明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1273)闇に葬られた事件のことを知って欲しい伝えて欲しい・・・(川口美砂さんとの対談-4)

2016年06月20日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160620 23:00)

川口美砂さんとの対談の4回目です。今回で対談部分は終わり、次回、質疑応答を掲載して連載を終わります。
なお前回掲載分の中に、川口さんがお父さんの被曝に気がつかれたことくだりがありましたが、川口さんはその後も調査を続け、なんとその頃、お父さんと同じ船に乗っていたおんちゃん、しかも親友だった方と出会われました。
それら『放射線を浴びたX年後2』のその後と言える内容がまとめられ、この6月26日の深夜に放送されることになりました。ぜひご覧下さい!Facebookの予告編ページをお知らせします!

NNNドキュメント’16
『汚名 〜放射線を浴びたX年後〜』(1時間・日本テレビ)
放送時間 6月26日(日) 深夜24時55分〜
語り 樹木希林
https://www.facebook.com/video.php?v=1042961179126965

以下、対談の続きです。

*****

連載第4回

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂×守田敏也


◇おんちゃんたちへの思いが募る

守田
お父さんが亡くなった時、お母さんと6歳下の妹さんと3人残されて、「酒の飲み過ぎで死んだんだ」と言われたりして、悲しい思いをされたとお聞きしましたけれども、そのあたりはどんな気持ちだったのでしょうか?

川口
「酒の飲み過ぎで死んだ」と言われて、悲しいのは悲しいのですけど、室戸ではたいていの漁師は早く死ぬとみんな「酒の飲み過ぎ」で片付けられるのですよ。そのためそれを言われたからといって特別な感じはなかったですね。
それがこのように調べていくにつれて分ってくることがたくさんあって。たった2年前に初めてたくさんの漁船が被曝していたことを知って、そこから色んな話を聞かされて勉強も重ねて、3・11以降色んなところで放射能の怖さも知ってきたことも重なって。
父のことに限らないのですが、人々には何も知らされてきませんでした。マグロにしたって検査されたのは昭和29年のあの3月1日から12月までだけで、その後にもう大丈夫だと打ち切られたのですよね。

だけどそもそも原水爆による核実験は、終戦の翌年の1946年から1962年までに100回以上もやられていたのです。
後追いで昭和29年だけは集中的に対策がなされていますけれど、それ以外の年の水爆実験のあった年にも、父もしっかりその海域を航海しているのです。高知県だけでなく全国の漁師さんたちのほとんどがです。マグロ漁船に限らず、貨物船も、捕鯨船も。
えらい大変なことをしていたのだと。歴史的に考えても。あのころは世界的に核実験だらけだったのですよね。

それでもう、私の意識もすごく変わってきました。「父もお酒で命縮めたな」から、「父もそういう目に遭っていた」にですが、多くの船員さんへの思いというか、とても強い憤り、許せない気持ちが募ってきました。
この問題、とにかく知らない人が多い。私もその一人だったのですけれど。事実の解明というのはなかなか時間のかかることでしょうが、一人でも多くの人にこの事実を、ビキニ事件で何が起こったのかを伝えていきたいというのが今の私の気持ちです。

守田
『X年後2』の中でとても印象的なシーンがありました。高齢者の介護施設に入られていた漁師さんの一人を川口さんが訪ねて行かれた時に、その方が「自分に来るガンが息子に行ってしまった」とおっしゃっていました。
息子さんが30代後半でガン亡くなったことが説明されて「一番大切なものを取られた」とその方がおっしゃり、観ていて胸がつまったのですけれど、この時の聞き取りはどのようなご様子だったのでしょうか?

川口
ご親戚がその方から「ビキニで光を見たり、海が突然汚れたりした」と語っているのを聞いたと言うことで、「聞き取りはどうですかと」とお声かけいただいのです。それで行きました。
その時はまったくそんな話が出てくるとは思っていなくて、見たことをそのまま話していただくつもりだったのです。3回ほど光を見たことなどもお話ししていただきました。
すると突然、その方が、マグロ船から貨物船に乗り換えた頃に生まれた子どもさん、昭和38年生まれの方ですが、「それがガンになってしもうて、41歳でのうなってしまったんや」と言われたのです。どう声をかけたらいいものか分かりませんでした。
「ワシに来るもんが息子に来てしもうて、それから女房がおかしくなってしもうて」と語られました。ひとり息子さんだったそうで、かなり辛い思いをされたようです。

