さて、このへんで彼の作品に対する、文壇の態度に入っていきたいと思う。
しかしそれには、芥川の作品についてもう少し調べる必要がある。
芥川は、「作家の私生活から作品を全く切り離し架構的な物語を作り出す」という理想を、純粋な形で実現しようとした。
要するに、私小説を極端に嫌ったのである。
その理由は、芥川の異常な程の文学への熱意故である。
芥川の人生は、文学であった。そのものズバリであった。
そしてそのことを端的に説明する為に、鴎外との比較を考えた。
そしてそれも、言葉ではなく、現在生存中の人物で一般に良く知られている人物に当てはめてのことが最も適切と思い、試みてみる。
芥川龍之介=ピーター・オトゥール
森 鴎外=ショーン・コネリー
これは、少し冒険だろうか。しかし私は、そうは思わない。
ピーター・オトゥールという人物は、俳優という職業以外では、あれ程までに成功はしなかったろうと思えるのである。
この場合の成功とは、社会的というより、自分の持つ能力をどの位発揮できたか、ということである。
彼は非常に細い、それ故その印象は鋭いのである。
その反面、ショーン・コネリーは非常にバイタリティーに富んでいる。
それが又人気の秘密であろうが、彼は太いのである。
そして俳優以外の職業でも、おそらくは成功するであろう。
そんな雰囲気を漂わせる人物である。
さて本題に戻って、芥川が私小説をあまり書かなかった理由に、テーマのことがある。
物語の舞台を、古今東西の歴史的時期や、非現実的な架空の世界を自由に選んだのは、その方がテーマをより強烈に表現できると信じたからである。
このことについては、『羅生門』でもう一度考えてみたいと思う。
芥川の作品ー殆どが短編で、極短いコント形式的な物である。
長編より遙かに抒情的で、格言的な感じさえ受ける物もある。
芥川自身、そんな生活を夢見ていたのかもしれないが。
芥川が短編を多く残したのは、彼の文学への熱意の高さをまざまざと示していると思われる。
小説の為の人生を送ったのである。
つまり、芥川の人生において見つけた一つのことを、すぐ決まる章に置き直しそれを発表せずにはいられなかったのだろう。
そしてそれも、彼自身の素晴らしい機知に富んだ皮肉等を入れて。
そんな芥川の仕事は、世間の要望にマッチしていた。とに角面白かったのである。
それ故に、多くの読者を有した。
その点では、或いは”売文の徒”と受け止める人も出てくるであろうが、その”売文の徒”の真の意味から見ると、外れていると思う。
しかしそれには、芥川の作品についてもう少し調べる必要がある。
芥川は、「作家の私生活から作品を全く切り離し架構的な物語を作り出す」という理想を、純粋な形で実現しようとした。
要するに、私小説を極端に嫌ったのである。
その理由は、芥川の異常な程の文学への熱意故である。
芥川の人生は、文学であった。そのものズバリであった。
そしてそのことを端的に説明する為に、鴎外との比較を考えた。
そしてそれも、言葉ではなく、現在生存中の人物で一般に良く知られている人物に当てはめてのことが最も適切と思い、試みてみる。
芥川龍之介=ピーター・オトゥール
森 鴎外=ショーン・コネリー
これは、少し冒険だろうか。しかし私は、そうは思わない。
ピーター・オトゥールという人物は、俳優という職業以外では、あれ程までに成功はしなかったろうと思えるのである。
この場合の成功とは、社会的というより、自分の持つ能力をどの位発揮できたか、ということである。
彼は非常に細い、それ故その印象は鋭いのである。
その反面、ショーン・コネリーは非常にバイタリティーに富んでいる。
それが又人気の秘密であろうが、彼は太いのである。
そして俳優以外の職業でも、おそらくは成功するであろう。
そんな雰囲気を漂わせる人物である。
さて本題に戻って、芥川が私小説をあまり書かなかった理由に、テーマのことがある。
物語の舞台を、古今東西の歴史的時期や、非現実的な架空の世界を自由に選んだのは、その方がテーマをより強烈に表現できると信じたからである。
このことについては、『羅生門』でもう一度考えてみたいと思う。
芥川の作品ー殆どが短編で、極短いコント形式的な物である。
長編より遙かに抒情的で、格言的な感じさえ受ける物もある。
芥川自身、そんな生活を夢見ていたのかもしれないが。
芥川が短編を多く残したのは、彼の文学への熱意の高さをまざまざと示していると思われる。
小説の為の人生を送ったのである。
つまり、芥川の人生において見つけた一つのことを、すぐ決まる章に置き直しそれを発表せずにはいられなかったのだろう。
そしてそれも、彼自身の素晴らしい機知に富んだ皮肉等を入れて。
そんな芥川の仕事は、世間の要望にマッチしていた。とに角面白かったのである。
それ故に、多くの読者を有した。
その点では、或いは”売文の徒”と受け止める人も出てくるであろうが、その”売文の徒”の真の意味から見ると、外れていると思う。
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