戻ればよい。

原発災害への対処法
1、原発災害への備え
〇一番大切なのは避難訓練。災害と避難をシミュレーションしておく。(位置、天候など)
〇遠くの知人と防災協定を結び、互いの避難先を確保し、家族・恋人などと確認しておく。
〇家族(子ども)と落ち合う場所を決めておく。
〇持ち出すもの(防災グッズとお金で買えない一番大事なもの)を用意しておく。

2、情報の見方
〇出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
〇原発は事故時には計器が壊れ、事態が把握できなくなる構造を持っている。
〇運転員も正常性バイアスにかかりやすく、事故の認知が遅れる。
〇政府の安全宣言は信用できない。(パニック過大評価バイアスへの対応)
〇周囲数キロに避難勧告がでたら200キロ超でも危険と判断。(避難区分を信じると危険)

3、避難の準備から実行へ
〇風下に逃げるのがベスト。判断できないときは西に逃げる。
〇マスクを濡らし重ねて着用し頻繁に替える。帽子を必ず被る。肌の露出は最小限に。
〇雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。傘、雨合羽必携。
〇可能な限り遠くに逃げ、着いた先の行政を頼る。○落ち着いて行動し二次災害を避ける。
〇避難ができない場合は屋内に立て篭る。水・食料を備蓄しておく。(最低一週間分)
〇立て篭る場合は換気扇やエアコンは使わない。すきま風が入る場合は目張りする。
〇避難のときも立て篭るときも、外気に触れたときは、うがい手洗いを徹底する。
〇インフルエンザ対策、花粉症対策を応用して、内部被曝を避ける。

放射能との共存時代をいかに生きるのか
〇元を断つ。すべての原発を止め、解体し、真の安全を確保する。
〇被曝の影響と向き合う。被曝した人を労わり、あらゆるヒバクシャ差別とたたかう。
〇あらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。命を守る運動を起こす。
〇前向きに生きる。楽しく生きる。意義深く生きる。そのことで免疫力をアップする。

参考文献
『人は皆「自分だけは死なない」と思っている』宝島社 ―防災システム研究所 山村武彦著
『人が死なない防災』集英社新書 ―群馬大学広域首都圏防災研究センター長 片田敏孝著

*****

講演会のお知らせ

原発ゼロへの道
もっと知りたい考えたい
福島で何が起こっているのか?

10月26日 午後1時30分開場 午後2時開会
 会場 京都アスニー
参加費500円

「内部被曝の現状は?」
 講師 守田敏也

主催 右京原発ゼロネットワーク
連絡先 田中啓一 0758732925 山依子 09022809450

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明日に向けて(757)台風27号接近中、河川の氾濫など水害に注意を!

2013年10月23日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131023 23:00)

大型の台風27号が近づいてきています。今週の後半、金曜日から土曜日にかけて西日本や東日本に接近してくる見込みですが、本州付近に停滞する前線に、南から湿った風が流れ込み、台風接近以前から雨が強まる可能性が指摘されています。すでに関西では雨が降っています。
さらに台風28号も接近してきており、27号の後を追うように日本列島に近づきつつあります。今のところ28号はそれほど接近しないで東の海上に抜けると予想されていますが、二つの台風が近接すると双方が影響しあい、「藤原効果」と呼ばれる現象が生まれ、台風の動きが複雑になる可能性もあるとのことです。
いずれにせよ厳重な警戒が必要です。今回は各地の行政の側も、早めに避難勧告や指示を出すのではと思えますが、これまでの台風で地盤が緩んでいることを考え、それぞれで「念のため」を重ねて、身を守ってください。

この間の台風や雨に特徴的なことは、気候変動の影響を強く受けて、記録に内容な大雨が降ることがあることです。台風26号によって、大災害がもたらされた伊豆大島の例では、なんと年間降水量約2800ミリの3割にもおよぶ800ミリの豪雨が降ってしまいました。
この雨によって、三原山の噴火によって生じた溶岩流の上の土壌が、一気に崩壊する現象が起こってしまいました。現在までに30人の方の死亡が確認され、まだ15人が行方不明ですが、次の台風のための対応も迫られており、島外への避難も開始されています。

この間の大きな被害の中で、避難勧告をいつ出すのかという問題に社会的な関心が集まっています。それはそれで重要なことですが、僕はそれよりも、私たち市民の側の危機意識をレベルアップしていくことを繰り返し訴えたいです。
今、各地で立て続けに起こっていることは、従来の河川管理や土砂災害対策が通用しない事態です。記録にない雨が降ることで、これまで100年に一度、ないし200年に一度の洪水を防ぐという発想のもとに行われてきた河川管理が通用しなくなってきているのです。
問題は、今の河川管理は、ダムと堤防によって洪水を抑え込むことを想定しているため、想定を超えた場合の備えがないといういことです。破堤すれば最悪の被害が生じてしまいかねません。

このため多くの河川、とりわけ大きな河川の周りで、危険性が増大しています。その一つを紹介すると利根川の決壊です。2008年3月25日、内閣府の中央防災会議は利根川が氾濫した場合の被害想定を公表しました。
幾つかの地点での堤防の決壊が想定されていますが、もっとも危険だとされたのは、茨城県古河市の堤防が決壊するパターンでした。このパターンで避難率が40%、浸水に対する排水施設が稼動しない想定では、死者数は約3800人に達すると試算されています。
ただこれまでも述べてきたように、これもあくまで人間の側が想定したパターンにすぎません。被害が予想された古河市ではさまざまな対策が練られてきていると思うのですが、この想定に入っていない地域を洪水が襲う場合ももちろんあるのです。

私たちは今、河川管理の、あるいは自然との向かい合いの大きな曲がり角に立っているように思えます。自然の猛威をすべて抑え込む、あるいは自然をいかようにもコントロールできるとおごり高ぶるのではなくるのではなく、人間の力の小ささを素直に認め、災害を受け流して減らしていく方向への転換、ないし舞い戻りです。
舞い戻りと言うのは、近代以前にはこのような手法が多くみられたことです。洪水管理においても、すべて抑え込めるとは考えておらず、むしろいかに洪水の力を弱めるかという発想の方に力点がおかれていました。
堤防は一気に破れた場合が一番恐ろしい。そのため流量が多い場合には、堤防が破れる前に、水を越流させ、溢れさせてしまうことなどが考えられていました。これを「野越(のごし)」と呼びます。あらかじめ堤防を低くするなどして、越流させるところを決めていたのです。

越流地点には水害防備林も植えられていました。洪水の脅威は何よりもその水流にあります。だからこそ一気に堤防が破堤してしまうことが一番、恐ろしいのですが、越流してくる水も勢いがあるため、まずは植えられた林にぶつけて、水流を弱めるのです。
防備林には他の役割もあります。洪水の恐ろしさは大量の土砂を運んでくること、これが生活圏内に入ってしまうと、排水路がすべて詰まってしまったり、床上浸水では家財が使い物にならなくなったりなど、さまざまな困難を引き起こすため、防備林の中に土砂を落とさせるのです。越流した水が防備林で濾され、土砂の少ない水になる。
さらに見事だったのは、越流地点を決めることによって生じる特定の地域への被害を、いかに他の地域がカバーするのかの話し合いが、主に、地域の名主や豪農などを中心に行われていたことです。幕府や藩が介入しないことが多く、地域の自治的な話し合いが機能していたのです。