守田
子どもへの影響について語られたのはその方ぐらいですか。

川口
私が聞いた範囲ではその方ぐらいでしたね。
土佐清水でも20人ぐらいの漁師さんから聞き取りをしています。先週も土佐清水に行って一番最近の昭和4年生まれの方のお話ですが。その方はいきなり「ワシは13で長崎に行ってな、三菱で魚雷作っとったんや」と言われました。
長崎でも工場で被爆されて、怪我人の救助などをいっぱいされて、その後に土佐清水に帰ってきて、マグロ漁船に乗るようになって、今度はビキニで被曝されたのです。2回被曝された方のお話しでした。

守田
2回も被曝された方のお話は、伊東監督の本の中にも出てきましたね。長崎で爆心地から1.8㌔で被爆されて、その後マグロ船の漁師さんになられて被曝し、病気になってすごく苦しまれて、最後は海に入られて自ら亡くなられている。
監督さんは墓前にお参りされたと書かれていました。あの年代はそういう方もいっぱいおられたのでしょうね。
ところで、そのようにおんちゃんたちのお話を聞き取っていかれる上での苦労というか、難しかったことはどのようなことでしょうか?

川口
そうですね。最初に会ってくれるかくれないか、そこのところが一番難しいし大切で、その入口が一番しんどかったですね。
でも最近は本当に変わってきたなと思うのは、一度聞き取りした方にも、「おんちゃん、どうしてる?元気にしてる」とその後も訪ねるようにしているのです。努めて。そうしたらすごく喜んで下さって、あらためてまた話してくれることもあるのですね。
そうしたらすごくアットホームな雰囲気を作ってくれるようになり、コミュニケーションもしやすくなりました。今までは縁側からの聞き取りでしたけれど、今度は「まあ玄関から入れや」と言われるようになってきている。

最初はやはり、いくら「室戸の子や、漁師の子や」といっても、知らない人間にいきなり自分の大事な話をするはずがないですよね。
ただそれで終わったら仕方がないので、心を開いていただくまでとにかく粘って、辛抱強くアプローチしていく。しんどいのはその過程のことです。
それとご高齢な方々なので、もうすでに4人ぐらい亡くなられています。母から「○○さん入院されてるようだよ」と言われて、次に帰った時「まだ入院してるよ」と言われて、その次には「あっ、亡くなったらしいよ」とかいうことがあるのですよ。
若い時にガンを患って、「2回もやってるからもう大丈夫だよ、もうないよ」と言っていたのに、去年の暮れからまた大腸ガンになって、でも達者で退院してきている人もいます。
その方には、今後私の希望として、労災保険の適用申請をお勧めしようとしています。

まだ私自身もよく手続きを知らないのでこれから勉強しなければならないのですが。山下先生たちはプロジェクトを立ち上げて、そういう活動を進めていらっしゃるのですね。
第五福竜丸の船員の方々の労災申請で尽力された浜松市の聞間先生という方がいらっしゃるのですが、7人ほど医療費の援助を受けられたのです。
その先生に勉強させていただこうと思って、3月にお話を聞いたのですけど、もう申請のフォーマットがあって一人でも申請できるようになっているらしいのです。

一人でもできるのであれば、私が先生からきちんと教えてもらって、それを室戸のおんちゃんたちにお伝えしたい。それも私の役目であればやりたいと思っています。
労災申請を出した先の審査は、第五福竜丸の方たちとは違って厳しいとは思いますが、やらないよりはやった方がいい。「こういうふうに出せばいいのか」と申請しようかという思いが広がっていけばと、新しい一つの希望を持っています。
大腸ガンになったその方にもそのお話をしたら、最初は「もうええ、もうええ」と言っていましたが、「これやってもし通ったら、お金で苦労している人がいたら『ワシでもできるんだな』と希望になるのでどうでしょうね」とゆっくり、丁寧に説明すると、「じゃあ申請してみようか」となってます。

守田
ここはすごく大事なポイントだと思います。これは映画の次の段階のことですが、考え直さなければいけないのは、第五福竜丸は焼津の船でした。『X年後』で取り上げられたのは高知の船です。でも実際の被害は全国に及んでいるのですね。
特に太平洋のあらゆる港から船は出ていますから、その中にはここにおられるみなさんの郷里も含まれているかもしれない。伊東監督はその全国各地で聞き取りをして欲しいと願っているのです。
その時に川口さんがどうやっておんちゃんたちの中に入っていったのか、その経験が重要なポイントになると思います。
伊東さんはこの事実の掘り起こしや聞き取りの動きを全国にもっと広げて欲しいと訴えていますね。そのために映画の上映もして欲しいと。これに応えたいと思います。

ところで、川口さんはいつの間にか映画の主人公になってしまっているのですけれど、その辺りについて、監督さんは川口さんにどんなアプローチをされたのでしょうか?


