明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1750)長崎原爆のプルトニウムを作ったハンフォードB炉を訪れて(核の終わりを探る旅−4)

2019年11月03日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20191103 11:00ワシントン州シアトル時間)

核の終わりを探る旅の報告の4回目です。

ハンフォードサイトへの旅

今日はいよいよハンフォードサイトへ。午前10時に入口にあたるマンハッタンプロジェクト国立歴史公園に到着。10時半から始まるリアクターB路見学ツアーに参加しました。
ハンフォードサイトはかなり広大です。まずはバスでサイトに向かって延々と走り、途中でゲートをあけてさらに走っていく。数十分走ってやっと着きました。

はるかかなたに原子炉Bが見える 守田撮影

 

B炉の中へ! 守田撮影

ここには世界で初めて作られたプルトニウム生産炉B炉をはじめコロンビア川沿いにC.K.N.D.H.F7つの原子炉がありました。他の2つを合わせて9つの原子炉がありましたが全てが廃炉になっています。

地図や写真をご覧ください。ハンフォードサイト、とにかく広い。
バスで向かいましたが遥か遠くにB炉が見えました。続けて作られたD炉とF炉も遥か遠くに設置されている。
全てコロンビア川沿いですがそれぞれがざっと10キロぐらいは離れている。戦中の建造なので「敵」の攻撃も考えたのでしょうが、やはり危険性を十分に分かっていたのではないか。


1944年に100エリアに作られた原子炉BDF200エリアにプルトニウム取り出し施設=再処理工場も建てられた  守田撮影

早速中に入るとちょうど建物のセンターあたりに原子炉が剥き出しのままドーンと置かれていました。
商業用原発では事故が起きた時に放射能を止める役目を背負っている格納容器がありますが、ここにはそんなものはない。
剥き出しなのです!なんとも怖い気がしました。


B炉の炉心の目の前でレクチャー 守田撮影

この時は0.2μSv/hを記録した 守田撮影

映像も撮ってきたのでご覧ください。
ハンフォードリアクターBから 20191102  もりもりチャンネルhttps://youtu.be/9sBj1uZ1Psc


リアクターBが語っているもの

もう少し内部を説明します。この原子炉は黒鉛炉と言います。黒鉛を減速材として使っている。減速材とは中性子のスピードを弱め、ウランに当たりやすくして核分裂連鎖反応を可能にする物質です。
いわば巨大な練炭が置いてあり、そこにウランを棒状にして差し込む。その中で核分裂が行われるのが黒鉛炉です。
もちろんそのままでは暴発してしまうので、それぞれウランを差し込む所に水を流している。大量の水はコロンビア川から取水していますがやがてお湯として排出される時に汚染ももたらしてしまう。

しばらく核分裂を続けていると炉内に入っている核分裂しないウラン238の一部に中性子があたり、取り込まれて違う物質に変わる。それがプルトニウム239です。
このプルトニウム239を含むウラン棒を反対側に押し出すとプールがある。高熱でなおかつたくさんの死の灰を含んでいるのでそのまま水に沈めるのです。
このプール跡も見学しました。すでに上に板がかぶせてありそれをガラス窓の内側から見るのですが今も0.μSv/hを示していて危険な場でした。

ガラスの向こうに広がっているのが核分裂後のウラン棒を沈めたプール跡 0.54μSV/h 守田撮影

なんとも言えなかったのは往時の写真です。原子炉の前でたいした防備もしない人たちが作業をしている。原子炉のまんまえにエレベーターがあり、それに乗って人が直近で作業している。
これだけ見るだけでもこの炉が作業者の被曝になんらの配慮もせずに運転していたことが分かります。


なんと原子炉直近で作業。展示されていた往時の写真より 

作業者を被曝させ、周辺環境、そして住民を被曝させ、そうした作られたプルトニウムで作った原爆が長崎に投下されて人々を大量虐殺し、その後も苦しめ続けているのです。
 

核の始まりが命を奪うための原爆製造から始まっていることを伝えよう!

