明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2432)広島の被爆死の真実を捉え返す―2 原爆は血管を破裂させ人々を悶絶死させた(再再掲 NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2024年08月06日 08時30分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)
守田です(20240806 08:30)

● 原爆は血管を破裂させ人々を悶絶死させた

前回に続いてNHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容の紹介を行ないます。
今回は原爆特有の火傷について報じているところを扱っています。とくに特徴的なのは爆心地から500mから1.5㎞の範囲で、即死は免れたもの3日後から一週間後にかけて多くの方が火傷で亡くなっていったことです。
番組はここを「死のドーナツ地帯とも呼べる地域」と名指しています。
 
ここで起こった火傷は、通常のそれと違っていました。原爆は強烈な光線によって血管内部で水蒸気を発生させ、血管を熱破裂させたからでした。
このため即死を免れた人々の血管の周りの組織が徐々に死滅していき、3日間のうちに悶絶死が訪れました。
さらにその3日間を生き延びても、火傷の傷口から細菌が入り込んで感染症が起こり、人々は激しい痛みと高熱のうちに一週間で亡くなっていきました。
ある小学校に作られた救護所では、亡くなった方のうち最も多かったのは14歳、15歳の少年少女でした。
 
この火傷の研究を行っている日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師は、番組の中で以下のように語っています。
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。
そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」
 
以下、文字起こしをご参照ください。
 
*****
 
原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日放送)-2 
 
ビッグデータを手がかりに追う原爆死の実態。
解析によって死のドーナツ地帯とも呼べる地域があることが分かってきました。
そこで被爆し即死を免れた人々が、翌日以降集中して亡くなっていたのです。
爆心地から500m以内で被爆して亡くなった人は6日の9,530人から翌日には218人に激減。
代わって死者が増えたのがその周縁部500mから1.5㎞の間にあるドーナツ状の地域です。
7日には1,940人。8日には1,226人増え、その後も毎日600人以上の死が1週間にわたって積み重なっていきました。


 
この地域で被爆した人たちの死がなぜ続いたのか?
ビッグデータをもとに原爆の被害について研究を続ける人がいます。
日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師です。
この地域で被爆した人が多く亡くなり続けたのは特殊なやけどが原因だと考えています。
 
原田
「深いですね。深くぼろっと落ちて 皮膚のすぐ下のところでおそらく血管が発熱して熱破裂したということだと思います。
通常のね、熱傷(やけど)ではないまったく別のメカニズムが、やっぱり背後にあるんだろうと思います」
 
原爆で血管が破裂したと考えた原田さん。
被爆者が残した膨大な手記の中にその手がかりを見つけました。
 
「『青白い閃光が走ったとき、体全体がプーッと膨れるような感じは覚えているが熱いと感じたことはなかった』。
これは最初から光に当たったところがふくれあがっているという感じをあらわしていますね」
 
特殊なやけどの原因となったのは原爆が発した強烈な光線ではないか。
特殊な医療機器を通常以上の出力で使い、爆心地から2㎞までの地点と同じ強さの光線を再現。
血液をゼラチンで挟み血管に見立てたものに光を照射します。
すると血液から水蒸気が発生しました。
血液は膨張し細かな気泡がいくつも噴き出していました。
 
原田さんが推測する原爆の光線によるやけどのメカニズムです。
強力な光線が皮膚を通過し血管に到達します。
熱せられた血液から水蒸気が発生。血管を破裂させます。
これにより徐々に周りの組織は死滅。
皮膚が剥がれたまま2~3日かけて命が絶たれるといいます。
やけどによる死者の推移を見ると原爆投下の翌日から3日間で多くの人が亡くなっていた事が確認できます。
 
さらにこの3日間を乗り越え、命を取り留めた人を感染症が襲います。
深い火傷はなおりにくいため、傷口から細菌が侵入しやすくなります。
全身で炎症がおき、臓器が死滅。
激しい痛みと高熱に一週間ほど苦しめられた末に亡くなっていったのです。
 