◇自ら考え、行動する力を与えられた

川口
監督は一切何もしゃべりませんし、ただ私が聞き取っているところを取材させて欲しいということだけでした。もちろんそれが記録になるので「どーぞ、どーぞ、ご一緒に」ということで始めてきたのです。
月に一回、多い時は月に三回、四回になる時もありますけど、聞き取りしているところを撮影して記録してもらっています。
最初は私、「お手伝いをします、下働きでもなんでもします」ということで関わっていったのです。カメラが回されていても、私はカメラの後ろにいるようにして。
次第に私が聞き取りに協力して下さる方をリサーチしたり、訪ねたりする姿もカメラで追うようになられました。
父の船員手帳や航海日誌が出てきたあたりから、もう少し私をクローズアップしたいと思われるようになったみたいです。その頃から私自身、何となく「写されているなあ」と思っていました。

守田
監督はどう言われたのですか?

川口
「あれして、これして」は一切ないですし、インタビューでも何を聞くかなど少しはアドバイスがありましたけれど、他は何もないのです。
私もドキュメンタリー映画は好きですし、少しは身構えるものもあるのではないかと思っていましたけれど、まったく何もない。「ああそうか、これがドキュメンタリーなのだ」と思うようになって。
私の露出がこんなにあるとは、試写会で観るまで知りませんでした。初めての試写会は割と盛会でしたけれど、観てびっくりしました。編集方針の打ち合わせとかも全くないし、何の話もしてくれませんでした。それがドキュメンタリーなんですね。

守田
最後に映画が公開されてこれからのことについて、川口さんが希望されていることについて、みなさんに訴えたいことについてお話し下さい。

川口
まず、一つの映画によって私の意識がこれだけ変わったことが印象的です。自ら考えて行動する力を与えていただけました。伊東監督との出会いも大きかったです。
知らなかったとことは「無かった」ことにされる、知らされなかったことも「無かった」ことにされる。知らさないというのは、事実を「無い」ことにしようと、行なっていることだろうと思います。ビキニに限らず公害でも薬害でも同じようにです。
権力を持っている人たちは、これらの事実を、何事もなかったようにするのが、彼らにとって一番平和に収まる道だと思ってそうするわけですが、とんでもないことですね。でもそんなことは神様が放っておかないです。

ビキニについては、伊東監督が、土日もなく、愛媛から何の得もないのに、小さな車で何度も高知へ来て、取材して映像に収めて、南海放送の深夜放送でシリーズで放映して世に出したのでした。
でも視聴率は稼げないし、人からは「何やってんだ」と言われて立つ瀬はないし、もうボコボコの状態で辛い思いを延々とされたのですが、「今、自分がこれを止めたら漁師さんたちへの誠意がなくなる」という思いでやってこられました。
皮肉なことに2011年のあの悲しい出来事によって、国民のみなさんの意識が放射能に向けられるようになって、伊東監督の『X年後』がクローズアップされたのですね。その中で、私自身も、たった2年前にこのことを知ったわけです。

これからも私には大きなことはできません。自分に無理を課すとパンクしますし、いっぱいっぱいになってしまうので、できることを一歩づつやっていけばまたそれがどこかでつながるのだと思っています。
やはり若い方たちに知っていただいて、事実を継承していってもらえればとても嬉しく思います。
映画は九州から北海道までたくさんの会場で上映をしていただきました。明日は神戸でも上映会があります。
そこでもご挨拶する時間をいただくのですが、その時に必ず言うのは、「今日見たこと、初めて知ったことを、お家に帰って、お友達一人でもいい、家族内でもいいから話して欲しい」ということです。そしたらその人たちからまた話が広がっていく。
とにかく一人でも多くの方に、この闇に葬られた事件のことを知ってもらいたいというのが私の願い、希望です。今日、聴いていただいたみなさんにも、是非この事実を広げていただくようにお願いいたします。

ありがとうございました。

続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする