守田です(20230702 10:00ジュネーブ時間)
● ジュネーブに着きました!
みなさま。ジュネーブに来ています。福島原発事故避難者の人権をググッとあげるためです。
明後日7月4日に、日本に来て避難者調査をして下さったセシリア・ヒメネス=ダマリーさんの正式報告がなされます。またそれに合わせて3日にサイドイベントが行われます。双方共にLIVE中継するのでご注目を!もちろんがっつりとした取材も行います。
イベントの詳細については以下の記事をご覧ください。
明日に向けて(2342)福島原発事故避難者の権利を守り、向上させるため国連に行ってきます!ぜひ支えて下さい - 明日に向けて (goo.ne.jp)
今回は旅の途中のFacebookへの投稿をご紹介します。
● 6月29日午前9時 関空より
みなさま。まもなく出国です!
マレーシア航空でクアラルンプールに行きトランスファー、さらにマレーシア航空でドーハに行きトランスファー、そこからカタール航空でジュネーブ着。日本時間の明日の15時ぐらいの予定です。29時間の旅を選んで航空券代を削りました!
ただしジュネーブ空港、ぬわんと、空港の労働者たちがストライキに突入するらしい!スイスの労働者強い!なんか嬉しい(笑)
でもこちらはどこに着くのやら。関空で聞いてもさっぱり分からず。スイス内の遠い空港に降ろされるとか、手荷物が届かないとか、いろいろありうるそうです。
まあなあ。それもええやん!
スイスの労働者連帯!で頑張ってジュネーブに辿り着きます。
ちなみに搭乗する飛行機を見たら虎でした(笑)虎だあ。虎になるんだあ!
行ってきます!
● 6月30日午前1時過ぎ(現地時間) ドーハより
みなさま。ドーハまでやってきました。こちらは午前1時過ぎです。家を出てからすでに26時間。それで問題のジュネーブ行きのフライトですが、無事に飛ぶそうです!ただし3時間遅れの出発。こちらの午前5時、日本の午前11時発です。
それで6時間半のフライトで、スイス時間の午前10時半にジュネーブ空港に着きます。
総計で36時間の旅。7時間のフライトが3回。うーむ。結構、ダメージは大きいなあ。
高度12000メートルを飛んでいたので、たぶん5μSvぐらいの宇宙線被曝が続いていると思います。
今回は被曝対応のオイルなどなどいろいろなグッズを持ってきていますが、ある方からいただいた良い塩も持ってきました!ここのところ被曝のダメージ回復に塩が効くとの証言にたくさん接してのことです。ホテルに着いたら白湯で飲みます。とにかくジュネーブまで確実に辿りつかなくちゃだ!
ドーハ国際空港にて
熊のモニュメントの前で
ここでマレーシア航空機からカタール航空機に乗り換え
● マレーシアのこと。。。
さて今回の旅の目的は、国連人権理事会を取材すること。福島原発事故避難者の人権をグッとあげることを目指すこと、また福島原発からの放射能汚染水の放出に歯止めをかけるためです。
それでもここに来るまで、クアラルンプール空港についてそこでトランスファーしましたが、5時間の滞在中に、いろいろ調べ、考えました。
それで過去に調べたことも含めて書きますが、クアラルンプールはマレーシアの首都です。と、これはどなたもご存知ですね。表記はご存知でしょうか?Kuala Lumpurで、意味は「2つの泥の川が合流するところ」だそうです。
この国際空港は、さすがにマレーシアを構成するマレー系の方、中華系の方、インド系の方が闊歩している。ああ、アジアなんだなあと感じました。白人よりアジア人の方が圧倒的。でも英語がすごく使われているのが分かりました。隣にいたたぶんマレーシア人の家族が英語で話していました。小さい子もでした。
これはイギリスの植民地支配が長かった影響なのですね。そもそもかつては英語が公用語だったのだそうです。いまはマレー語が公用語ですが。
イギリスはこの地域を英領マラヤとして支配していた。もっとも最初にこの地域にきたのはポルトガルで1511年のことでした。そのあとはオランダが1641年にきました。この時代はポルトガル領マラッカ、オランダ領マラッカと言います。そして1824年からイギリス領マラヤとなった。
1800年ごろの東南アジア 「東南アジアへの侵略と統治地図@世界の歴史マップ」より
クアラルンプール国際空港より
クアラルンプールからドーハにはこの飛行機に
● 日本軍が侵攻した!