さて問題はこんな風に始まった核の歴史をどう終わらせるかです。
僕は一番大事なのは、全ての核がこのように核兵器製造から始まっていることをもっと広く、大きく伝えることだと思います。
原子力発電所も同じ。原子炉は発電のために作られたではないのです。このB炉が雄弁に物語っているように、人々を瞬時にたくさん殺すためのプルトニウムを作るのが目的だったのです。

その時、ものすごい熱が出るので冷却水が必要になる。すると水が蒸気になる。そこにタービンをかませたら発電ができたわけです。
しかも発電も平和目的で始まってはいません。潜水艦に搭載するために開発されたのです。核戦争では発射場所を秘匿することが重要なポイントだったからで、こうして作られたのが原子力潜水艦です。
そのように戦争=大量虐殺を目的に始まっているがゆえに、ウラン発掘過程、核兵器製造過程、廃棄物処理過程の全てで被曝影響が無視された。だからそれが今の汚染にも繋がっているのです。

そのことを核抑止力を支持す人々、さらに原子力の平和利用の幻想の中に’いる人々に伝えるために、私たちはシンプルですが、何度でも「キノコ雲」の下で起こったことを伝えることが大事だと思います。
象徴的だったのは炉内で制御室の説明を行っていた父がここのワーカーだったという方が、私たち日本人グループに近づいてきて語ったことです。
「父はその後に何回か広島に行ったが、いつも日本人に原爆投下を感謝されていた。独裁者をよく倒してくれたと言われた」と。彼は原爆は戦争を止めて多くの人々の命を救ったとも語っていました。

私たちに作業員だった父は広島で原爆投下を感謝されたと語った説明員 制御室にて 守田撮影

その彼がビジターセンター横で開いている土産物屋にも行ってみましたが、リッチモンド高校アメラグチームのスタジャンが売られていました。
背中にキノコ雲をあしらったものです。チームの名前は「リッチモンド・ボンバーズ」、Bomberは爆撃機のことです。

リッチモンド高校フットボール部のスタジャン 守田撮影


この核の幻想、虐殺を正義と言い換えてきた歴史をひっくり返すこと、そして暴力の呪縛から人々を解き放つこと。僕はそこにこそ「核の終わりの可能性」が拓けると再度確信しました。

ツアーに同行したみなさんと 今中哲二さん撮影

炉心の前で暴力に立ち向かう気持ちでPeaceflagを掲げました! 渡部久仁子さん撮影

もう一枚。核よ、暴力よ、なくなれ! 玉山ともよさん撮影

旅を続けます!
今日はマーシャル諸島出身の皆さんと交流します!

***

今回の核の終わりの可能性を探る旅へのご支援をお願いしています。
どうかお力をお貸しください。
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明日に向けて(1749)原爆を誇りにしている町、リッチランドを訪れて(核の終わりを探る旅−3)

2019年11月02日 07時30分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20191103 07:30 ワシントン州時間)

旅の報告の3回目です。

● パスコで旅の一行が合流

旅を続けています。初日にサンフランシスコに入り、トリシャさんの話を聞いた私たちは、翌日31日は比較的ゆっくりと過ごし、夕方の航空便でワシントン州に向かいました。
夜の8時過ぎにパスコに到着。レンタカーを借り出してホテルに向かいました。ここでさらに一人が合流し、主なメンバーが揃いました。

今回の旅の中心は明星大学准教授の竹峰誠一郎さん。主にマーシャル諸島の核被害について研究されており、そこから核の問題全般に関心を持たれています。
その竹峰さんに声かけされて参加しているのが、特定非営利活動法人ANT-Hiroshimaスタッフの渡部久仁子さん、そして「京大六人衆」と言われてきた今中哲二さん。
コーディネーターとして旅全体をアレンジしている玉山ともよさん、そして僕、守田敏也の5人です。