このように川は、地域によって自治的に管理されていたのでした。防災対策も地域の自主的な関わりによって担われ、地域の人々は常に、危機と主体的に向かい合っていたと言えます。
これに対して、近代は、地域よりももっと大きな主体によって、災害管理が行われてきました。そのことで地域が災害の頻発や、災害対策の苦役から逃れることができた面も多々あり、人々が助けられた面もたくさんありました。
しかしその結果、現代の私たちは、災害管理を国や行政に一方的に委ねる主体になってしまっており、災害に向けて自らが主体的に関わること、地域での関わりに参加することが非常に少なくなってしまっているのです。

問われているのは、この民衆の側の、危機への対応力の弱体化の克服です。といってもすぐに野越の場所を決めたり、水害防備林を作ることはできないので、まずはそれぞれが自分の地域の危険個所を把握することが問われています。そして災害に対して、自らがどうするかを決めていくのです。
具体的には、ぜひ台風が来る前に、ご自分の地域の行政が出しているハザードマップに必ず目を通し、どのような水害が想定されているのか確かめてください。避難所の位置も把握しておいてください。
その上で、ハザードマップの想定にとらわれないことを心がけてください。マップで、自分の家が水害の及ばない地域とされていても、マップはあくまでも人間の行った「想定」を記したものでしかありません。この間の豪雨は「想定」を超えています。災害もより大きなものになることがありうる。そのことを頭に入れてマップを吟味してください。

続けて、災害がどのように起こるか、自分で想像してみてください。肝心なのはそのときに自分がどうするか、家族がどうするか、よく考え、話し合っておくことです。念のためを重視し、早めの避難を心がけるようにしてください。
最後に、河川工学の専門家であり、「社会的共通資本の川」という観点にも立って、河川研究、水害対策研究を行ってきた、新潟大学名誉教授の大熊孝さんが編み出した水防のためのスローガンをご紹介しておきます。ぜひ参考にしてください。

水防五訓
1、水防は、地域の守り、地元の仕事
1、水防は、日ごろの準備と河川巡視から
1、水防は、危険がつきもの、必ずつけよう命綱
1、水防は、我慢が肝心、一時の辛抱、大きな成果
1、水防は、減水時の破壊多発、油断大敵

個人水防心得五訓
1、調べておこう、自宅のまわりの氾濫実績
1、大雨きたら、まず灯りと水と食料の準備
1、ハイテクの自動車浸水に弱し、車での避難、要注意
1、濁水の下の凸凹みえず、片手にころばぬ先の杖
1、氾濫の引き際に、泥・ゴミ掃除忘れずに、後始末大変

参考 「技術にも自治がある―治水技術の伝統と現代」大熊孝著 『社会的共通資本としての川』東京大学出版会

 

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明日に向けて(756)台風26号でまたも危機に陥った福島第一原発。さらに台風27号が迫っている!

2013年10月19日 18時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131019 18:30)

連日、台風関連の記事を書いていますが、社会的関心がたくさんの方が亡くなった伊豆大島に収集してる中で、福島第一原発でも、事前に準備した対策が機能せず、「またもぎりぎりの対応が迫られた」ことが報道されています。
東京新聞は、「事前に定めた排水手順も守れず、現状の設備の限界がはっきりし、追加の対策が急がれている」と述べています。

具体的には、汚染水タンク群周りの堰内に雨水がたまった際に、近くの小型タンクに水を移し、放射性物質の濃度を測って基準値未満なら排出するとしていたものの、おりからの豪雨でポンプアップが間に合わず、その場で測って排出したというのです。
またほかのタンク群では4月に水漏れが発覚して使用が中止された地下貯水池に消防車を使って移送するということが行われました。まさに「ぎりぎりの対応」で、汚染水処理が破たんしており、台風にまったく対応できないことが明らかになっています。

一方、この豪雨の中で、8月19日に300トンの高濃度の汚染水漏れが起こったタンクのそばの観測用の井戸で、ストロンチウムが1リットルあたり40万ベクレル、トリチウムが79万ベクレルと、「過去最大」の汚染値が観測されたと報道されました。
いずれも地表に残っていた汚染物質が、雨で洗い流され、井戸に入ったものと思われます。

40万ベクレル、79万ベクレル・・・ものすごい値ですが、ただ「過去最大」というのは、8月の汚染水漏れに対応して9月に掘られたこの観測用の井戸での話です。東京電力が「過去最大」と発表したので、マスコミ各社とも見出しに「過去最大」とつけていますが、観測された過去最大の汚染水というわけではありません。
これまでの最大値は、2011年3月の事故直後のけた違いのものですが、さらに8月19日に発見された300トンの汚染水漏れでも、ストロンチウムで8000万ベクレルもの値のものが漏れ出してしまっていたのです。
その点で、少なくともストロンチウムに関して、40万ベクレルを「過去最大」と発表することは、8000万ベクレルのものを300トンも漏らした事実から目をそらせるものだと言わざるを得ません。

またこのように8000万ベクレルが300トンだとか、またも40万ベクレルの汚染水だとか言われ続けることで、世の中の多くの人々の危機感覚がマヒしてしまい、「またか」という感じしかもてなくなって、その都度の意味が把握できなくなっていると思われます。
実際に起こっていることは、福島第一原発の現場で、汚染水処理がまったくうまくいかず、海の深刻な汚染がどんどん進んでいること、しかもどれぐらいの汚染かもほとんど把握できなくなっているという事実だと思います。
しかも台風27号が続いてやってこようとしています。再びタンク群の堰が溢れだし、対応ができないままに排出が行われるのは確実ではないでしょうか。海がまた深刻に汚染されます。

しかし問題は本当に海の汚染だけなのでしょうか。現場には1リットルあたり8000万ベクレルもの汚染水が300トンも流れ出してしまい、それがあるものは排水溝から海に出たでしょうが、あるものは周辺の土壌を汚染し、雨が降るたびに敷地内を移動しているわけです。
この他、僕にもにわかにすべてのタンクのどこからどのように漏れが発生しているか、把握できないほどに、繰り返し高濃度の汚染水が漏れ出してきて、それらがまた雨で敷地内を移動しています。
これらは、福島第一原発内の作業員、そしてまた収束作業のための機器に影響することはないのだろうか。いや確実にしているのではないだろうか。また原子炉建屋や、タービン建屋などの構造物にも悪影響を与えているのはないでしょうか。

1リットル8000万ベクレルもあれば、周辺にはもの凄い量の放射線が発生しています。放射線は物質にあたると電離効果を及ぼし、分子切断を行って物質を破壊します。しばしば誤解されてしまいますが、影響を受けるのは生命体だけではありません。あらゆる物質がダメージを受けるのです。
この雨のたびに高濃度に汚染された放射性物質が何百トンという単位で移動している現場で多くの作業員の方たちが働いています。その中でとくに最近、さまざまなヒューマンエラーが繰り返されていますが、そのことと放射線被曝は関係しているのではないでしょうか。
あるいはただでさえ電子機器は水に弱く、鉄製のものは錆が生じやすいのに、その上、放射能汚染された水が蔓延している作業環境の中で、さまざまな工具や機材は、正常に働くのでしょうか。報道に現れない多くの不具合が生じているのではないかと僕には思えます。

つまり豪雨にされされ、繰り返し大変な放射線を発する汚染水が漏れ出してきてしまうことが、作業環境を極度に悪化させ、工具や機材、構造物にも悪影響を及ぼしているのではないかと思えます。
その意味で豪雨は、福島第一原発サイトにボディーブローのように働いているのではないか。一回、一回、現場の状態を深刻にさせているのではないか。ある意味ではその象徴としても、繰り返し「過去最大」と表現される汚染水漏れが起こっているのではないでしょうか。
現場は収束に向けて歩みを強めているのではなく、どんどん悪化しているように僕には思えます。

海の汚染はとても深刻です。それは私たちの命の源である海の破壊を促進しており、私たちにさまざまな形で返ってきていることでしょう。
しかし汚染水問題を、海の汚染の問題だけに還元することは危険ではないか。ただの水ではなく、高濃度の各種の放射能を含んだ汚染水が、毎日何百トンという単位で移動しているのです。これもまた人類にとってはじめての経験です。

いずれにせよ、福島原発サイトは、コントロールされているとかいないとかいうレベルではなくて、何がどのように起こっているのかもほとんど把握できていない状態にあるのです。
自然の猛威がこの状況すら把握できていないサイトを繰り返し襲う中で、どのような不測の事態が発生してもおかしくないと考えるのが合理的です。だから台風が接近する時などは、とくに原発の状態に注意を集中する必要があります。

しかも自然災害が各地で多発する時は、人々の意識も分散されます。また万が一、原発の状態が悪化し、避難が必要になったとき、すでに先行する災害で避難が困難になっていることも予想されます。2011年の3月のようにです。
繰り返し身構えることは大変ですが、しかしこのとんでもない危機的な状況の継続に慣れてしまわずに、万が一の事態への対応をシミュレートし続けていただきたいと思います。

台風27号の接近の中で、福島原発サイトの悪化を含む、あらゆる災害の可能性を頭に入れて、対策を強化していきましょう。

*****

大雨対策 吹き飛ぶ 福島第一 台風でまたも危機
東京新聞 2013年10月17日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013101702000121.html

台風26号が接近した東京電力福島第一原発では十六日、これまでの大雨を踏まえて準備した対策が機能せず、またもぎりぎりの対応を迫られた。事前に定めた排水手順も守れず、現状の設備の限界がはっきりし、追加の対策が急がれている。 (清水祐樹)

東電は九月の台風18号の経験から、タンク群周りの堰(せき)内にたまる雨水を排出する手順を決定。近くの小型タンクに水を移して放射性物質の濃度を測り、基準値未満なら排出することにした。移送用ホースなどの設備も整えた。
しかし、前日から降り続いた雨で、堰内の水位が急上昇。ポンプの能力が追いつかずにあふれそうになり、タンクへ移している余裕がなかった。
結局、九つの区域で、堰内の水をその場で測定し排出する事態に。ほかのタンク群では、消防車を使って未使用の地下貯水池に移した。貯水池は四月に別の池で水漏れが発覚し、利用をやめた設備だが、それを使わざるを得ないほどの状況に追い込まれた。
東電の今泉典之原子力・立地本部長代理は記者会見で「今の仕組みでは今回の大雨に対応できず堰から直接排水した。地下貯水池の利用は悩んだが、緊急避難的に移すしかなく、現場が判断した」と説明した。

新たな対策として、高さ三十センチの従来の堰の外側に、大型の堰を新設することを計画。タンクからの水漏れで堰内に汚染が広がらないよう、タンクの底板とコンクリートの間に止水材を入れ、漏えい防止も図る。
ただ、これらの対策が完了するのは早くても年末で、それまでは大雨のたびに厳しい状態が続く。

*****

福島原発:40万ベクレル地下水過去最大 排水溝も高く
毎日新聞 2013年10月18日 11時44分(最終更新 10月18日 15時47分)
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20131018k0000e040214000c.html

東京電力は18日、福島第1原発で高濃度汚染水約300トンが漏れた地上タンク付近にある地下水観測用井戸(地下約7メートル)から、放射性ストロンチウム90などベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり40万ベクレル検出されたと発表した。
ストロンチウム90の国の排出基準は同30ベクレル以下。この井戸では過去最大値の125倍の濃度という。
近くの排水溝のせき止め水からも、前日発表した濃度の15倍に上る同3万4000ベクレルが検出され、過去最大値を更新した。いずれも17日に取水した水という。
観測井戸は、9月上旬に掘られた八つのうちの一つ。タンクから最も近い15メートルの場所にあり、これまでも他の井戸より高い値が検出され、過去最大値は9月8日の同3200ベクレル。
この井戸はふたがされており、東電は濃度上昇について「理由はわからないが、漏れた高濃度汚染水の影響が考えられる」としている。井戸は地下水が原発建屋に流入する前にくみ上げて海に放出する「地下水バイパス」計画の井戸の上流側にあり、同バイパスの実効性に影響を与える恐れもある。

一方、排水溝では17日に過去最大値の同2300ベクレルの検出を発表したばかり。
東電は「台風26号による雨水と一緒に周囲の汚染土が流入した可能性がある」としながらも「以前の台風でもこんなに急激に上昇したことはない」と説明。排水溝のせき止め水は、土のうを積んでおり、東電は外洋に流れ出た可能性は否定している。【栗田慎一、蓬田正志】

*****

福島第1原発:井戸で過去最大のトリチウム…汚染水問題
毎日新聞 2013年10月18日 22時07分(最終更新 10月18日 23時18分)
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20131019k0000m040096000c.html

東京電力は18日、福島第1原発で高濃度汚染水約300トンが漏れた地上タンク付近にある地下水観測用井戸から、放射性物質のトリチウム(三重水素)が1リットル当たり79万ベクレル検出されたと発表した。
10日に測定した同32万ベクレルの約2.5倍で過去最大値。この井戸からは放射性ストロンチウム90などほかのベータ線を出す放射性物質も、過去最大値の同40万ベクレルが検出されている。いずれも17日に採取した水を調べた。

観測井戸は、9月上旬に掘られた八つのうちの一つで、高濃度汚染水が漏れたタンクから北に約20メートル。井戸の北側には、タンク内の水を出し入れするポンプ設備の配管などがあり、漏れた水で汚染された土壌を撤去しきれなかった。井戸にはふたがされていた。
トリチウムは、第1原発の放射性汚染水を浄化する多核種除去装置「ALPS(アルプス)」では除去できない。東電は濃度上昇の理由について「汚染土に含まれる放射性物質が台風の雨で移動して地下水に影響した可能性がある」とみている。汚染土の撤去や汚染地下水のくみ上げなどの対策を検討する。
ほかに、17日に採取したタンク近くの排水溝の水からも、ストロンチウム90などが1リットル当たり3万4000ベクレル検出されている。

 

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明日に向けて(755)次の台風(27号)が迫ってきている!災害対策の強化を!

2013年10月18日 22時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131018 22:30)

台風26号は大変な災害をもたらしました。伊豆大島では18日午後7時までの段階で、25人の方の死亡が確認され、なお26人の方が行方不明になっています。
一方、日本列島のはるか南、マリアナ諸島近海で、新たに大きな台風が発生しており、来週の半ばに接近してくる可能性があります。そのころには中心気圧が920hPaまで下がり、「最も強い猛烈な台風」になる可能性が伝えられています。
進路も前回の26号と非常に似通ったコースをたどる可能性があり、しかもより西日本にも接近するため、前回よりも大雨の範囲が広範囲になる可能性も指摘されています。以下、この情報を伝えるテレビニュースを紹介しますので、ぜひご覧ください。

台風27号 予想進路は台風26号と非常に似たコースに
フジテレビ系(FNN) 10月18日(金)18時4分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20131018-00000109-fnn-soci

この間の相次ぐ台風により各地で地盤が緩んでいる可能性があるため、今から警戒を強める必要があります。ぜひみなさん、この機会にそれぞれの行政が出しているハザードマップを手に取り、浸水予想や避難所の場所の確認などを行ってください。
山間部に近いところをはじめ、危険が予想されるところは、ぜひ晴れている間に散歩などで現場観察を行い、避難が必要になった場合のシミュレーションを行ってください。その際、自宅から避難所の間に、増水した場合に危険になる側溝などないか、確認しておいてください。
今回の伊豆大島の事例から、次に集中豪雨があった場合、それぞれの行政が、早めに避難勧告や指示を行う可能性がありますが、私たちの側も勧告が出てから避難所を探すのではなく、あらかじめ危険個所と避難場所を確認しておき、やはり明るいうちに早めに避難を行うようにしてください。

ただしハザードマップを見る際には注意が必要です。マップで浸水予想地区とされている地域の住民は、警戒心を高めることができますが、浸水が予想されない地域の住民の場合、「自分のところは大丈夫だ」と考えてしまい、警戒心を解いてしまう場合が多く、かえって危険なのです。
実際に、2011年3月に東日本大震災を襲った大津波のときに、釜石市で、ハザードマップで津波到達が想定されていた地域の人々が高い確率で避難ができたものの、約1000名となった死者のほとんどが、津波の到達が想定されていなかった地域から出てしまっています。
その意味で災害対策においては「想定にとらわれてはならない」ことを強く頭に入れながら、ハザードマップを活用するようにしてください。けして「安心」するためでなく、災害に強い心の態勢を作るための事前準備として、行政があらかじめ出している情報を活用してください。

実際に大雨が降りだした場合はどうしたら良いでしょうか。怖いのは「土石流」「地すべり」「がけ崩れ」ですが、これらにはそれぞれ次のような前兆があることがあります。
「土石流」の場合  〇山鳴りがする。〇急に川の流れがにごり流木が混じっている。〇雨が降り続いてるのに川の水位が下がる。〇腐った土のにおいがする。
「地すべり」の場合 〇沢や井戸の水がにごる。〇地面にひび割れができる。〇斜面から水がふき出す。○家や擁壁に亀裂が入る。〇家や擁壁、樹木や電柱が傾く。
「がけ崩れ」の場合 〇がけに割れ目が見える。〇がけから水がふき出ている。〇がけから小石がパラパラと落ちてくる。〇がけから木の根等の切れる音がする。
このような兆候が見られた時には、行政からの指示がなくても、自主避難を行ってください。

ゲリラ豪雨についても、目安が語られるようになってきましたので、それを列挙します。
〇天気予報に「所によりにわか雨」「大気の状態が不安定」「大雨、落雷、突風、竜巻、雹(ひょう)」のキーワード。〇防災気象情報で「大雨・洪水警報」「大雨・洪水特別警報」「周辺や川の上流で大雨」が語られる。
〇川の水かさが急に増えてきたり、濁ったり、木の葉や枝、ごみなどが大量に流れてくる。〇雷鳴が聞こえたり雷光が見えたりする。〇ヒヤッとした冷たい風が急に吹き出す。〇大粒の雨や雹(ひょう)が降り出す。〇黒い雲が広がり急に暗くなる。
豪雨の場合、近くの川からの洪水などが考えられます。この場合、「土石流」「地すべり」「がけ崩れ」などが考えられない地域では、2階以上に避難していれば安全を確保できる場合があります。この点も事前に確認を行っておいてください。

続いて避難行動に移る際の目安についても書いておきます。前提的に危機の察知においては自分の五感を大事にし、以下に書いたことに当てはまらなくても「避難したほうがいい」と感じたら行動した方がいいです。その上で目安を書きます。
〇市町が自主避難を呼びかけたら。〇前触れと思われる現象(前兆現象)を発見したら。〇近く(同じ市町内や隣接する市町)で土砂災害が発生したら。〇これまでに経験したことのない雨を感じたら。

避難行動に移るにあたっての心得も書いておきます。
〇防災気象情報、防災避難情報に注意。〇車で避難しない⇒ワイパーやブレーキが効かなくなる。アンダーパスに突っ込むと立ち往生。〇浸水が40~50㎝になると外開きドアは開かない。歩行も困難。⇒早期自主避難が大切。
〇「遠くの避難所より、近くの2階」。(ただし家屋の流失の危険性がない場合)〇避難するときは隣近所に声を掛け合う。〇避難者同士それぞれロープをつかんで避難。〇荷物は最小限にしできるだけ両手を開けて避難。
〇マンホールや側溝のフタが外れているとすごく危険。傘や棒などで前を探りながら進む。〇避難時はヘルメット、手袋、雨具、長ズボン、長袖シャツで。懐中電灯も。〇長靴は水が入ると動けなくなる。脱げにくい紐スニーカーなどで避難。
〇火の元、ガスの元栓、電気のブレーカーを閉じ、戸締まりして避難。〇半地下・地下室には近寄らない。〇川、側溝、橋、マンホールに近づかない(絶対に様子を見に行かない)

なおより詳しいことを知りたい方は、防災心理学の知見から優れた啓発を繰り返している「防災システム研究所」のホームページをご覧ください。僕もここから「正常性バイアス」のことなど、重要な点を学びました。

