25日(日)。わが家に来てから今日で3512日目を迎え、11月の米大統領選に立候補していたロバート・ケネディ・ジュニア氏は23日、選挙戦から事実上撤退し 共和党候補のトランプ前大統領を支持すると表明したが、同氏は当初、民主党の大統領候補指名争いに出馬し 断念して無所属で立候補した経緯がある というニュースを見て感想を述べるモコタロです
名門ケネディ一族の出身者にしては 優柔不断で信念がないように見えるが大丈夫か
12月14日(土)14時からサントリーホールで開かれる新日本フィル「『第九』特別演奏会」のチケットを定期会員先行販売で取りました 演奏はソプラノ独唱=高野百合絵、メゾ・ソプラノ独唱=谷口睦美、テノール独唱=笛田博昭、バリトン独唱=平野和、合唱=栗友会合唱団、指揮=佐渡裕です
友田とん著「『百年の孤独』を代わりに読む」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読み終わりました 友田とんは1978年京都府生まれ。作家、編集者。大学で経済学、大学院で数学(位相幾何学)を研究し2007年に博士(理学)を取得。企業でコンピュータサイエンスの研究者・技術者として勤務する傍ら、「『百年の孤独』を代わりに読む」を自主制作し発表。その後、「代わりに読む人」を立ち上げ、独立
著者は「まえがき」に次のように書いています
「本書はガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説『百年の孤独』を、まだ読んでいない友人たちの代わりに読む、という試みを綴ったものである しかし、『代わりに読む』と言っても、単に小説をあらすじの形に要約したり、作品の背景を解説したりしたわけではない。それでは、代わりに読んだことにはならない なぜなら、小説を読み進めている時間に読む者の心のなかに立ち上がる驚きやワクワクというものは、要約や解説では伝えられず、そのまま時間が過ぎれば消え去ってしまうものだからだ なんとかしてその消えてしまうはずの驚きやワクワクを生のまま伝えたかった」
この著者は鋭いと思ったのは、「(「百年の孤独」が)読者をからかう冗談話として書かれていると気がついた。読む側もある種の冗談的な方法で受けて立てばいいのではないかと思いついた」ところです
この思いつきに基づいて、著者は「百年の孤独」を読み進める中で、連想したドラマや映画、ドリフのコント、こんまりの片づけ術などの話に脱線し、再び「百年の孤独」の世界に戻る手法を採ります
著者はそのような手法により、次のような章立てで「百年の孤独」を読み進めていきます
第0章:明日から「『百年の孤独』を代わりに読む」をはじめます
第1章:引越し小説としての『百年の孤独』
第2章:彼らが村を出る理由
第3章:来る者拒まず、去る者ちょっと追う『百年の孤独』のひとびと
第4章:リズムに乗れるか、代わりになれないか
第5章:空中浮揚に気をつけろ
第6章:乱暴者、粗忽者ども、偏愛せよ
第7章:いつもリンパ腺は腫れている ~ 大人のための童話
第8章:パパはアウレリャノ・ブエンディア大佐
第9章:マコンドいちの無責任男
第10章:NYのガイドブックで京都を旅したことがあるか?
第11章:ふりだし
第12章:レメデイォスの昇天で使ったシーツは返してください
第13章:物語を変えることはできない
第14章:メメに何が起こったか
第15章:ビンゴ
第16章:どうして僕らはコピーしたいのか?
第17章:如何にして岡八郎は空手を通信教育で学んだのか?
第18章:スーパー記憶術
第19章:思い出すことでしか成し得ないものごとについて
第20章:代わりに読む人
上記の中で「それには気がつかなかった」という指摘があり、「この人、よく読み込んでいるなぁ」と感心しました。それは第3章の中の次の文章です
「『百年の孤独』ではだれも食事をしていない。もちろん彼らも食べ物を口にしているに違いない。しかし、家族が集まって食事をするといった場面はひとつもないのである」
確かに、600ページに及ぶ5代の家族の物語なのに食事のシーンは一つもありません これが向田邦子のテレビドラマの脚本だったら毎回食事シーンが登場するところです 一方、
「レベーカが好んで食べるのは、中庭の湿った土と、壁から爪ではがした薄っぺらな石灰だけ」
という記述がありますが、これは食事とは言えないでしょう ガルシア=マルケスは食事のシーンを書くことについてはあまり興味がないように見えます
本書は、著者が「まえがき」に書いているように、「『百年の孤独』を、まだ読んでいない友人たちの代わりに読む、という試み」という観点からすれば、これから読む人にとっては手引書・入門書的な存在になると思います その反面、私のように先に『百年の孤独』を読んでから本書を読む者にとっては、連続ドラマやドリフのコントなどへの”脱線”は邪魔になります とはいうものの、600ページを超える大作を順序だてて要約しながら書き進めているので、「そういう出来事もあったな」とか「あれは、そういう意味だったのか」とか、あらためて気づかされる箇所も少なくありませんでした その意味では、複雑な人間関係や出来事を整理して理解するうえで大いに参考になりました
著者は「結局のところ、現時点で代わりに読めていないのだと私は思い知る」と書いているように、本書のタイトルが文字通りにはいかないことを認めていますが、「あとがき」に次のように書いています
「小説を人の代わりに読むことはできないというのは希望である」
分かりにくい言葉ですが、著者はその根拠として次のように書いています
「もし小説を読むという営みが、まさに余人をもって代え難いものだのだとしたら、それは本人が本人の力で読むしかない、各人が各人で読むしかないのである そして、だからこそ、どれだけ過去の人がすでに読んだ後であったとしても、私には読む必要があり、読み時間が必要であると社会に向かって主張することができるのである つまり、あなたの代わりに誰かがもう読んでしまったから、あなたは読む『必要がない、読まなくていい』というようなことは他人にはいうことができないということだ。これが希望でなくて何だろうと私は思う」
一昨日(23日)のブログでご紹介した通り、ガルシア=マルケスの長編小説『百年の孤独』は全625ページの超大作で、5代100年にわたる長大な物語であり、最後まで読み切るまでは一筋縄ではいきません その意味では、本書(全350ページ)は『百年の孤独』のガイドブックとして役に立つと思います 特にこれから『百年の孤独』を読む読者にお薦めします
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