守田です(20210603 15:00)
● 核との共存なんてありえない!
昨日、四国・岡山訪問の旅を終えて京都に戻りました。
5月10日から13日の福島訪問も含めて、旅の報告を後日行いたいと思います。
今回は、山口研一郎さんの小論、「原発被災地・フクシマに漂う「核との共存」ー被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した」の4回目、最終回をお届けします。
山口さんはここで端的に福島に「核との共存」の動きが忍び寄ってきていることに強い警戒を訴えています。
「漏れ出てしまった放射能とうまく付き合う」などといって、甚大な汚染をもたらしたものを免罪しつつ、被災者にさらなる被曝を許容させようとの動きを紹介しつつ、原爆の真の恐ろしさとの対決を貫いた、故秋月辰一郎医師の言葉も紹介しています。
核との共存の強制など、絶対に許してはなりません。そのためにぜひこの山口氏の論稿をあちこちで広めていただきたいです。末尾に紹介されている共著『国策と犠牲』も強くお勧めします。
以下、連載最終回をお読み下さい。
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「原発被災地・フクシマに漂う「核との共存」ー被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した」その4
6 . 福島の地に忍び寄る「核との共存」
長崎における核への怒りの沈静化、そして「共存」とも言える経過について紹介してきました。では、今日の原発被災地福島についてはどうでしょうか 。県外に住む私どもにとって、その実態はあまり見えてきません 。ただ時折聞こえてくるのは、「(子どもの甲状腺癌の発症原因について)科学的で正確な説明がなされず、住民が的確に考え判断する機会が奪われている」「福島では、原発被害について声高に語ることがタブーにされつつある」といったことです。
それはかつて、永井氏と同様な被爆医師として、戦後50年間医療活動を実践してこられた故秋月辰一郎氏(聖フランシスコ病院院長)が、1972年に出版された 『死の同心円ー長崎被爆医師の記録』 のあとがきに書かれた以下のような内容と一致します。
「長崎原爆の実態が、はじめから知られていない、正確に調査され、記録されていない、という不満が私をいらだたせるのである。被爆の直後から、これを知らせまいとする、またくわしく調べさせまいとするなにかがあったのではないだろうか」
「要するに、原子爆弾というものは、終始私たちには知らされず、歴史の流れのなかにぼかされていく」
「じつはだれもほんとうは原爆について知らないのである」
さらにここにきて以下のような記事が、2018年3月3日付『毎日新聞』や3月5日付『朝日新聞』に掲載されています 。
1つは、芥川賞作家玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏についてです。2013年短編小説集『光の山』において、放射線を浴びた土や木々や草葉を所有地に進んで受け入れ、積もり積もって不思議な光を発する山になる幻想的な寓話が描かれました。そして、2018年1月に出版された小説『竹林精舎』中に、「愛し合うって、被曝し合うことだよね」という若者たちのつぶやきが描かれます。玄侑氏は記者の質問に、「漏れ出てしまった放射能とは上手に付き合わねばなりません」と語ってます 。
一方、前原子力規制委員長の田中俊一氏の談話も紹介されています。現役を退き避難指示が解除された飯館村に住む田中氏は今後の任務として、「放射能汚染の環境で生き抜く力を持つ子供たちを育てたい」と語っています (その一方田中氏は、2018年10月17日付『毎日新聞』において、「問題を先送りしながら原発を動かしていくなら、やめた方がいい」とも語っています)。
今私たちには、「核との共存」をきっぱりと拒否するのか否かが問われています。被爆地・長崎が戦後辿ってきた道を繰り返すのか否かが問われているのです。秋月氏は『死の同心円』の最後を以下の言葉で締め括られています。
「賢くて愚かな人間は、あの八月九日から全然変わっていない。悲しいことにおなじあやまちをくりかえそうとしているのである。あれから、とうに四半世紀がすぎたというのに・・・」
そして現在「 四半世紀」どころか、75年になろうとしているのです。
山田氏や永井氏、秋月氏、また生前のお三人と親交のあった故土山秀夫氏(元長崎大学学長)について詳しく紹介し、さらに松井氏や明通寺住職中島哲演氏、1985年のチェルノブイリ原発爆発当時、日本の原発に強い警告を発した故水戸巌(いわお)氏の御伴侶、喜世子さんなど、多くの方々の原爆・原発に関する論文を掲載した『国策と犠牲ー原爆・原発 そして現代医療のゆくえ』(山口研一郎編著、社会評論社、増補改訂版、2016年)にお目通しいただければ幸いです。
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以上で山口氏の論稿の連載を終わります。
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