人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

コバケン+東京フィルでチャイコフスキー「悲愴」、「弦楽セレナーデ」を聴く

2016年01月31日 09時11分17秒 | 日記

31日(日)。天気予報で雪が降るとか言ってたのに結局降らなかったとか、何だかんだ言ってるうちに、今日で1月も終わりです ということで、わが家に来てから490日目を迎え、狭いところが大好きなモコタロです

 

          

             だって広いところだと落ち着かないんだよね

 

  閑話休題  

 

昨日、文京シビックホールで「響きの森クラシック・シリーズ」公演を聴きました プログラムは①チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」、②同「交響曲第6番ロ短調”悲愴”」で、”炎のコバケン”こと小林研一郎指揮東京フィルの演奏です。この日のコンマスは若きエース依田真宣です

 

          

 

チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は1880年9月~10月に作曲されました。ショパンをはじめ多くの作曲家がモーツアルトを尊敬していましたが、チャイコフスキーもその一人でした 組曲「モーツアルティアーナ」という曲を作っているくらいです。チャイコフスキーの残した手紙によると、この曲は「モーツアルトへの愛情による内面的な衝動によって」作曲したとのことです 弦楽合奏のみにより4つの楽章から成る「小さな交響曲」のようなスタイルはモーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を思い起こさせます

東京フィルの弦楽セクションが配置に着きます。コバケンが登場し、さっそく第1楽章の演奏に入ります 東京フィル自慢の弦楽セクションによる渾身の演奏を聴きながら、そういえばこの曲は小澤征爾がよく取り上げていたなぁ、と思いました 第1楽章冒頭部分をひと言で言えば「荘重な」音楽です。チャイコフスキーですから、続いてすぐに美しいメロディーが出てきます 第2楽章は優雅な雰囲気の「ワルツ」です 第3楽章「エレジー」、第4楽章「フィナーレ」を通じてあらためて思うのは、やはりチャイコフスキーは屈指のメロディーメーカーだな、ということです

 

          

 

休憩後は「交響曲第6番ロ短調”悲愴”」です。この曲はつい4日前に梅田俊明指揮日本フィルで聴いたばかりです 嫌が応でも比較して聴くことなります。第1楽章の起伏の激しい音楽を聴きながら思ったのは、コバケンの指揮は、テンポを大きく揺らし、ダイナミックに音楽を展開するということです とくに”主題”が出てくる直前には必ず”間”を置いて おもむろにテーマの演奏に入ります この”間”が、聴く人の期待度を高めることになります。そのあたりは熟年指揮者・コバケンの独壇場でしょう

テンポは全体的にゆったりめです。例えば、第3楽章「アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ」では、スケルツォから行進曲に移りますが、先日聴いた梅田+日フィルの場合は”突っ走る”という感じでしたが、コバケン+東京フィルの場合は、焦らず着実に行進するという感じです

第3楽章がフォルティッシモで終わるため、拍手が起こる恐れがあったのですが、コバケンはタクトを上げたままで、しばらく間を置いてから、そのタクトを振り下ろして第4楽章に移ったので、”勘違い拍手事件”は避けられました

これについて、コバケンは演奏後、聴衆の拍手を制してあいさつする中で、

「東京フィルの皆さんの演奏にも感動しましたが、第3楽章から第4楽章に移るときの会場の静けさにも感動しました 皆さまのお陰で集中力を絶やすことなく演奏することが出来ました

と語っていました。次いで、

「本来ならアンコールを演奏するところですが、”悲愴”の後にアンコールというのも何ですから(会場・笑)、アンコールは次回に必ず演奏することをお約束しますので、本日は無しということにしたいと思います

と続けました。そして楽員一同と共に会場に向かって一礼し、コンサートを締めくくりました

こうして同じ曲を短期間に2度聴く機会があった訳ですが、指揮者とオケが違えば演奏のスタイルも違う、ということをあらためて感じたコンサートでした

 

          

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立川談春著「赤めだか」を読む~最近読んだ中で一番面白かった本

2016年01月30日 08時27分26秒 | 日記

30日(土)。昨日は昨年10月まで務めていたNPCの入居するビルの地下の飲食店に行き、久しぶりに同社X部長と同店のK社長と飲みました その後、X部長の学生時代の剣道部のマネジャーの知り合いが働いているSという新橋の小さいお店に行って飲み、その流れで同じビルのカラオケ・スナックMに行き歌いました 今日は朝から頭が朦朧としています。いつもと同じですが。ということで、わが家に来てから489日目を迎え、ファブリーズを話題に白ウサちゃんを口説いているモコタロです

 

          

           白ウサ:ファブリーズいらないから 自分を除菌しなさいよ!

