守田です。(20160619 23:30)
川口美砂さんとの対談の3回目です。今回は川口さんが訪ねた多くのおんちゃんが、〇〇丸の最後の生き残りだったこと、また調べていくうちにお父さんも被曝水域で操業されたことが分かったことについてのくだりです。
再び『放射線を浴びたX年後』の公式サイトをお知らせしておきます。
http://x311.info/part2/
自主上映についてのサイトです。
http://x311.info/blog/theater/
*****
連載第3回
京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂×守田敏也
◇「〇〇丸の生き残りはワシ一人や」
守田
『X年後1』を観ると、あの時光を見たとか、太陽のようなものを見たとかありますが、そんな話も聞かれたのですか?
川口
ある乗組員の人は、「お日様が沈んだのにもう一回ポコッと出てきた」とか言っていました。「何かが降っていることに気が付かんかったけれど頭に手をやったら灰だらけやった」とか。
光を見て「ワシはいろんな海で航海してきたけどあれはオーロラやないぞ、あの赤さはなんやろ?今でも分らんけど」とか言った人もいました。でも何も見てない人もいるんですね、実際には。
守田
お話しを聞くのは生き残りの方ですよね。その方たちから亡くなった仲間の方たちのことは出ないのでしょうか?
川口
だいたいマグロ船の乗組員は一隻20人から23人ぐらいで操業します。話を聞きに行って、「〇〇丸の生き残りはワシ一人や」という人が多いのです。
もちろんお話ししてくれる人は今も達者な人たちなのですけれど、その達者な人たちが「自分は生き残ったけど他はみんな若くして亡くなってしまった」と言います。
守田
少し話が飛躍してしまうのですけれど、実は僕は最初に『X年後2』を観に行った時に先に川口さんにお会いしていて、映画が終わった後にお話しさせていただいたのですが、その時、初めに口から出てきたのは「川口さん、お父さんたちの仇をとりましょう」ということでした。
というのも僕も福島原発事故以降、放射線被曝から命を守る活動をしてくる中で、「被爆者の方が僕の背中を押してくれてる」としか考えられないような不思議で恵まれた出会いがいっぱいあったのです。
そんな中で僕には被爆者からの「仇をうって欲しい、無念を果たして欲しい」と言う声が聞こえてくるような気がしていました。
川口さんとの出会いもまさにそうした出会いの一つなのですが、それで川口さんに「川口さん、漁師さんたちが背中を押してくれていると感じるのではないですか?」と聞いたのです。
そうしたらお話しして下さったのが今のこのお話でした。辿りつく船、辿りつく船で、最後の一人だけが、まるで聞き取りを待っていたかのように生き残っていらっしゃる。
川口
そうですね。亡くなるまでには個人差がありますからね。うちの父みたいに36歳で亡くなった場合もあるし、中には20歳で亡くなった方もいらっしゃる。私の先輩のお父さんは46歳で亡くなっています。そういう若くして亡くなられたケースがたくさんありますが、実際私が聞き取りをしてる人たちは長生きされた方で、この方の生命力のお蔭なのかなあと思いつつ、でもこの方たちは語るために生かされているのではないかな、みたいな気持ちにもなってきていますね。
それぐらいほとんどの方が亡くなられていますから。
守田
でも生き永らえている方も病気とかは結構されているのですよね。
川口
その通りです。若い時からガンを患って、いろんな所に転移して、でも87歳まで生きておられる方がおられます。
守田
そういう聞き取りの時にですね、監督さんはずっと遠くにいて、カメラ持って待たれていたというお話ですが。
川口
それはですね、おんちゃぉんたち、電話では「おお、来てええよ」と言うのですが、私が行って「実はテレビ局の人と一緒なんよ」と言うと、ほとんどの人が「それはイカン」と言われるのです。
そんなおんちゃんを説得して取材を受けてもらうのも私の役目なのです。
監督はその間、ずっと遠くで、カメラを回すことがOKになるまで待っているのですね。許可を得ていないのに、ずかずかと上がり込んで撮影できるような人ではないのです。そのために大雨の日に外で遠くで立っていて、私がOKサインを送るのを待っている。
そういう態度が今、室戸の人たちにすごく信頼を作り出しています。相手の心に寄り添って、誠実に、地道に取材に取り組まれていることが、どんどん信頼を広げて、室戸の中に信頼感が浸透しているのですね。
守田
そうやって聞き取りをされる中で、お父さんが被曝されていたことについても確信が深まったと思うのですが、そのあたりの経過はどうだったのでしょうか?
◇父も被曝地域で操業していた!
川口
父のことは、最初にこの映画製作に参加させていただいた当時は、マグロ漁船に乗っていた漁師さんたちの中の一人ぐらいに思っていたのです。実際にどの海域で航海していたとか、魚捨てたなんて話も聞いたことはなかったですし、聞く時間もなかったのです。
また「ちょっと調べようがないなあ」と思ったのは船員手帳が手許になかったからです。
父は当時の若者たちがそうであるように、父親(私の祖父)を先の戦争で亡くして、その上子だくさんの家で育ったのです。父には一つ上に姉がいて、下には4人の弟妹がいたので、中学を出た時に勉強したくてもさせてもらえなかった。
家族の柱にならなければいけなかったのです。室戸ではそうした男性は、だいたいが一番稼ぎのある漁師になるのですね。伝統です。漁師さんが多いですから。
父が亡くなった時、一番下の妹(私の叔母)がすごく父の世話になっていて、慕っていたということもあって、自費出版で父のことを残したいということで、航海日誌とか船員手帳を引き取ったのです。
私の母は、日誌などにはプライベートなことも書いてあるので渋ったのですけれど、結局叔母に預けていたのです。
私は手帳の行方を知りたかったのですが、4年前にその叔母が亡くなったので、調べようがなかった。義理の叔父にいろいろ尋ねたりしましたが分らなくて、やっぱり捨てられたのだと思い込んでいた。
ところが去年の7月に室戸の実家に帰った時に、母の住んでいる集合住宅の一室に、小さな収納スペースがあり、普段は扉の前に物がいっぱいで扉も開けられなかったのに、そこが整理しようと片付けの途中のような状態になっていたのです。
私がそこを最後まで整理してあげようと思って部屋を開けてみると、奥の方に古い小箱があって、サイズ的にノ―トか何かが入っているような箱だったのです。
その時、「はっと」と感じるものがありまして、「ええっ!」と思いながら、「まさか!」と独り言を言いながら出してきて、開いてみたら「出たっ!」っという感じで、本当にビックリしました。父の航海日誌と船員手帳が入っていたのです。
私にしてみたらすぐそこにあったものだったのですけれども、多分、映画製作に参加していなければ見つけても「ああここにあった」で済まされていたのだと思います。そんな感じで一番欲しかったもの、父の足跡を追えるものが見つかったのです。
その時、父が亡くなった時のいろいろな書類なども一緒に出てきました。母はいろいろな手続きを率先してできる人ではなかったので、12歳の、小学校6年生の私が代わりにやっていて、私の字で書いたものが出てきたのです。
手帳を失効させる手続きとか、死亡診断書を取り寄せるとか。もうやらざるを得なかったのでしょうね。
守田
船員手帳とか航海日誌が出てきたのは凄いことでしたね。それにはどんなことが書いてあるのか、みなさん、知らないと思うので教えて下さい。
川口
マグロ船の漁師ということでお話しすれば、乗船するのに船員組合に入って、そして船主さんが雇用しますよってことで、○○年○○月から○○年○○月まで○○丸に乗ってましたという記録がされているのですね。
小さな、パスポートみたいな大きさで。それが次の乗船の時にも必要になるし、漁師にしたら一番大事なものなのです。
守田
漁師さんたちは、けっこう、乗る船を替えられることが多いらしいのですが、その手帳がないと船を替えることができないわけですよね。漁師さんたちの収入は、どれだけの漁獲高があるかにかかっているから、漁獲高の多い船を求めて、どんどん船を渡り歩いていったりするそうです。そのために後になってからある一隻の船について、一緒に乗る船の仲間を見つけるのも結構大変だと本や映画で知りました。
ところで『X年後2』の映画の中では、多くの漁師さんが1954年のページを破り捨てていたことも描かれていましたが、お父さんはどうだったのですか?
川口
父の手帳には1954年のページはありましたね。
私も延べにすると80人以上の漁師さんたちの話を聞いてきました。もう船員手帳をなくしている方もあって、その点は、当時、「これは絶対に必要なものだよ」と徹底されていなかったことに原因があると思いますけれど。
でも大事にしている人たちは、長く船に乗っていた人はもう束になるほどのものを持っていました。持っている方の手帳を見せてもらうときには、まず調査をしている昭和29年のページを見せてもらうのですけど、映画にあったようにそこが破られている人は、私が見た範囲ではなかったです。
確かに映画では、船員保険組合に勤めていた女性が「そう言えば昭和29年のページを破ってた人もいたよ」と言っていましたが。
守田
被曝の事実を隠そうとしたわけですよね。広島・長崎の被爆者もそうですけど、被害者が自らの被害を隠していかないと生きづらいということがあった。
それで、お父さんの手帳を見られて、お父さんがおられた所(海域)がハッキリしたわけですね。
川口
ええ、もうハッキリしました。昭和29年には第二大鵬丸と第五豊丸という船に乗っていて。これをもっと確実なことにしたいと、昨年の夏に厚生労働省に行って情報開示をしてもらいました。
手帳だけでなく情報開示してもらえれば、この事実はもっと確かなものになるからです。
確実に魚を捨てていました。両方の船共に。あの汚れた海で操業していて体に影響がないはずがない。しかも当時はまだ冷凍技術のない時代ですから、航海してて10日ぐらいで野菜が無くなるのですね。ですから航海の後半は釣った魚を食べる。
しかも内臓など、珍味なのですね。だからよく食べる。スコールで体も洗う。米も、真水は貴重ですから洗米の最後の時だけ使って、他は海水で研ぐ。
これはもう、まったく影響ないことはありえないなと確信を持ちました。
続く
------------------------
守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90
[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4
ブログ内容をメルマガで受け取ることもできます。
お申し込みはブログからのメールかFacebookでのメッセージにて。