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。
そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」


 
火傷を負った人々はどこで亡くなったのか。
被爆した場所からの人々の動きを追っていくと、多くの人が特定の場所に移動した末に亡くなっていたことが分かりました。
最も多い173人が亡くなった場所、それは府中国民学校でした。
現在は府中小学校となっています。臨時の救護所に指定され火傷を負った人たちが集まって来た場所です。

当時の様子を知る人が見つかりました。
「ほんとうに懐かしいねえ。うん。なんか大きな声で拝みたいようだ」



吉田美江子さん。84歳です。当時12歳。
8月6日の夕方、校長から呼び出され、救護活動の手伝いをしていました。
講堂は火傷を負った人で埋め尽くされていたと言います。


 
吉田
「ほんとにまだ目に焼きついとるよ
頭と頭 足はこっち ずらーっと並べてあって」
 
当時広島にあった救護所の映像が残っていました。傷ついた人たちが、次々と運び込まれています。
痛みに耐えながら横たわる人々。
データによれば。府中小学校で亡くなった人のうち、もっとも多かったのが14歳と15歳でした。
そこで吉田さんは、同年代の子どもたちから家族への伝言を頼まれたと言います。
 
「『ここにおるけえ探しに来てくれ、連れにきてくれ言うてつかあさいや』
言うのが一番多いかった。みんな帰りたかったんよね。
それを偉そうげに「わかったよ。言うてあげるよ」とみな嘘をついたわけや。
嘘のつもりじゃないんよ。どこへ言うてっていいか分からんのじゃけん」
 
吉田さんが、その場しのぎの答えしかできなかった子どもたち。
家族に会えないまま、ここで息を引き取っていったと言います。
 
「ここに来たらよみがえるよ。顔がね。
精一杯やったんじゃけん。許してちょうだいね。ごめんね。
私なりに精一杯じゃった。ごめん。なんの力もなかったあ。
ごめんなさい。すまなんだねえ。ごめんね」


 
即死をまぬがれ 傷つきながらも生きようとした人々。
原爆特有の火傷が、家族に再会するという望みさえ奪っていった実態が浮かび上がってきました。
 
続く

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #死のドーナツ地帯 #府中国民学校 #死のドーナツ地帯 #原爆で血管が破裂した #悶絶死

*****

8月6日、9日午後7時より京都市三条大橋で原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを行います。LIVE配信も行います。リアルで、またバーチャルで、ご参加下さい。
詳しくはFacebookイベントページをご覧下さい。(画像をクリック↓↓↓)

原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジル2024~ヒロシマ・ナガサキの日に

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明日に向けて(2431) 広島の原爆死の真実を捉え返すー1 あの日たくさんの人が圧焼死していった(再再掲 NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2024年08月06日 08時15分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240806 08:15)

原爆の非人道性をより深くつかまないといけない!

みなさま。本日8月6日はアメリカ軍が広島の人々を大量虐殺した日です。あらためて犠牲になられた方たちに哀悼の意を捧げたいと思います。同時にこの日に、
72年目にしてあらたな事実を突き出したNHKドキュメント(2017年放映)の文字起こしをお送りします。
これは「明日に向けて」に同年8月17日から3回に分けて連載し、2020年7月22日から写真も添えた新バージョンを作って連載したもの。
今回、3度目の連載を行います。今回は解説も加えます。ぜひ8月6日から9日のこの時にお読み下さい。

*****

原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) 

ナレーション
通勤通学の人々が行き交う朝8時の広島市。
72年前、8月6日の朝もここには同じ光景が広がっていました。
これは1945年の広島の航空写真。
無数の青い光は原子爆弾が投下されるまでの人々の動きです。
55万7,000人の被爆者のデータをもとに初めて可視化。
広島市の外から8万人が市内に向かっていた事が分かりました。
国のために動員された学生や女性たち。
多くの人がいつもと同じ朝を迎えていました。
そして8時15分…。
この人々の頭上に原爆は投下されたのです。

人々の動きを遡って見てみると、一人一人の命の軌跡が浮かび上がってきます。
郊外にあるこの5つの点。
一つ屋根の下に暮らす家族でした。
夫婦は幼い子ども2人を老いた母に預け出勤。
45歳の夫は北部にある工場で被爆しましたが助かります。
36歳の妻は勤労動員で市の中心部へ。
そこはまさに爆心地でした。

当時2歳で母親を失った柳原有宏さん(74)です。
 
映像、額に入った30代の女性の写真?
取材者 「お母様?」
柳原  「ええ」

まだ物心が付く前でした。
母の満子さん(享年36)
この写真だけが面影を知る手がかりです。


柳原
「これが母親だと言われてきたんですからね。ああ、美しい、きれいな方だなと思いながらですね。
会いたかったですね」

アメリカが広島に投下した原子爆弾。
その年だけで14万人の命を奪ったとされていますが、いつどこで、どのように命が奪われていったのか、詳細はいまだに分かっていません。
今回私たちは広島市が集めた55万人以上の被爆者の記録を初めて入手。
そのビッグデータを解析して、原爆による死、原爆死の全貌に迫ることにしました。
するとこれまで分からなかった死の実態が次々と浮かび上がってきたのです。

投下された日の死者は53,644人。
それぞれの被爆した場所が詳細に判明しました。
また死のドーナツ地帯とも呼べる特定の地域で被爆した人々が、翌日以降次々と亡くなっていました。
更に原爆の放射線がほとんど届かなかったとされる2.5k?より外の地域でも、謎の死が相次いでいた事も分かってきました。
 
放射線の専門家
「確かに驚きますね。まだ我々が知り得ないところで、何らかの関係があったのかなというふうに思います」

ビッグデータを手がかりに追った、死に至るまでの被爆者一人一人の姿。
人々の頭上に投下された核兵器は何をもたらしたのか。
72年目の真実です。

 
広島市原爆被害対策部。
その一角に被爆者の調査を続けてきた部署があります。
ここにいまだ公開された事のない記録が残されていました。
原爆投下の直後から作成されてきた資料です。
死亡した際の診断書。診察に当たった病院のカルテ。
市が集めた資料はこれまでに150点を超えます。
これらをもとに市はデータベースを作成。
原爆被爆者動態調査と呼んでいます。
その数55万人分に上ります。
これまで一人一人がどのように亡くなったのか詳しく解析されていませんでした。

2歳の時に原爆で母親を失った柳原有宏さんです。
この辺り(原爆慰霊碑付近)で亡くなったとされる母。
遺骨さえ見つかっていません。
最期を知りたいと思い続けてきました。
 
柳原
「やっぱり苦しいですね。
爆風に飛ばされて亡くなったもんやら、熱線で亡くなったもんやらですね。全然分からないですからね。
まあ、母のことを言えば、ついつい涙が出ますけど、それがずっと心の中にあるんだと思うんです」


一人一人がどのように命を奪われていったのか。
私たちは今回初めて動態調査のデータを個人が特定できない形で入手しました。
被爆した場所や死亡した場所。
そしてその日時。
死因や家族構成などのデータです。

更にここに別のデータを重ね解析しました。
火災の発生時刻や気象データ。
被爆者が描いた絵やNHKの取材情報などです。
これらを広島市の航空写真に落とし込み、解析することで、原爆死の全貌に迫ることにしました。


原爆が投下された8月6日、広島はいつもと変わらない朝を迎えていました。
この青い光は一人一人の自宅と被爆した場所を、結び移動を可視化したものです。
多くの人が市の中心部に向かっています。
原爆はこの人々の頭上で炸裂しました。