防災システム研究所
http://www.bo-sai.co.jp/index.html

またハザードマップの危険性の問題をはじめ、釜石市などでの実例に学びたい方は、群馬大学災害社会工学研究室のホームページをご覧ください。ここからも僕はさまざまなことを学びました。

群馬大学災害社会工学研究室(釜石市の例を述べているページを紹介)
http://dsel.ce.gunma-u.ac.jp/research/cont-302-4.html


今回の伊豆大島の災害に対しては、事前に各方面から町役場に避難勧告を出すようにとの連絡がありながら出さなかったことが問題にされています。町長も判断の甘さを語っており、今後、何が足りなかったかの検証が行われ、各自治体の災害対策に取り入れられていくことと思います。
ただやはり同時に私たちが考えなければならないのは、私たちが災害に対して能動的になること、行政の指示待ちにならず、自らが判断力、行動力を養っていくこと、近隣のさまざまな理由から避難が困難な方をも助けられるような力を養っていくことです。
この点で、「特別警報」についても考えを整理しておく必要があります。今回の伊豆大島の事態でも「特別警報」は出されていません。つまり「特別警報」の発令基準に達しなくとも、命が危機に瀕する事態が起こり得るのであって、けして「特別警報」待ちになってはならないということです。
これはさきほど指摘したハザードマップの危険性と同じことが言えます。「特別警報」=「ただちに命を守る行動を」という新たな災害警報が設定されたことにより、特別警報発令まで、命の危機はないと思ってしまう誤りです。この点については次の気象解説者、片平さんの文章が参考になります。

伊豆大島記録的豪雨 「特別警報の課題」と「命を守るのは誰か?」
片平 敦 | 気象解説者/気象予報士/防災士/ウェザーマップ所属 2013年10月17日 14時1分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/katahiraatsushi/20131017-00028998/

片平さんは、「特別警報」がどのような基準で出されるものと決められているかを詳述したのち、次のように述べています。

***

特別警報が出される時というのは、もう最終段階と考えたほうが良いのです。
すでに大規模な土砂災害や洪水災害が引き起こされていてもおかしくなく、起きていない地域では一刻も早く、個々人が周囲の状況を判断して「命を守るために最善を尽くす」行動が必要になります。
「特別警報待ち」は、絶対にしてはいけません。

***

重要な指摘です!

今、私たちに問われているのは、災害に対する主体性、能動性です。命を守ることを誰かに委ねるのではなく、今できる最大限のことを行っていくことが問われているのです。
こうした観点は、すべての災害に対して適用できるもので、当然、原子力災害から身を守ることにもつながっていきます。大事なのは事前にシミュレーションを重ねることです。
伊豆大島の方たちを見守りつつ、台風27号への備えを固めましょう!

 

 

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明日に向けて(754)行政主導の災害対策からの転換が問われている!

2013年10月16日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131016 23:00)

昨日10月15日から本日にかけて、「10年に1度の規模」と言われた台風26号が日本列島の太平洋側を駆け抜け、伊豆大島を中心に甚大な被害が出ました。
16日午後10時現在の情報では、死者・不明者が64人となっています。なかでも大島では大規模な土砂崩れが発生。現在までに17人の死亡が確認され、なお43人の安否が不明と発表されています。
何よりも亡くなられた方のご冥福をお祈りします。また安否の分からない方のご無事を祈るばかりです。

さて、今回の伊豆大島での土砂崩れに対して、大島町が避難勧告を見送ったことが話題にとなっています。町長は避難勧告を出さなかった理由を「深夜の1時や2時の時間帯に勧告を出した場合、さらに被害者を増やす恐れがあると考えた」と説明しています。
この判断が妥当だったのかどうか、まだ全体像がつかめていない段階ですので、僕にはよく分かりません。
この日、伊豆大島では16日午前3時50分すぎまで、1時間に122.5ミリの記録的な雨を観測したそうです。朝8時20分までの24時間雨量は824.0ミリで、いずれも観測開始以来、最大の雨量だそうです。

これだけの猛烈な雨の中、しかも夜中に避難勧告を出すことの危険性は分かります。しかし避難勧告以外に、何らかの形で危機を伝えることは必要ではなかったのかとも思えます。
少なくとも無防備で寝ている状態より、起きて災害の発生に身構えていた方が良かったのではないか。1 階よりは2 階以上に移動していた方が良かったのではないでしょうか。
テレビ映像などで現場を見ると、多数の家が土石流に飲み込まれていて、2階にいれば助かったというものでもないと思いますが、それでもその方が少しでも被害を減らせたのではないか。その点で、避難するか否か以外に打つ手はあったように思えるのです。

ただだからと言って僕は、今の段階で、大島町役場のことを批判したいのではありません。むしろこの間の「記録的な豪雨」などの異常気象のもとにあっては、行政が的確な避難勧告や指示を出すのは非常に難しくなっていることを見てとらねばならないのではないのでしょうか。
何せ、1時間に122.5ミリという猛烈な降りです。1日で824.0ミリ降っている。ウキペディアによれば伊豆大島の1981年から2010年の年間降水量は平均で2827.1ミリです。だから今回はなんと年間降水量の約30%が1日に降ってしまったことになる。本当にもの凄い量です。
このため山がかなり大規模に崩れ、倒れた木々と土砂が一緒になって家屋を襲いました。これに対しては、「明るいうちの早目の避難」がなされていれば良かったわけですが、なかなか判断が難しいです。

こうした事態を前に、各地の行政が、今後いかに市民を守っていくのか、頭を悩ませていると思いますが、私たち市民の側が、考えなければならないのは、行政の努力を期待するとしても、私たちが行政判断に命を委ねていてはいけないということです。
起こっていることは、これまでの経験にない豪雨です。年間降水量の3割が1日で降ってしまうほどです。いや年間降水量の4%が1時間で降ってしまったのです。その中で行政に的確な判断を迫るにも無理があります。
いやそれ以上に大事なのは、私たちが私たちの命を守るための能動性を発揮しなくてはならないということです。日ごろから大災害を想定し、命を守るための訓練を主体的に行っていくことが問われているのです。その意味で行政主導の災害対策からの転換が問われていることを訴えたいです。


かかる観点は、すでに津波対策などでも叫ばれてきています。顕著な例は、三陸海岸の釜石市で、多くの子どもたちが自ら命を救った事例です。群馬大学広域首都圏防災研究センター長の、片田敏孝教授によって領導されてきたものです。
片田教授はこう語っています。「どういうときに住民は避難するのかというと、避難勧告が出たら避難する、これが日本のシステムです。防災の基本です。災害対策基本法にあるように、避難勧告が出たら、それに従って住民は逃げます。
逆に、避難勧告が出なければ逃げなくてもいい。このように、行政からの情報に依拠して日本の防災は進んでいます。」(『人が死なない防災』集英社新書P204)