 

  閑話休題  

 

昨日は、夕食に「豚肉とピーマン、なすの甘酢炒め」と「生野菜と海藻のサラダ」を作りました 

 

          

 

  最後の、閑話休題  

 

立川談春著「赤めだか」(扶桑社文庫)を読み終わりました 立川談春は1966年東京生まれ。1984年に立川談志に入門、97年に真打昇進。2014~15年には落語家30周年記念落語会「もとのその一」で日本全国を周る。この「赤めだか」で講談社エッセイ賞を受賞している

 

          

 

結論から先に書きます。この本は最近読んだ本の中で一番面白かった本です

新聞販売所で働きながら、下宿から石神井の談志師匠宅に通った修行時代、何故か築地魚河岸に修業に出された時のつらい経験、兄弟弟子たちとの付き合い、高田文夫との交流、志らくとの相克、二つ目昇進試験とお披露目のための工夫など、4年に及ぶ前座生活が講談を聞いているようなテンポ感で生き生きと描かれています この人は信じられないくらい文章が上手い。この作品で講談社エッセイ賞を受賞したときに受けたインタビューで多く出た質問は「本当に自分で書いたんですか?」というものだったと言いますが、そう思われても仕方がないでしょう。彼は話のプロ『噺家』ではあっても、文章のプロ『小説家』ではないのですから

ためしに、一番最初の「『これはやめとくか』と談志は云った」を読んでみてください。高校中退で談志に弟子入りする前後の話が書かれていますが、最後の方に、談志がカレーを作る話が出てきます。シチューの残りをカレーにするという話です

師匠は「シチューにスパイスを入れればカレーになるんだ」と言って、らっきょ、柴漬、チーズケーキ、卵、小麦粉を入れていくのです。ここで一口味見して、黙ってしまう。そして今度は納豆のタレ、ケチャップ、ソース、黒豆、豆板醤、オイスターソース・・・・と次々と加えていくのです。そして かまぼこ を手に取って考える。そして「これはやめとくか」と言って笑った

こんな出鱈目なカレーは食べたくないと思いますが、それを食べた談春さんは「以外に美味かった」と書いています なんて師匠思いの弟子なんでしょうか。涙が出てきます

立川流は、談志師匠が落語協会から飛び出した関係で寄席を持っていません その立川流の二つ目になるための条件は①古典落語を50席覚えること、②その中から談志がアトランダムに選んだネタをその場で演じ、談志を納得させる出来であることの2つ 今「ためして合点」でお馴染みの兄弟子の志の輔は脱サラして所帯持ちの立場で、1年ちょっとで50席を覚え、断トツの成績だったといいます 談春は入門4年目、21歳で二つ目に、その9年後、真打に昇進しました

師匠の談志は個性が強く、そのため落語を聞く側は「好き」と「嫌い」に分かれる訳ですが、落語に関しては弟子に厳しかったようです また、この本を読むと、落語以外のことについてもいろいろと弟子に教えていたことが分かります。一礼を挙げると「嫉妬」について次のように語っています

「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない 嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う

談志師匠は素晴らしい人ですが、その言葉を頭に叩き込んで、文章で再現できる談春さんも素晴らしいと思います

この作品は昨年TBSで放映されたそうですが、本で読んだ方がよほど面白いと思います。テレビで観た方にも強くお薦めします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原節子主演「女であること」「女ごころ」を観る~新文芸坐

2016年01月29日 07時38分43秒 | 日記

29日(金)。わが家に来てから488日目を迎え、未知の物体を前にして 扱いを白ウサちゃんに相談するモコタロです

 