私たちは被爆した場所ごとにこの日の死者を数え上げていきました。
その数、53,644人。爆心地から3㎞以上離れた場所でも死者が出ていました。
8月6日の死者の数が被爆した場所ごとに可視化されたのはこれが初めてです。
いたる所で人々の命を奪っていた原爆。
動態調査のもとになった資料から人々がどのように亡くなったのかが分かってきました。
検視調書。
警察官が医師と共に遺体の確認を行った記録です。
焼死や、やけど。
そこには一人一人の死因が詳細に記録されていました。

検視の拠点となったのは爆心地から1.2㎞離れた東警察署。
現在は銀行になっています。
当時の東警察署が写った航空写真です。
青で示したのは人々が亡くなった場所。
データは広島の街の1/3ほどに限られていました。
しかしここを詳しく見ることで、市全体の傾向をつかめるのではないかと考えました。
死因を詳しく見ていくと最も多かったのが黄色で示した焼死。
1,406人に上りました。
赤で示したのは聞き慣れない死因でした。
圧焼死です。
それはどのような死だったのか。
圧焼死が集中している地域を見てみると20人が同じ地点で亡くなっている場所がありました。
そこは女学校でした。
 
広島女学院。当時の校舎は原爆で焼失しましたが戦後同じ場所に再建されました。
8月6日の朝もここに144人が登校し礼拝が行われていました。
この日は久しぶりに学徒動員を解かれた女子学生たちが学校に集まっていました。
その一人が見つかりました。

「私はこの辺りにいたんです。」
当時17歳だった鎌塚寿恵子さん(89)です。



音楽を通じて仲よくなった親友と一緒に講堂にいたといいます。

それが成井明子さんでした。

 

鎌塚

「あの方、きれいなソプラノですからね。わたくしは低い方だから。
いつも2人で高音と低音で二重唱をやっていました。
それだけはやっぱり懐かしい思い出なんですけれども‥」

礼拝を終えた直後の8時15分。
原爆が炸裂。
鎌塚さんたちを秒速100mを超える猛烈な爆風が襲いました。

「光ったとたんにドカンですから。あっと思ったらもうつぶされたんです」
講堂は倒壊。
鎌塚さんと成井さんたち生徒は生き埋めになりました。
鎌塚さんはなんとかがれきの隙間を見つけ、脱出しましたが成井さんの姿はありませんでした。
 
「あの方の声だけ聞いて姿が見えないんですよ。
成井さんの声だってことがわたくしがすぐ分かってかけよったんですけれども
がんばって、がんばって、なんとかするからって‥」

その時、学校周辺はどのような状況だったのか。
ここに火災発生時刻のデータを重ねてみます。
学校のそばではまだ火災は発生していませんでした。
鎌塚さんは成井さんを助けたい一心でがれきを必死に動かそうとしていました。
1時間半を過ぎた頃燃え広がった火がついに女学院に迫ってきました。
友人たちはまだがれきの下でしたが、教師から逃げるように命じられ、泣きながらその場を後にしたといいます。
 
「一生懸命、こうやってたんです。どうにかならんかと思って。」
「それがどうしても助けることができなかったのは私の一番の苦しいというか思い出したらたまりません。
何年もたっても忘れることはできないんです」


広島には被爆者によって原爆投下後の様子が描かれたおよそ4,000枚の絵が残されています。
8月6日の様子を描いた絵の場所を特定しました。
そして赤い圧焼死による死者が集中した地域に絵を重ね合わせます。
そこで描かれていたのは倒壊した建物に火災が迫る様子でした。
がれきに挟まれた母と子が助けを求めています。
圧焼死とは生きながら焼かれ、亡くなった人の姿だったのです。
 
鎌塚さんはその後、成井さんがどのように亡くなったのか分からないままでした。
私たちは8月6日女学院で20人が圧焼死していたことを伝えました。
 
「むごいです。亡くなり方があまりにもむごたらしい。
わたくしも相当苦しかったけれど、この亡くなられた方は 火が来たんだもん。気の毒ですよね。ほんとに。
辛かったと思います。苦しかった。どんなに苦しかったろうねえ。
‥長い沈黙‥
会いたいです。わたし、成井さんに。もう一度会いたかったです」
 