片田教授は行政主導で行われたきた日本の災害対策を全否定しているわけではありません。むしろさまざまな災害対策を重ねることによって、戦後直後に多発した水害などが抑え込まれてきたこと、人々の安全性が高まったことには高い評価を与えています。
しかしそのことで、人々が安心しきってしまい、行政に自らの命の行方を預けてしまい、災害があった後では、避難勧告が出たか否かに話が集中しがちな今の私たちの在り方を転換する必要があるのではないか。もっとそれぞれが危機に主体的に向き合うべきだと提起しているのです。
これは非常に重要な点だと僕は思います。行政は行政で各地で懸命に活動していると思います。しかしそこには限界もあります。とくにこれほどの豪雨が続けば、対策が間に合わないことも多く出てくる。だからこそ、市民の側が能動性を発揮すべきなのです。

片田教授の指導のユニークな点は、とくにハザードマップを過信しないことを強調してきたことです。釜石の例を見ると、歴史的に大津波に見舞われてきたこの地方では、各町ごとにハザードマップが作られています。津波がどのように来るかの想定です。明治、昭和の大津波が参考とされています。
子どもたちの指導にあって、片田教授はまずこのハザードマップを配る。そうすると必ず起こるのは、子どもたちが自分の家を探すことなのだそうです。そして「私の家は大丈夫」「僕の家はだめだ」「君のところはもっと危ないよ」と話に花が咲きます。
その上で片田教授は「このマップは明治、昭和のときの経験からここまでだろうというものに過ぎないよ。それを超えることもあるんだよ」と提起します。大胆にも「ハザードマップを信じるな」と教育するのです。

片田教授はこれを「想定にとらわれてはならない」という避難原則の標語としてまとめています。さらに教授が提起する避難原則は、「いかなる状況においても最善を尽くす」こと、さらに「率先的避難者たれ」ということです。
「いかなる状況においても最善を尽くす」とは、おかれた状況で一番いいと思うことをあきらめずにやれということです。ただしその結果、必ず助かるとは限らない。それでもできることは最善を尽くすことなのだと強調しています。災害のリアリティに立った提言だと思います。
さらには「率先的避難者たれ」ということ。いの一番に誰かが逃げ出すと、避難が進むことが多い。だから一番最初に逃げ出すことが、より人を救うことになると教えているのです。

実際にこの避難原則は、大津波に際して大変な効力を発揮しました。釜石市の各地から子どもたちが率先して逃げ出したために、大人たちが引きずられるように逃げたところが多かったのです。
しかも小学校上級生や中学生には、他の人を助けるために最善を尽くすことも教えられていた。このため中学生が小学低学年の子の手を引いたり、幼稚園の子どもたちを抱きかかえたり、リアカーにお年寄りを乗せたりでの避難が行われたのでした。
一方、悲しいことに釜石市では約1000人以上の方が亡くなってしまったのですが、その死亡地点のほとんどが、まさにハザードマップに書かれた津波の到達地点の外でした。ハザードパップを過信して逃げなかった人の中から実際に、犠牲者がたくさん出てしまったのです。

片田教授はこの結果に対して、防災担当者としての自らの敗北であると語られ、犠牲者を出したことを痛く悔いておられるのですが、片田教授の「避難原則」の徹底化がなければ、被害がもっと大きかったことは明らかです。
私たちはこうした釜石での教訓にも学びつつ、行政の行う「想定」で安心してしまい、なおかつ危機がくれば行政が知らせてくれると、命を守ることに受動的になっているあり方を捉え返し、危機対処に能動的になっていく必要があります。
その点から「行政主導の災害対策」から転換し、むしろ未曾有の豪雨を前に苦労している行政を市民が下から支え、災害に強い町づくり、人づくりを積極的に担っていくべきです。


そしてこのことをもっとも強く適用すべき場が、原子力災害対策であると僕は思います。まさにこの領域こそ、政府の出した事故「想定」にとらわれていてはけしていけないし、事故が起こった時に、政府や電力会社が的確に知らせてくれると思っていてはなりません。
釜石市の教訓とは逆に、「想定」もまったく間違っていれば、事故を的確に伝えてくれず、放射能が流れていることすら教えてくれなかったのが、福島第一原発事故の教訓なのでした。このことを肝に銘じ、行政まかせではない原発災害対策を立てて行く必要があります。
そのためには、起こりうる事故を想定し、そのとき自分が、家族がどうするかを決めておく必要があります。さらに地域はどうするかを考え、積極的に行政に提案し、動かしていかなくてはいけません。

その際、考えるべきことは、あの福島第一原発の事故のときも、「率先的避難者」たる人々がたくさんいて、それらにつられて避難ができて被曝を免れたり、軽減できた人々がたくさんいたということです。僕はあのとき「率先的避難者」となったみなさんに心から感謝をささげたいと思います。
これら「率先的避難者」の方たちは、さらに全国津々浦々の避難先、移住先で原発災害の悲惨さを訴えてくれました。その声がさざ波のように広がり、日本中を脱原発のムーブメントが埋めていき、私たちの国には、少なくとも今、原発が一つも動いていない状態が生み出されています。
私たちは釜石の教訓だけでなく、原発事故からの避難の中に、このような素晴らしい教訓があったことを見て取り、だからこそ今、福島原発を筆頭にすべての原発事故への備えを厚くすること、避難訓練を行っていくことを訴えていきましょう。

とくに今後、福島4号機からの燃料棒の取り出しと言う、大変危険で困難なミッションが開始されます。そのときに私たちはけしてこれを政府や東電まかせにせず、原発の危機への意識を全国で喚起し、だからこそ能動的な災害対策や訓練を、現場と連帯しつつ行う必要があります。
重要なのは、このように全国の市民が原発災害に対する能動的な取り組みを開始した時、非常に危険で過酷な中で働いている福島第一原発の労働者たちの士気もまたあがっていくということです。今向き合っている危機感を共有しあっているという実感が持てるからです。
これに対してもっともいけないのは、「状況は完全にコントロールされている」などという嘘を繰り返すことです。コントロールなどされておらず、紙一重の危機の中にいるから現場は悶絶の苦労をしているのです。それを嘘でごまかせば、現場の痛みが伝わらなくなってしまう。それでは士気が下がって当然です。

その意味で、原発災害に対して能動的に取り組むことは、福島第一原発の現場を支えることにつながります。私たちに福島のサイトを襲うかもしれない大地震を止めることはできませんが、しかし私たちに現場の方たちの心を支えることはできます。
私たちのため、世界のために、被曝をしながら働いている人々に、私たちは深くお詫びしつつ、感謝をささげ、かつ可能な限りにサポートをしていく必要があります。その中でともにこの未曾有の危機を乗り越えていく必要があります。その決意を伝えるためにも、全市民が本気になって災害対策を進めることが問われています。
あらゆる災害に能動的に立ち向かっていきましょう。全国で原発災害に対する学習を行い、避難訓練を広げていきましょう!