            

           「見ざる 聞かざる 話さざる」は猿だけど、猫みたいだぜ・・・

 

  閑話休題  

 

一昨日は「2日目のカレー」だったので料理はお休みしました。昨日は夕食に「大根の そぼろ煮」、「生野菜と生ハムのサラダ」、「ホウレン草のお浸し」、「しめじの味噌汁」を作りました 「大根の そぼろ煮」は七味唐辛子をちょっと振るだけで超美味しくなりました

 

          

 

  も一度、閑話休題  

 

一昨日、池袋の新文芸坐で原節子主演「女であること」と「女ごころ」の2本立てを観ました 「女であること」は川端康成の原作を1958年に川島雄三監督が映画化したものです

佐山貞次(森雅之)は弁護士、妻・市子(原節子)は教養深い女性であるが、結婚して10年経つがまだ子供がいない。佐山が担当する受刑者の娘・妙子(香川京子)を引き取って面倒をみている。ある日、市子の女学校時代の親友・音子の娘・さかえ(久我美子)が家出して大阪から市子を頼ってやってきた  内気な妙子だけだった静かな佐山家が、何事にも積極的で賑やかなさかえが加わることによって色々な問題が起こる

原節子の「気品のある佇まい」が印象的ですが、さかえを演じた久我美子のオキャンぶりは意外でした 彼女が熟年になった頃の演技しか観たことがないので、若いときはこんなに活発な役をこなしていたのか、と驚きました 香川京子の若くてきれいなこと。これもビックリです

本編とは別に、この映画の一つの見どころは映画冒頭のタイトルバックです 何とあの丸山(三輪)明宏がいろいろなポーズを付けながらこの映画の主題歌を歌っています これだけでも観る価値があります

さて、この映画ではクラシック音楽が2曲使われていました。1曲目は銀座の喫茶店(フルーツパーラーのような所)で流れていたヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」です 題名の意味は、おしゃべりの表音記で、あえて日本語で表すと「ぺちゃくちゃ」です 2度目は同じ喫茶店で流れていたボッケリー二の「メヌエット」です いかにも昭和30年代初期の頃に銀座の喫茶店で流れていそうな曲だと思いました

 

          

 

2本目は1959年、丸山誠治監督による「女ごころ」です。「女であること」と同様、森雅之と原節子が夫婦役を演じています

大学の講師・小城朝吉(森雅之)と伊曽子(原節子)は結婚して10年になり、息子の研一とともに暮らしている ある日、伊曽子が朝吉の部屋で、夫が若い女と一緒に映っている写真を発見したことから、夫婦の間に波紋が生じる 相手の女は昼は出版社に勤め、夜はバーに勤めている三沢てるえ(団令子)だった。伊曽子は朝吉から「君にはもう友情しか感じられない」と言われてショックを受け、研一を連れて家を出て元の職場の寮に住み込んで働くことになる。朝吉とてるえはしばらく同棲するが、朝吉が真剣に結婚を考えているのに対し、てるえは田舎で結婚したいと思っており、結局うまくいかない ある日、テレビに出ていた研一を観て、朝吉は伊曽子と研一を呼び寄せる決心をし、伊曽子も我を通すのをやめて家に帰ることにした

この映画では、じっと家庭を守る日本女性の典型である伊曽子と、仕事も私生活も自由奔放に生きる てるえとが対照的に描かれています 丸山監督の女性の微妙な心理描写は鮮やかです

さて、この映画では、やはり喫茶店でのシーンで2つクラシック音楽が使われていました。1曲目はチャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」の「ワルツ」です 2曲目は、そのすぐ後に流れてきたハイドンの「弦楽四重奏曲第67番”ひばり”」の第1楽章「アレグロ・モデラート」です

2つの作品で登場した銀座の喫茶店のモデルは資生堂フルーツパーラーか、あるいは銀座ウエストかでしょう。随分前に両店とも入ったことがありますが、映画の登場人物が注文したメニューを考えると、資生堂フルーツパーラーでしょうね

 

          

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新日本フィルでマーラー「交響曲第5番」、モーツアルト「交響曲第35番」を聴く