パスコはワシントン州の中でハンフォードに近い町。
こことトリシャさんが生まれ育ったリッチランドがハンフォードの周りの町を形成しています。

飛行機から見たパスコの町 

セルゲイさんのお話を聞く

1日にまず向かったのは今中さんの友人でワシントン大学教授のセルゲイ・トルマチョフさんの研究室でした。
リッチランドの中にありました。セルゲイさんは今、United States Transuranium and Uranium Registries(USTUR)のディレクターをされています。
プルトニウムをはじめとする超ウラン元素に被ばくした人々を研究している機関です。

 ハンフォード核施設は様々な事故を繰り返したり、ずさんな核廃棄物の投棄などによって周辺に大変な放射能汚染をもたらしました。
このために体内にプルトニウムを取り込んでしまった人々もたくさんいる。その方たちを調査し、プルトニウムの体内での動き、どこに集まりやすいのかなどを調べているのです。ハンフォードだけでなくコロラド州、ロッキーフラッツの被ばく労働者も調べていました。

登録された方から検体を受け、死後に解剖し、臓器の中の残存プルトニウムも調べています。
これらについて詳しいレクチャーを受け、さらに遺体を分解して貯蔵し、様々な試験を行っている非公開の施設の中も案内してくれました。
今、その内容をお伝えする余裕がないですが、とにかく貴重な経験でした。詳しくは帰国後にレポートさせてください。

 

訪問したセルゲイさんの研究所

セルゲイさん

セルゲイさんを囲んで記念撮影、前列左から竹峰さん、セルゲイさん、玉山さん、後列左からスタッフの方、渡部さん、守田、今中さん 
 

● 長崎とハンフォードを繋ぐジムさんのお話しをきく

セルゲイさんのお話が、科学者としてすでに生じてしまった被ばく実相をおいかけるものであることに対し、平和運動の立場から活動してきた方ともお会いしました。
Jim Stoffels、ジム・ストッフェレスさんです。1938年生まれで1982年からハンフォードで戦争反対の活動をしてきたそうです。
胸にNO WARと書いた缶バッチを誇らしげについて現れてくれました。

ジムさんたちが特に問題にしてきたのは核兵器廃絶です!
ハンフォードが長崎に投下された原爆のプルトニウムが作られた場であることに痛みを感じ、長崎への投下を問う活動をされてきました。
WCPeace.orgというグループで活動されています。このままググれば素敵なサイトが出てきます。
そこにも書いてありますが、20118月にジムさんは初めて長崎に行かれたそうです。長年の夢だったのだとか。

ジムさんのお話を聞く

 リッチモンドは、高校のロゴがRの上にキノコ雲が湧いている形になっているなど、核開発を誇っている町です。
この高校のフットボール部の名前もBombers、爆撃隊という意味です。
最近、ここに福岡出身の高校生が留学し、「キノコ雲の下で起こったことを知ってほしい」とスピーチして話題になりました。

カフェでもアトミックイエールなどという店がありました。話のネタにセルゲイさんに連れて行ってもらってランチを食べましたが、ピザの名前がすごい。
マンハッタンプロジェクトとかが並びます。僕はリアクターコアというやつを食べました。とにかく辛かった。リアクターはホット=辛いの象徴なのだとか。

 

アトミックエール

一事が万事がそんな感じの町で、長崎の痛みのシェアを訴えて奮闘してきたジムさんの長年の活動に共感しました。
持参したピースフラッグを差し上げて、ツーショットを撮ったらとても喜んで撮影に応じてくださいました。


 ジムさんとツーショット!

続く

今日はハンフォードの原子炉の見学ツアーに赴きます。廃炉になっているプルトニウム生産炉の見学です。


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明日に向けて(1748)ハンフォードのダウンウィンダーズの一人、トリシャ・プリキティンさんとお会いして

2019年11月01日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です。(20191101 08:00 パスコ時間) 

ハンフォード、リッチランドで生まれ育って

ワシントン州パスコのホテルからです。

30日午後6時のフライトで日本を飛びだった僕は30日午前11時半にサンフランシスコ空港に降り立ちました。
日本からアメリカへの旅は「過去」への旅になります。
空港シャトルで今回の旅の同行者とお会いしました。コーディネートをしてくれている玉山ともよさん他2名です。