8月6日、いつもと変わらぬ朝を迎え命を奪われていった53,644人。
その一人一人の軌跡は苦しみ抜いて亡くなった人々の姿だったのです。
 
続く

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #圧焼死 #広島女学院 #原爆被爆者動態調査 #広島原爆 #8時15分 #キャンドルビジル

*****

8月6日、9日午後7時より京都市三条大橋で原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを行います。LIVE配信も行います。リアルで、またバーチャルで、ご参加下さい。
詳しくはFacebookイベントページをご覧下さい。(画像をクリック↓↓↓)

原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジル2024~ヒロシマ・ナガサキの日に


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明日に向けて(2430)Ask the Sky on 6th August 8月6日の空に、描く、奏でる、話す にご参加を!(8月6日午後7時から9時)

2024年08月04日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240804 23:30)

8月6日、さまざまに祈りを捧げましょう

みなさま。もうすぐ8月6日を迎えます。
この日を平和を願い、核なき未来に歩む誓いをみなさんとさまざまな形で共有したいです。

このため原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを、京都市の三条大橋で午後7時から8時まで行いますが、同じ時間に今回の記事のタイトルに掲げた素敵な企画も行われます。
僕はこれにも参加させて頂くのです。ビジル終了後、三条大橋たもとからタクシーで会場に向かい、午後8時半からスピーチさせて頂きます。

まずはこの企画のFacebookイベントページを示しておきます。以下をクリックして下さい。

Ask the Sky on 6th August8月6日の空に、描く、奏でる、話す

チラシもご紹介します




キャンドルビジルは6日、9日夜に行います

こちらは6日、9日夜7時から8時までです。以下をクリックして下さい。

原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジル2024~ヒロシマ・ナガサキの日に


ピアニスト大前チズルさんの言葉・・・

先に紹介したAsk the Sky on 6th August、ピアニストの大前チズルさんらが企画されているのですが、その大前さんがfacebookに素敵な案内を書いて下さり、僕との打ち合わせで話したことも紹介して下さいました。
これをそのまま転載させて頂きます。長文ですがぜひ読んで頂きたいです。なお大前さんのインスタに掲載された僕や寺嶋さんとのツーショット、ヨシガキルイさんのWebサイトに掲載されたヨシガキさんの写真を、僕の判断で挟み込みました。

*****

8月6日に再度@goreycafeで
京都で出会うアーティストによる核を考える初企画、で
寺嶋康浩さんにライブペインティングを行なってもらいます
今回は私のピアノ、voiceに加え、ヨシガキルイによるギターも加わりより強力な音の共演が期待できます
そして全国を講演で廻り反核を訴える守田敏也さんによるお話も伺います

守田敏也さんblog
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011

守田敏也さんX
https://twitter.com/toshikyoto

守田敏也さんyoutube
https://www.youtube.com/@user-cx5fe4bi3p

先日、守田さんと会って打ち合わせをしたんですが
最近編集されたレポートを頂いて被曝に関するアンケートでした
そして自分も含めて思い当たる箇所が沢山あってやはり他人事ではなく地球上のすべての生物に放射能の影響は及んでいると実感しました
この部分のお話も短い時間ですが触れていただこうと思います
私も音楽を演奏するという特殊なセンサーを授かって生きてきたので
ある部分がものすごく繊細で普段の生活で苦しい場面がよくあります、と話してたら
「よく今まで生きてこれましたねぇ」と感心していただいたw
いや、ほんとに余計なセンサー働きすぎて生き辛い、ていう面倒な種類の生物ですが
だからこそ選ばれた音楽を続けてもいるんだと思います


打ち合わせの後で 大前チズルさんインスタより

Ask the Sky on 6th August
8月6日の空に、描く、奏でる、話す
出演
ヨシガキルイ(ギター)
大前チズル(ピアノ)
寺嶋康浩(ライブペインティング)
守田敏也(お話)