 

 

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明日に向けて(753)水害の多発とナラ枯れ・・・温暖化によって森が悲鳴をあげている(2)

2013年10月12日 07時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131012 07:00)

本日はこれから水害のあった京都市京北町に出かけて、畑の修復のお手伝いなどしてきますが、その前に、「ナラ枯れ」について、数年前に毎日新聞に掲載していただいた論考をご紹介したいと思います。
短い文章ですが、日本の山と森の美しさと、ナラ枯れの脅威をきちんと伝えることができたのではと思っています。山と森への万感を込めて書いたものです・・・。

*****

温暖化による森の悲鳴
毎日新聞2010年4月13日
守田敏也

日本最大のミズナラ倒れる

日本列島にはたくさんの美しい森林がある。訪れる四季はこの美しさを一層引き立て、俳句にも、山笑ふ(春)、山滴る(夏)、山粧ふ(秋)、山眠る(冬)と詠まれている。
私たちは常に顔色を変えていく山と森に心を洗われながら日々を過ごしている。森林は大切な社会的共通資本だ。

この山と森の美しさは、日本列島が南北に長く、幾つかの気候帯をまたいでいることにも関係がある。日本海側と太平洋側でも著しい気候の違いがあり、木々をはじめ生物の種類を豊かにしている。
山々には常緑樹と落葉樹、広葉樹と針葉樹が混交し、南から北、西から東へと、目まぐるしく様相が変わっていく。
同じ理由から日本の森林は温暖化の影響も受けやすい。樹木には自生に適した気温があるが、変化に即して逃げ出すことはできないからだ。
このため、今、山々に温暖化の影響が表れ、森の崩壊が進んでいる。

中でも深刻なものの一つがカシノナガキクイムシ(カシナガ)のもたらす「ナラ枯れ」現象だ。ミズナラやコナラなど、秋にたくさんのどんぐりを落とす広葉樹が次々と集団で枯れている。
カシナガは本州の温暖な地域や九州以南のカシの木などに生息していたが、温暖化で北東に移動を始めた。カシと木の構造が違うナラ類は枯らしてしまうため、宿り木を次々に替えることになり、ものすごい勢いで枯損を拡大させている。
夏に近くの山を見て、どうしてこれほど早く紅葉が始まったのかといぶかしく思った経験はないだろうか。目についたのは紅葉ではなく、初夏に羽化したカシナガに枯らされた木の無残な姿だ。

私は京都市に住んでいるが、その北方にある芦生という原生相の森でもミズナラ林が壊滅した。日本で最大だったミズナラの木も倒れた。
カシナガはさらに京都市中にも侵入し、お盆の送り火で有名な大文字山や、寺院の居並ぶ東山でも猛威を振るっている。被害は比叡山にも及び、京都は枯死木に囲まれた悲しい街になりつつある。
石川県の白山ではミズナラ林が跡形すら無くなった所がある。丹後から北陸にかけての被害は甚大だ。日本海側から太平洋側へのカシナガの越境も進み、島根から中国山地瀬戸内側、関ケ原から東海道、奥羽山脈から福島・宮城へと広がりだしている。
有効な防除法が京都の「北山の自然と文化を守る会」の主原憲司氏らによって確立・実行されているが、国や行政の対処は遅れている。

森が悲鳴をあげている。それは自然に対する敬いを失い、温暖化をもたらした人間への警鐘ではないか。温暖化を止め、山と森を守りたい。


カシノナガキクイムシ
体長約5ミリの甲虫。メスのマイカンギアという器官にキノコの一種のナラ菌を乗せて運び、穿入(せんにゅう)した木に植え込んでエサとして繁殖。1本の木に多くて数百匹が集まり、翌年に数十倍の数の成虫が羽化する。
主にカシの木の中心部を利用し、枯らさず生活してきた。だが、温暖化の影響で北東に移動を開始。ミズナラやコナラなどに接触したが、カシとの構造の違いから、ナラ菌が本の成長が活発な形成層に感染して壊死(えし)させ、枯死させる。被害は島根から秋田までの日本海側を中心に拡大している。

 続く

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明日に向けて(752)水害の多発とナラ枯れ・・・温暖化によって森が悲鳴をあげている(1)

2013年10月11日 08時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131011 08:30)

9月16日、おりからの台風によって、兵庫県・京都府・滋賀県にたくさんの雨が降り、洪水が発生しました。とくに京都市の桂川は福知山市の由良川からあふれ出た水の量が多く、多くの地域が浸水被害を受けました。
たくさんの農地も手痛い被害を受け、今、多くの地域で復旧作業が急がれています。僕もこの12日に、京都市京北町に住んでいて素敵な野菜たちを作っていながら、畑に被害の出た友人宅にお邪魔して、お手伝いをしてきます。
さて、こうした水害を発生させているものは何でしょうか。「ゲリラ豪雨」など、雨の降り方が極端になり、短時間でたくさんの雨が降るようになったことが指摘されています。
確かにそれらは間違った指摘でもないのですが、しかし僕が京丹後町や、亀岡市の人々に取材をしていると「雨はいつもの比べて極端に多い感じではなかった」という声も聞かれます。

それでは水害をより大規模にした要因は何だったのか。僕はその一つはナラ類が集団枯損する「ナラ枯れ現象」だったのではないかと思います。さらにマツ類が集団枯損する「マツ枯れ現象」もともにあり、総じて山の保水力が低減していたのではないかと思われます。
このことの確信を強めたのは、災害後に京都市の大文字山を訪れてのことでした。この山は銀閣寺の裏手にあり、もともとは社寺林であった山ですが、ここでも大量の土砂が発生し、銀閣寺参道の商店街の前を流れて、道路を埋め尽くしてしまいました。
商店街が損壊するほどの被害は出ませんでしたが、付近の側溝は大量の砂によって今も埋まっており、雨が降ると水は道路の上を川のように流れてしまう状態が続いています。
こうした水の流れを遡っていくと、大文字山の中腹の千人塚と言われる部分から下に向かって、大量のナラが枯死してしまった谷筋から大量の水が流れたことが分かります。

それではこのナラ類の木々を枯らす現象はどのようなものなのかというと、直接的にはカシノナガキクイムシ(カシナガ)という甲虫が木に穴をあけて潜入する中で起こっている被害です。
カシナガは、まずはオスが穴を掘り、メスを呼び寄せて中で繁殖を始めるのですが、そのときにメスが餌の「ナラ菌」を持ち込みます。このナラ菌が、木の「形成層」に感染し、死亡させてしまうのですが、その割合が多くなることで、木そのものを枯らしてしまいます。
ナラ菌とはキノコの仲間であり、カシナガに持ち込まれて木々の中で増えるのですが、それがカシナガの宿り木を枯らしてしまいます。このためカシナガは木を枯らすたびに、次々と宿り木変えていき、やがてその周辺一帯のナラ類を枯らしてしまうのです。
問題はなぜカシナガが宿り木を枯らしてしまうかです。このムシがもともとそのようなことを繰り返してきたのなら、ムシたちとて宿り木とともに絶滅してしまったはずなのです。宿り木を枯らしてしまうのは、その意味で不自然なことなのです。