第二次世界大戦のときに、そこに攻撃を仕掛けたのが日本軍でした。マレー半島に上陸した日本軍は、半島最南端にあるシンガポールへとイギリス軍を追い詰めていき、降伏させました。
当初、マラヤの方たちの中には、イギリス軍を打ち破る日本軍に共感した方もいたようです。でもその時、日本軍は、中国で八路軍ー中国労農紅軍に散々にやられていた経験などから中華系の方たちを敵視。弾圧を加え、拷問や虐殺を繰り返しました。
中心になったのは広島を本拠とする陸軍第五師団。それまでは中国を荒らしまわった部隊ですが、1937年7月7日の盧溝橋事件後に師団長となった板垣征四郎の元、「支那派遣軍」の中心として各地で戦闘を繰り返しまきた。ただし「平型関」の戦闘では林彪率いる八路軍に打ち負かされた経験も持っています。
ちなみに板垣征四郎は「満州国設立」の仕掛け人であり、石井731部隊の前身である関東軍防疫部の設立提言者でもありました。戦後にA級戦犯として死刑になっています。
さて日本軍は一方で中華系の人々への殺戮を行いながら他方でマラヤの王族の師弟などを「南方留学生」として日本に送り込み、大東亜共栄圏のリーダーにしようとしました。その1人がサイド・オマールさんでした。
温かい地が良かろうとのことで広島が選ばれましたが、オマールさんはそこで被爆し、命を落としてしまった。そのオマールさんのお墓は京都市左京区にあり、僕もここ数年、法要に参加しています。
マラヤは日本の敗北のあと、独立を目指していった。まずはマラヤ連合となり、すぐにマラヤ連邦となって1957年にイギリスから独立しています。さらにシンガポールも含めてマレーシアを形作ろうとした時に、シンガポールが独自に独立して国が別れたのだそうです。1963年のことです。
ここにも深い歴史がありますが、一言では書ききれません。また僕自身がまだまだ分かってないことも多い。
私たちはこの地域に日本軍が何をしたのかをもっと掘り下げなくてはならないし、それも含めてもっと大きくアジアの歴史をつかんでいかねばです。なぜってそこに私たちがなんであるのか。何を継承することで真に豊かなアジアを目指せば良いのかのカギがあるからです。ああ、マレーシアにもトランスファーでなくてちゃんと来なくちゃなあ。
日本軍の東南アジア侵攻図と当時の新聞記事 ともに読売新聞20211208の記事より
● 虎はマレーの象徴
ところでこのことを調べていて、マラヤーマレーの人々が密林に生息しているマレー虎をとても愛してきたこと、この地域の象徴としてきたことを知りました。
どうりでマレーシア航空機に虎があしらわれているわけだ!
いまも国の紋章に二匹の虎が登場しています。マラヤ連合の時も虎が描かれていた。この時には国旗にも。ちなみにいまの紋章と国旗は、三日月と星があしらわれています。イスラムの象徴です。
また一見するとアメリカの星条旗に似ていますが、これはアメリカもマレーシアもイギリスのユニオンジャックの影響を受けているからだとのこと。アメリカとは無関係だそうです。僕はそんなことを知らずに虎を見てはしゃいでいました。お恥ずかしい。
ともあれわずか数時間の滞在でしたが、クアラルンプール、とても強いインスピレーションを僕にもたらしてくれました。あ、帰りにももう一度、トランスファーだ。帰りにも何かをつかんで来ます!
マレーシア国旗と紋章、およびマラヤ連合の国旗と紋章
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