昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

スピンオフ作品 ~ 名水館女将、光子! ~  

2024-06-07 08:00:09 | 物語り

(九)(大女将の引退:二)

 生前の栄三の希望もあり、近親者だけの質素な葬儀が執り行われた。
その後、多くの旅館関係者そして組合関係者たちが、お焼香に訪れた。
「惜しい人を亡くしました」。「よく相談に乗ってもらいました」。
心底からのお悔やみの言葉がつづき、栄三の人望の高さに珠恵が一番に驚かされた。

 しばらくの間、珠恵が休息を取ることになった。
   十日ほど経ったときだ。
それまでの憔悴しきった珠恵ではなく、往年の珠恵を思わせる凜とした珠恵が現れた。
「おお、大女将が戻られた」と感嘆と歓迎の気持ちがこもった声が挙がったが、そこで語られた言葉は意外なものだった。

「わたしは、ひと月後に引退します。
ついては、番頭さんと板長さんにも、今までご苦労さまでしたと伝えました。
おふたりも、もう良いお年です。夫のようになられては困りますから、奥さまの元にお返しします。
若女将には面倒をかけますが、よろしくお願いしますよ。
今日から、実質的な女将ですからね。しっかりと明水館を切り盛りして盛り立てて頂戴」

 光子には事前に伝えていたらしく、驚きの表情はなかった――というより、一切の感情を押し殺しているようで――まるで能面のようであった。
光子にしてみれば緊張の極にあり、その責任の重さに押しつぶされそうになっていた。
昨夜に引退を告げられたのだが、珠恵の吹っ切れたような達観した表情が、光子には夜叉のように感じられていた。
その直前に、権左衛門がお悔やみの言葉をと訪れたのだが、「先生、ちょっと……」と二人だけの密談に入った。
まさかその折に引退の相談をしていたとは、思いも寄らぬ事だった。

「若女将も冷たいわね」。「ひと言あっても良さそうなものなのに」。そんな声が、古参の仲居たちからこぼれた。
そして「大女将のいない名水館では働けません」という仲居たちが5人ほど現れた。
光子は特段引き留めるような声はかけずに、形の上では円満に離れることになった。
しかしその実は、光子の強い意向が働いた。
仲居頭の豊子も、年齢の問題と言うことで身を引くことになった。
もう一人、光子の一年後輩に当たる仲居に対して、豊子が「あなたは仲居頭として光子さんを支えてほしいものね」と残るように諭された。
しかし、光子の「ごくろうさまでした」という言葉で引導を渡された。
結果的に珠恵の引退によって、煙たい存在となっていた仲居たち全員が、名水館を去ることになった。

 若女将の策略じゃないのかという噂が一気に立ち、外部の者からは「乗っ取られたな」という声が聞こえ始めた。
ひと月も経たぬうちに、代わりの番頭そして板長が他県からやってきたことが、噂話の信憑性を高めた。
板長になる人物が全国的に名の通った料理人だったために、あっという間に広まった。
「無理矢理引っ張ったようだ」。「番頭にしても強引だったらしい」。「支度金でもはずんだのか?」。「二人とも男女関係に持ち込んだようだ」。
口さがない者たちによって、光子の人格を貶めるような話も出た。
さすがに「そこまでは……」と否定されはしたが、あまりの手際の良さに、一部の間ではくすぶり続けることになった。

 番頭が去ることが決まった折に、清二が何らかの形で経営に携わることになると思われたが、「下足番すらまともにできない者には任せられません」と、約束は反故にされた。
光子が気弱になった珠恵を責め立てたのだろうと、皆が推察した。
しかしその実は、清二からの申し出だった。
光子に対する珠恵の若女将教育だと称する、いじめに近い罵詈雑言の命令を間近で見るに付け、恐れをなしたのだ。
「大女将、わたしにはむりなようです。事務方の管理もできませんし、ましてや番頭なんてとてもとても」
と、畳に頭をこすりつけて
「許してください。どこか小部屋で結構です、この旅館にだけは置いてください」と、懇願した。
このことがどこから漏れたのか、外部に知れ渡ったが、このことも光子の清二に対する脅しに近いものだ、策略のひとつに過ぎないと、口の端に乗った。
事ほど左様に、すべてが光子の企みとして吹聴されるに至った。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