原因は温暖化にあります。カシナガはもともとカシノキに住んでいる昆虫です。カシノキは枯らさずに上手に使うから、長年、安定的な繁殖が可能だったのです。なぜカシノキは上手に使えるのかと言うと木の構造が関係します。
多くの木は一番周りに樹皮があり、その内側に形成層という細胞分裂をしている個所があります。木の中で生物学的に生きているのはこの部分だけで、その内側は、サンゴ礁と同じように細胞学的には生きていないのですが、生物としての木を構造的に支えている部分です。
この形成層の内側は、辺材と言われる部分と一番中心にある心材という部分に分かれることが多い。木で生業をたてている人々は、「しろめ、あかめ」などとも呼びますが、この一番中心の心材の部分は、殺虫成分などもあり、ムシが利用しにくい個所です。
ところがカシノキはほとんど心材がなく、カシナガは木の奥まで進んでコロニーを作ってきたのです。ナラ菌もここに持ち込まれるため、形成層に感染することがない。ところがナラ類は心材が大きく、カシナガはその周りの辺材部分を利用しなくてはならないので、形成層が感染してしまうのです。

ではなぜカシナガがカシ帯からナラ帯に移ったのかと言うと、ここに温暖化が立ち現われてきます。ブナ科の常緑樹であるカシ類は、同じく落葉樹であるナラ帯に比べて、より西、ないし南に分布しています。
日本は列島全体に山々が広がっていますから、分布は位置の違いだけでなく高度の違いとしても現れてきます。100メートル上昇すると気温は0.6度下がりますが、このためナラ類は、カシ類よりも垂直分布で高い地帯に自生しているのです。
この山々に近年、激しい気温の変動が押し寄せています。平均気温が数度上がっているわけですが、かりに2.4度あがったとすると、垂直分布では300メートル分の変化があったことになります。その温度帯で活動していた昆虫は、300メートル上に上がれることになるのです。
ところが当たり前の話ですが、木々は気温が変わったからと言って、山の上の方に上がっていくことなどできません。そのためこれまでカシナガの活動領域でなかったナラ帯に、カシナガが活動を広げ始めることとなったのです。それで集団枯死が始まってしまいました。

これらから考えると、ナラ枯れ現象は温暖化による森林への影響の象徴である言えます。ではそれはどんな影響を山々に、森林に与えているのでしょうか。まずナラ類がたくさんのどんぐりをもたらす木々であるため、これを利用するたくさんの生物が危機に瀕しています。
例えば鱗翅類。チョウがガたちです。これらの多くが(400種という推定があります)、どんぐりに卵を産み付け、孵化に利用しているため、大変な打撃を受けてしまっている。さまざまなチョウ類、ガ類が絶滅の危機に立っています。
チョウやガが危機に立つと、すぐに窮地に陥るのは鳥たちです。なぜか。多くの鳥たちが雛の育成にチョウやガの幼虫を使っているからです。とくに春になると一斉に木々が芽吹きはじめ、それに伴って、幼虫の孵化が始まります。
次第に伸び始める落葉樹の薄く柔らかい葉が、イモムシたちには一番食べやすいからですが、次第に大きくなる幼虫は、やはり次第に大きくなる雛の成長にぴったりです。だから私たちの国には春にたくさんの鳥が世界中から集まってくるのです。たくさんのイモムシが春先に登場する私たちの国の山と森が、鳥にとって子育て天国だからです。

ところがどんぐりの激減で、チョウやガが産卵に失敗しているため、山も森も、イモムシが少なくなってしまっている。子育ての大ピンチです。どんぐりにはもともと豊作年と凶作年がありますが、とくに近年の凶作年では、子育てに失敗する鳥たちが激増しています。
これが分かるのは夏先になっても、鳥たちが求愛行動を行っているためです。春先に子育てに失敗した鳥たちが、再度、子育てに挑戦しようとしているために、春にしか聞かれない求愛の鳴き声が聞こえるのです。しかしこうしたことが繰り返されれば、やがて鳥たちの鳴き声そのものが消えてしまうでしょう。
どんぐりは他のたくさんの生物も利用しています。小動物ではネズミたちがそうですし、大きなものではシカやクマたちもたくさんのどんぐりを食べます。とくにクマはどんぐりが好物で、大量に食べて、冬の冬眠に備えます。
これらの動物たちも等しく打撃を受けてしまっています。その結果、餌が得られずに困窮したクマたちが、人里に下りてきてしまうことが頻発しています。クマは非常に知能が高く、自然界の中で最も恐ろしい人間にできるだけ近づかないようにしていますが、「背に腹は代えられず」、里に降りてきてしまうのです。

影響は生物界だけには及びません。カシナガの被害は、山々の動物たちの餌の現象に結果しているため、クマだけでなくシカやサル、イノシシなど、あらゆる動物が里に降りてきてしまい、農作物を襲う被害も激増しています。
このため山里の農地は、どこもシカよけのネットや囲いなどで周りを覆わなくてはならなくなりましたが、動物たちが食べるのは農作物だけではありません。草花なども大好物なので、人々が心のなごみのために家の周りに植えていた花々も食べられてしまっています。
最近ではこうした被害は山里にとどまらなくなりました。例えば、京都市では北部の北山のシカたちが次第に南下してきてしまい、東山の中の大文字山などに土着してしまいました。そのため京都市内の東山周辺でも、人家の周りのものが食べられてしまう被害が起こっています。
シカは増える一方で、市内を流れる鴨川の岸辺での目撃も多くなっています。僕自身も大文字山などで気配を感じることが多くなりました。とくに夕方になると、シカが間近に移動する音を聞くこともあります。最近は登山客からシカの目撃の報告が聞こえてきています。

こうした異変は動物界だけにもたらされているのではありません。森の喪失が、山の在り方そのものを大変動させつつあります。
ナラ枯れは、当初はナラ類の中でも大木の多いミズナラに集中し、とくに京都の芦生の森では、日本の中で最大と言われたたくさんのミズナラが次々と倒れていきました。カシナガに襲われたミズナラの枯死率は非常に高く、多くの地域でミズナラの林が忽然と消えてしまったほどでした。
これに続いて、カシナガはナラ類を猛烈に枯らし始めたのですが、そのためたくさんの木々が失なわれ、それまでこれらの木が根をはることでしっかりと保持されていた土壌の流失が始まりました。ここに雨が降ると、地中に吸い込まずに表面を流れ始めます。保水力が奪われだしたのです。
およそこうしたことが続く中で、今回の水害に顕著な大変化が起こってしまったと考えられます。その点で、水害は、温暖化で痛めつけられた山と森の悲鳴として私たちに迫っていると言えます。いや今や私たちはその声をこそ聴くべきなのです。

続く

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