2016年01月28日 08時13分00秒 | 日記

28日(木)わが家に来てから487日目を迎え足の爪を切ってもらっている間、恐怖で大人しくしているモコタロです

 

          

          爪切りは嫌いだよ~ なんで切るんだよ~ やだよ~ オロオロ

 

  閑話休題  

 

昨夕、サントリーホールで新日本フィルの第553回定期演奏会を聴きました プログラムは①モーツアルト「交響曲第35番ニ長調”ハフナー”K385」、②マーラー「交響曲第5番嬰ハ短調」です。指揮はデンマーク出身のトーマス・ダウスゴーです

 

          

 

指揮台に現れたダウスゴーはかなりの長身です。現在、スウェーデン室内管弦楽団首席指揮者、シアトル交響楽団の首席客員指揮者を務めています 小澤征爾のアシスタントとして北米での指揮活動を開始したそうなので、この新日本フィルに客員したのも(2012年3月以来とのことだそうですが)桂冠名誉指揮者・小澤征爾繋がりなのかも知れません

オケは左から奥にコントラバス、前に第1ヴァイオリン、右にチェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという対向配置を取ります コントラバスが左サイドに構えている関係で、ホルンが右サイドにスタンバイします。これがマーラーでどういう影響が出るか?コンマスは西江王子です

1曲目のモーツアルト「交響曲第35番ニ長調K385」は「ハフナー」という愛称で呼ばれています これは原曲が1782年の夏(モーツアルト26歳の時)にザルツブルクのハフナー家の息子ジークムントの爵位授与を祝うために依頼されて作曲したことによります

ニ長調という調性が表すように全体的に明るく祝祭的な響きをもった音楽です ダウスゴーは溌剌と新日本フィルを指揮し、奇しくもこの日、生きていれば260回目の誕生日(1756年1月27日生まれ)を迎えたモーツアルトに音の花束を捧げました

 

          

 

休憩後は待ちに待ったマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調です マーラーは、交響曲を書くにあたって、第1番は純器楽で、第2番”復活”、第3番、第4番は声楽を入れて作曲しましたが、この第5番は再び純器楽で作曲しました どういう心境の変化があったのか分かりませんが、後にいくにしたがって曲が巨大化していきます そして、第6番、第7番も純器楽で作曲し、第8番”千人の交響曲”で再度声楽を取り入れますが、第9番はまた純器楽に転じています 「交響曲とは『使えるだけのあらゆる技法的手段を用いて、一つの世界を構築することである』」と定義するマーラーにとっては、人間の声も一つの『技法的手段』に過ぎないのでしょうから、声楽が入っていようがいまいが、あまり重要ではないのかも知れません

第1楽章は独奏トランペットによって「葬送行進曲」のテーマが奏でられます これは明らかにベートーベンの第5交響曲”運命”の冒頭のテーマ「ジャジャジャジャーン」の変形です。大作曲家マーラーにとってもベートーヴェンは超えなければならない巨人だったのでしょう このトランペットの演奏はこれから始まるドラマの幕開けに相応しい素晴らしいもので、このコンサートの成功を確信させるに十分な演奏でした ダウスゴーは大きな身体を使って、ダイナミックに新日本フィルの面々から持てる力を引き出します 金管楽器では、オーボエの古部賢一、クラリネットの重松希巳江、ファゴットの河村幹子、ホルンの吉永雅人といった首席クラスの演奏が冴えわたっていました 彼らは時に応じて楽器の先端を持ち上げて演奏(ベルアップ)していましたが、これはマーラーの指示をダウスゴーが忠実に守っていたからです

第2楽章の嵐のような激しい音楽を経て、第3楽章のスケルツォに入りますが、この楽章では冒頭からホルンが大活躍します 私が心配していたのは、コントラバスとの位置関係で、ホルンがステージ右サイドに配置されたため音が直接客席の方に届かないのではないか、ということです つまり、ホルンが右サイドで演奏すると、音の出るアサガオの部分が客席側ではなく後ろの壁の方に向いてしまうからです そこはプロの指揮者とプロのオケです。うまく壁の反響を計算に入れて配置したのでしょう。何の問題もなく素晴らしい音響効果で迫力のある音楽が迫ってきました

第4楽章は、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で有名な「アダージェット」です ハープ奏者は第3楽章の後半以降は不安から緊張して落ち着かなかったでしょう 弦楽器とハープとによって夢幻的な音楽が静かに奏でられます こういう音楽にはただ耳を傾けるしかすべがありません 次いで、間を置かずに第5楽章「ロンド・フィナーレ」に移ります。オーケストラの総力を挙げての渾身の演奏が展開されます。フィナーレは圧倒的でした

最後の音が鳴り終わるや否や拍手とブラボーの嵐です 聴衆は熱狂しています。ダウスゴーは新日本フィルから持てる力を十二分に引き出しました

さて、演奏については以上の通り申し分のない素晴らしいものだったのですが、今回も一部の聴衆に不届きな者がいたので書いておきます

マーラーの演奏に入ってからでした。最前列ど真ん中の席の高齢男性が靴を脱いで床に放置し、さらにペットボトルも床に転がして放置していたのです この事実に気が付くのは同じ最前列の数人と2階席前方の聴衆くらいしかいませんが、すごく目立ちます 何しろ指揮台のすぐ下の席ですから 指揮者を見ようとしても靴とペットボトルが目に入ってくるのです。コンサートの雰囲気が台無しです 「あなた、人間やめた方がいいんじゃないの 少なくともコンサートには来るべきじゃないんじゃないの」と言いたいところです。幸か不幸かご夫婦でお出でだったようなので、奥さまには、ご主人の靴が足から離れないように靴ひもをキツク縛っておくようお願いしたいと思います まさか、定期会員にこんなだらしのない人はいないと思いますが、困ったものです

 

          

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅田俊明+日本フィルでドヴォルザーク「チェロ協奏曲」、チャイコフスキー「悲愴交響曲」を聴く

2016年01月27日 07時19分54秒 | 日記

27日(水)。昨日は品川で昼間から日本酒の熱燗を呑んだので しばらく頭がボ~ッとしていました(いつものことか)。昼間のお酒は夜呑むのと違って効きますね ということで、わが家に来てから486日目を迎え、万歩計をチェックするモコタロです

 

          

            昨日ご主人は1万歩を超えたみたいだな 感心 感震

 

  閑話休題  

 

昨日は、娘がカレーが食べたいと言うので久しぶりに作りました ジャガイモとニンジンはいつも通り皮付きですが、先日カレーを作った時に娘から「ジャガイモの芽を取ってる?毒だからね」と言われ、そういえばただ洗っただけだったな、と思って、今回は取り除きました。あとはいつもの生野菜サラダです

 

          

 

  も一度、閑話休題  

 

昨夕、池袋の東京芸術劇場コンサートホールで日本フィルのコンサートを聴きました これは「2016都民芸術フェスティバル」の一環として開かれたコンサートで、プログラムは①ドヴォルザーク「チェロ協奏曲ロ短調」、②チャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調”悲愴”」で、①のチェロ独奏は宮田大、指揮は梅田俊明です

自席は2階F列25番、センターブロック左から3つ目です。会場はほぼ満席です 2階から眺める限り平均年齢が相当高いように見受けられます A席3,800円、B席2,800円、C席1,800円という安価な料金設定が受けているのでしょう

 

          

 

コンマスは横綱級の木野雅之、チェロの首席には辻本玲が控えます。彼はソリスト・室内楽奏者として活躍していましたが、ソロ・チェリストとして日本フィルに迎えられたのですね 日本フィルの会員やファンの皆さんには申し訳ないのですが、ステージ上の楽員で私が顔と名前が分かるのはこの2人しかいません いかに日本フィルを聴く機会が少ないかということですね

梅田俊明は桐朋学園大学の出身で、仙台フィルや神奈川フィルでタクトをとり、今回の「都民芸術フェスティバル」などの公演によく客員で登場する指揮者です ソリストの宮田大は、2009年に第9回ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初めて優勝した実力者です

