明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2005)『放射線副読本』の次に来るもの-放射線災害復興学にまっとうな批判の目を!ナガサキの経験に学びながら

2021年03月18日 09時00分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210318 09:00)

原爆被災地・フクシマに漂う「核との共存」

大変、意義深く、かつ素晴らしい論稿に出会いました。
「原爆被災地・フクシマに漂う『核との共存』-被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した-」です。原発設置反対小浜市民の会が発行している『はとぽっぽ通信』227号(2019年2月)に掲載されたものです。
執筆されたのは高槻市在住の山口研一郎医師。医療活動のかたわらで、命の問題を扱うシンポジウムを精力的に開催されています。

山口医師は長崎医大の出身。福島原発事故後に福島県に入り込み、ウソに満ちた安全論をふりまいたかの山下俊一氏と机を並べた間柄です。福島における山下俊一氏の活動を鋭く批判されています。
その際、大事なのは長崎の歴史を背景に語られていること。今回のこの論考でも冒頭で次のように述べられています。
「私の生まれ故郷である長崎でも、被爆直後から『核との共存』『平和利用』が語られ始め、その挙句、原爆への怒りから「祈りの長崎」へと変質した過程があります」。

実はこれをリードしたのが長崎の聖人とうたわれてきた永井隆氏でした。長崎の被爆の中心地、浦上在住のカトリック信者にして原子物理学者で、長崎医科大学放射線科助教授としての仕事中に被爆され、1952年に亡くなられました。
様々な発言や出版物で長崎の被爆者に大きな影響を与え、長崎の平和の使者として尊重されてきた方です。長崎原爆資料館にもまつられています。
その言葉によって救われた方もおられたわけで、そうした思いは尊重されなければなりませんが、それでも山口医師が紹介した、以下の永井氏の主張は衝撃的です。

「嗚呼、世界大戦争の闇、将に終わらんとし平和の光りさし始めたる八月九日、この天主堂の大前に立てられたる大いなる燔祭(はんさい)よー悲しみのうちにも私共はそれを美しきもの、潔きもの、尊きものよと仰ぎ見たのでございます、浦上教会が世界中よりえらばれ燔祭に供せられたことを感謝しましょう」(被爆後の合同葬での弔辞より) なお燔祭とは、ユダヤ教やキリスト教において、生贄の動物(雄の牛・羊・やぎ、はとに限る)を祭壇で焼いて神に捧げる神聖な儀式のことだそうです。
「原爆に見舞われて私たちは幸せであった。浦上住民の信仰の一途さを見よ。天主堂に存する御聖体の下、隣人互いに助け合って快く苦難の道を歩みつづける姿は、外観は貧苦であるが、幸福に満ちているのである」
「あれほど恐れられていた残存放射能も、ひと雨ごとに洗い流され、いまではほとんど証明できない。田畑の作物もむしろ出来がよくなった。生まれ出る子供に不具がありはしないかと心配されたが、丈夫な赤ちゃんが次々と産声を上げた。お嫁さんの妊娠率も悪くなく、祝福された女の人がよく私の家の前を通る。もう何の心配もいらない」(ともに『ロザリオの鎖』1948より)


浦上天主堂の取り壊しによる「被爆への怒りの終焉」・・・。

山口医師は長崎大学医学部の先輩でもある永井氏の活動に疑問を持ち続けておられたそうです。
それがはっきりしたのが、1970年7月発行の『週刊朝日』臨時増刊号「長崎医大原子爆弾救護報告」に書かれた永井氏の一文を読んだ時だったそうです。
「原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献できる如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するに決まっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数の犠牲者の霊も亦、慰められるであろう」

ようするに永井氏は、「長崎・浦上は神に選ばれた。被爆した民は世界戦争という罪の償いとして犠牲の祭壇に供えられた」と語り、「だから怒ってはいけない!祈りをあげよ」と長崎の人々に説いたのでした。
実はこうした主張のもと、被爆し、廃墟の存続が切望されていた浦上天主堂も解体されたのだそうです。しかも訪米を終えた田川長崎市長の強い提言により、市議会議員全員の反対を押し切って。これもまた永井氏の言葉の影響下のことでした。
そうして長崎は繰り返し「怒ってはいけない!祈りをあげよ」と言われ続けてきたのだそうですが、山口医師はこう指摘しています。

「その背後に来るべき『冷戦』をひかえたアメリカの核戦略構想があったことは言うまでもありません。その推進のために開発された原爆が、カトリックの聖地(天主堂が存在する長崎は、東洋のローマ=ヴァチカンと称された)を破壊し尽くし、8500人の信者を死亡させた事実を一日もはやく葬りさることが必要でした。その象徴こそ天主堂であったのです。天主堂の取り壊しは、同時に「被爆への怒りの終焉」とも言えたのです。こうして長崎は「平和記念都市」から」「国際文化都市」へと変質しました。」
なるほどと思いました。永井氏は発言の中で遺伝的影響も完全に否定していますが、それもまた原爆傷害調査委員会(ABCC)を立ち上げたアメリカの意向と大きく重なっていることを指摘しておきたいです。


長崎で行われたことを福島のみならずあらゆる被爆地で繰り返してはならない!

さて大事なこととして山口医師が紹介しているのは、この永井隆氏を強く信奉しているのが山下俊一氏であるということです。
長崎大学教授だった彼は、退官時に最終講義のタイトルを「転禍為福」としたのだとか。永井氏への敬愛を語りながらです。
そのようにして福島で安全宣伝を行い、被曝の危険性を無視し続けたわけです。

さらになんとその山下氏の右腕として、同じように福島で繰り返し安全宣伝を担ってきた高村昇長崎大原医研教授が、長崎と広島で「放射線災害復興学」を立ち上げています。
さらなる核災害が起こることを前提とし、そのときに放射能の中で「住民が明るく楽しく毎日を送れる」ことを目指すのだとか。これはもう人々を騙す準備としか言えません。
高村昇氏はまた、文科省が作成した『放射線副読本』の編纂に関わり、さらにいま東日本大震災・原子力災害伝承館館長も務めています。

その高村氏が立ち上げた「放射線復興災害学」では、「放射線災害を生じた場合の対応」「災害後の長期的復興」について「学問体系化し人材を育てる」のだとか。
次の原子力災害が生じることを仮定し、「リスクコミュニケーションを通して住民が明るく楽しく毎日を送れる」「新たな村作り」「放射線の不安を持っている人たちの科学的な理解を深め、その不安を緩和するためのコミュニケーションができる人材」「放射線はわれわれの生活になくてはならないもの」などの文面が並んでいると、山口医師は指摘しています。

これは許しがたい。再び三度、放射線被曝の影響を隠し、放射性物質の中で人々に「被曝を気にせずに」生きていくことを強制しようとしているのです。
原子力産業にとって、いや核兵器産業にとって、これほどに好都合な存在はありません。
『放射線副読本』の次に来るものとしての「放射線災害復興学」にまっとうな批判の目をともに向けましょう。そして次世代の人々に、被曝の危険性からしっかりと命を守るべきことを伝えていきましょう!

なお山口研一郎医師は、この3月20・21日に以下の企画を主催されます。興味のある方はこちらもご覧下さい。
「再びいのちを問う-”コロナの時代”を体験して」
https://hayariki.wixsite.com/hayashida/post/_life

#長崎原爆 #怒りの広島祈りの長崎 #山口研一郎 #永井隆 #山下俊一 #高村昇 #放射線副読本 #放射線災害復興学

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