 この日は滞在しているホテルに、ハンフォードのダウンウィンダーズのトリシャ・プリキティンさんをお招きしてお話を伺いました。
トリシャさんは1950年にハンフォード核施設のそばの街、リッチランドで生まれそこで育地、ハンフォードからの核汚染によって被曝してしまいました。
18歳までは元気に育ったもののその後、甲状腺被ばくから様々な病を発症。壮絶な苦しみの中で法律家の資格を獲得されています。

 その彼女やハンフォードの人たちが自らの被曝を知ったのはなんと1986年のこと。ハンフォードから度々、放射性物質が放出されていたレポートが出てからでした。
彼女自身、初めてそれで自らの様々な病が甲状腺の問題から来ていることを知り、ようやく対処の道も見えたそうです。
しかしその後、甲状腺が見つかって摘出。生涯、薬を飲み続けなければならなくなっています。

トリシャさん 守田撮影

 

●  アメリカにおけるヒバクシャへの補償の実態

その後、住民たちが訴訟を起こしました。1991年のことで24年間の裁判が闘われました。
それををお聞きしましたが、話は多岐にわたっています。加えて僕の英語力が高くなくて全部を聞き取れてはいない。
旅の最中の短い時間の報告でどこを切りとってお伝えするか悩むところですが、また帰ってからきちんとしたレポートを出すことを前提に簡潔に報告します。

今回の話の中で特に印象的だったのはアメリカのヒバクシャに対する法的補償の差異でした。
端的にいうと、ウラン鉱山や核施設の労働者には一定の補償もされているのですが、彼女たちのような風下住民たちは除外されています。
もちろん労働者への補償とて手厚いわけではありませんが、保守系の議員が「冷戦を支えた労働者をケアせよ」と叫んだこともあり補償の法律ができました。

この法律はRECAと呼ばれます。Radiation Exposure Compensation Act、放射線被曝補償法と訳したらよいでしょうか。
制定は1990年。核の被害が1940年代、発掘を含めればもっと前から発生していたことを考えると、かなり経ってからの制定でしかありません。
カバーされている地域の地図を持って来てくださいました。全米のウラン鉱山や核施設があった州が対象になっています。


補償を表す地図。青と緑だけ核実験の風下で補償されている。黄色は対象となる核施設労働者がる地域

無視された風下住民

 しかし労働者ではなく、風下の民が対象となっているのはネバタ砂漠の核実験場のそばのネバタ州、ユタ州、アリゾナ州の一部のみ。
他の多くの地域があきらかに放射性物質がなんども降っているのにカバーされていません。
トリシャさんはその中で苦しい裁判闘争を人々とともに続けてきました。

 困難はたくさんあります。アメリカはとても広く、各地の風下住民が連携を取るのもなかなか難しい。
それぞれが皆、被害者であり、医療費などにたくさんのお金を使っていて、その上、訴訟でもお金がかかるため、各地に旅ができないためでもあります。
このためトリシャさんたちの裁判も2015年に和解を見たものの、十分な補償は得られなかったそうです。

トリシャさんはこの裁判の記録を残すため、原告24人の証言を今、本にまとめているそうです。2020年出版だそうです。
これらのお話を聞いて、アメリカのヒバクシャ、特に風下住民たちが被ってきた苦しみが少し伝わってきました。少しだけでもとても痛い。悲しい。
もっと情報をきちんと得ることでこれらの人々の痛みを受け止め、力に変えたいと強く思いました。

続く

今日はワシントン大学の研究者からお話を聞き、汚染の激しかったコロンビア川周辺などを見学してきます・・・。

トリシャさんにインタビューした記事をご紹介しておきます。
(核の神話:8)「風下住民」被曝の実態、命がけで訴え
https://www.asahi.com/articles/ASHDC663WHDCPTIL01T.html

今回の核の終わりの可能性を探る旅へのご支援をお願いしています。
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