よく知られているように、ドヴォルザークはアメリカの大富豪ジャネット・サーバー女史が1892年に私財を投じてニューヨークに設立した「ナショナル音楽院」の初代院長兼作曲家教授として招かれました 1892年9月から3年間、同地で活躍した訳ですが、その時に作曲したのがこの日演奏される「チェロ協奏曲ロ短調」(1895年)をはじめ「交響曲第9番”新世界より”」(1893年)、「弦楽四重奏曲第12番”アメリカ”」(同年)など、”ボヘミアのメロディーメーカー”ドヴォルザークの傑作群でした 祖国から離れて生活したからこそ、こうした傑作が生まれたのだと思います

第1楽章「アレグロ」は序奏が長く、なかなかチェロが出てきません 序奏が終わり、宮田大の骨太のチェロが会場に響き渡ります。力強く堂々たる響きは、まさに「チェロ協奏曲の王者」と言っても過言ではないでしょう

第2楽章「アダージョ・マ・ノン・トロッポ」の抒情性は、ドヴォルザークが故郷の空を思い浮かべて作曲したに違いありません 第3楽章は再度、力強い演奏が心地よく響き、中盤ではコンマス木野のヴァイオリンと宮田のチェロによるダブル・コンチェルトのような部分があり、”競争曲的”な演奏が展開して面白く聴きました

宮田大は何度もステージに呼び戻されましたが、アンコール曲を用意していなかったとみえて、4度目に出て来た時はチェロを持たずに現れ、聴衆を諦めさせました

 

          

 

休憩後はチャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調”悲愴”」です。この曲は作曲者の自信作だったようですが、初演の9日後に彼は天に召されてしまいました。まさに悲壮です

第1楽章はコントラ・ファゴットとコントラバスにより暗い序奏が演奏されます。最初から「暗いMax」です このコントラ・ファゴットが実に素晴らしい演奏でした かなり長く起伏の激しい楽章で、この楽章だけでも一つのドラマを聴いているような気がします 梅田俊明は情熱的なタクトさばきを見せますが、こんなに激情した梅田を見るのは初めてです 日本フィルはその情熱に懸命に応えています 伸びやかな第2楽章を経て、スケルツォ+行進曲により突っ走る第3楽章に進みます この勇ましい第3楽章があるからこそ、次の第4楽章「アダージョ・ラメントーソ」が生きるのです

第3楽章がフォルティッシモで終わる直前、会場の何割かの人は「起こってほしくないこと」を予感していたに違いありません それは、この楽章があまりにも力強く決然と終わるので、曲が終わったと勘違いして、盛大な拍手が起こるのではないか、という心配です 2階席では、その兆候が少しありましたが、踏みとどまりました 聴衆が成熟したとみるべきか、あるいは皆が拍手をするまで控えていたのか、まったく分かりませんが、演奏を妨げることがなくて良かったと思います

第4楽章「アダージョ・ラメントーソ」が再び暗いMaxで開始されます 憂鬱を絵に描いたような曲想です。「この先は絶望しかない」というような重さです それでもやっぱり傑作です ”ロシアのメロディーメーカー”チャイコフスキーの最高傑作です

アンコールがありました。オーケストラの定期演奏会では基本的にアンコールはありませんが、こうしたフェスティバルのような時には定期会員獲得の手段としてアンコールを演奏することが多いようです 弦楽奏者だけでチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」を演奏しました なぜ弦楽だけの曲を選ぶかというと、本チャンで吹き続けて もはや息が続かない管楽器奏者を休ませるためです もう一つは、演奏後に指揮者は特定の管楽器奏者を指名して立たせますが、弦楽器の場合は全員一緒に立たせることが多いですよね。弦楽器だけの演奏であれば弦楽奏者だけに光を当てることが出来るからです。これは私の考えですが

この日、梅田俊明は燃えていました 受けて立つ日本フィルも燃えていました 在京オーケストラにとって、都の助成があるために低料金で聴ける「都民芸術フェスティバル」のようなイベントは、定期会員を獲得する絶好の機会になるはず。その意味で、日本フィルが梅田俊之を指揮者に迎えてチャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調”」をプログラムに組んだことは大成功だったと言えると思います 今回の演奏を聴いた聴衆は日本フィルに対して極めて良い印象を抱いたに違いありません