ルイさんWebサイトより


寺嶋さんと大前さんのツーショット 大前さんのインスタより

開場18:30 
開演19:00 

料金: 3,000円(+オーダー)

会場 : 京都gorey cafe 2F 京都市左京区浄土寺西田町82-1
TEL 075-203-6296

1945年8月6日午前8時15分
エノラ・ゲイと3機のB29が
広島市の中心部高度9,600mからウラン原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下、
地上約580mで炸裂させた。
抜けるような青空だったあの日、世界で初めて広島が核を体験した日、
京都で出会うアーティストによる核を考える初企画
大前チズル(ピアノ)、ヨシガキルイ(ギター)の自由即興音楽と寺嶋康浩によるライブペインティングのコラボ
そして貴重な守田敏也さんのお話も

今回、このホメオスターシスというワードが
刺さりました

homeostasis
生体が外的および内的環境の変化を受けても、生理状態などを常に一定範囲内に調整し、恒常性を保つこと。また、その能力。神経やホルモンの働きによる。米国の生理学者キャノンが提唱。ホメオスタシス。

東京から岡山に移住された三田医師のお話、も
不定愁訴に悩む全国の人々の役に立つんじゃないかと思いました

コルチゾールの補充、という治療
https://www.youtube.com/watch?v=f8fk-IIZ-kk

(転載はここまで)


高感度体質者の大前さんと僕のピアノとトーク、そしてお仲間のギターとライブペインティングをお楽しみ下さい

大前さんのレポートの中に「最近編集されたレポートを頂いて被曝に関するアンケート」とありますが、『被爆二世・三世健康調査アンケート結果報告書』のことです。以下から入手できます。

ダウンロード申し込みフォーム
https://forms.gle/UdeTXoGjschrT7cN9
冊子版申し込みフォーム
https://forms.gle/24hHZXjvKUbhfTzf9

これを読み解いて下さった三田茂さんが、5月12日に行われた講演の中でキーワードとして出されたのが「高感度体質者」
他の方には見えないもの、聞こえないものが聞えたりするのですが、大前さんもまさにその当事者の一人なのです。

レポートの中で「私も音楽を演奏するという特殊なセンサーを授かって生きてきたので
ある部分がものすごく繊細で普段の生活で苦しい場面がよくあります、と話してたら
「よく今まで生きてこれましたねぇ」と感心していただいたw」と書かれているのですが、これはその点を話し合ったときのこと、実際に大前さんの話を聞いて胸を打たれました。

僕は小さい時から人の喜怒哀楽への感受性がものすごく高かった。
子どもの頃、電車のドアが閉まる時、走ってきて直前で乗れない人がいると、そのがっかりした悲しそうな顔が心の中に入ってきて、すごく悲しくなってしまうので、いつもドキドキしながら見ていました。
おかしいことに、しんどいなら目をそむければみなくてすんだはずなのですが、そういう発想は微塵も思いつかず、ただ「間に合って。乗り遅れないで」と何度も閉まるドアを見つめ続けていました。

それやこれやのことが度々続くので、「僕は人より何倍も傷つきやすいんだ。だから人より何倍も強くならないと生きていけないんだ」・・・そう思いつめて、自分を鍛えてきました。小学校の低学年ぐらいからだと思います。
それで僕のこの感性は強まり、それでいいこともたくさんあった。だから大前さんが特殊なセンサーがあるがゆえに感知できてしまうものがあり、それをご自分の音楽に溶け込ませてきたと聞いて、本当に胸を打たれたのです。

短いスピーチの中になんとかそのことも入れ込んで、8月6日の夜にふさわしいお話をします。
同時刻の企画二つをお誘いすることになってしまいますが、Ask the Sky on 6th Augustにもご参加を。
この日、特別な一夜を過ごしましょう。

#AsktheSkyon6thAugust #8月6日の空に描く奏でる話す #広島原爆 #大前チズル #リトルボーイ #守田敏也 #高感度体質者 #ホメオスタシス #ヨシガキルイ #寺嶋康浩

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