          

   最後の、閑話休題  

 

池袋西武地下のいつものコーヒーショップで新しいコーヒーを買ってきました 今度のは「有機栽培エルサルバドル」です。銘柄のシールがないのか 手書きで書かれています。さてどんな味か楽しみです

 

          

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原節子主演「智恵子抄」「路傍の石」を観る~新文芸坐

2016年01月26日 07時03分54秒 | 日記

26日(火)。わが家に来てから485日目を迎え、自分のおやつかどうか確かめているモコタロです

 

          

            これ僕のおやつじゃないな サイダーなんて飲めないし

 

  閑話休題  

 

昨日は、夕食に「ポークソテー」と「生野菜と鮭のサラダ」を作りました。あとはダイコンの味噌汁です

 

          

 

  も一度、閑話休題  

 

昨日、池袋の新文芸坐で原節子主演「智恵子抄」と「路傍の石」の2本立てを観ました 「智恵子抄」は、彫刻家で詩人の高村光太郎が愛妻・智恵子を偲んでうたった詩集「智恵子抄」を熊谷久虎監督が1957年に映画化したものです

詩人で彫刻家の高村光太郎は荒んだ独身生活を送っていたが、友人の八木夫妻の計らいで智恵子に出逢い結婚することになった セザンヌに傾倒する智恵子は油絵を描き、当時の進歩的な女性誌「青鞜」の表紙を描いたりしていた 光太郎は智恵子の純真な愛に強く心をうたれ、過去の荒んだ生活を反省し智恵子と新しい生活を営む決心をする 智恵子は油絵を描き、光太郎は彫刻に励んだ。しかし、智恵子は展覧会に落選したことから自信を失い、精神を病んでいく そんな智恵子を光太郎はただ見守ることしかできなかった

 

          

 

30代中頃の原節子が次第に精神を病んでいく智恵子を演じています 浜辺で千鳥と戯れる彼女の姿は痛々しいほどです。光太郎が智恵子を思う気持ちを考えると、これほどの純愛も珍しいかも知れないな、と思います

この映画では1か所クラシック音楽が使われています 智恵子が療養のため千葉県の実家に移って暮らし始めた時、蓄音機から流れていたのはベートーヴェンの「交響曲第6番”田園”」の第2楽章”小川のほとりの情景”です 蓄音機があるのですから、智恵子の実家が相当の家柄であったことが分かります。弟のせいで没落してしまいますが

原節子はこの映画に出演するにあたって、詩を暗記するほど原作を愛読し、「シナリオを読むだけで泣いている始末です」と語ったそうです 役柄にのめり込んでいる姿が印象的です

2本目は、1960年に山本有三の原作を久松静児監督が映画化した「路傍の石」です

 

          

 

物語は明治の末期。由緒ある士族の家に生まれながら町の人々との間に係争を起こし、訴訟に明け暮れる父・庄吾と、手内職で細々と生計を立てる母おれんによって愛川吾一は育てられてきた。小学校6年の吾一は成績も良く、新しくできる中学校に入りたいと思い、担任の次野先生も進学させたがった しかし、進学する経済的な余裕のない吾一は、小学校の同級生で成績の悪い秋太郎の住む金持ちの呉服商・伊勢屋に丁稚奉公に出ることになる 吾一はそこで先輩格の丁稚たちからいじめにあい、母親にもう伊勢屋には戻りたくないと言うが、我慢するようにと諭される その後、母おれんが病死し、吾一はとうとう我慢できなくなり荷物をまとめて伊勢屋を飛び出す。彼は一人汽車に乗り東京を目指す

原節子は当時40歳の手前くらいの年齢だったはず。いい歳の取り方をしているな、と思いました 言われなければ分からないのは、士族ながら家に帰れば酒ばかり飲んで、息子の貯金箱から小銭を持って行ってしまう父・庄吾を演じた森繁久彌です

うろ覚えですが、この映画は小学校低学年の時に学校行事として地元の映画館に観に行った記憶があります はっきりと吾一役の太田博之の名前と顔を覚えています。ただ、内容はまったく覚えていませんでした

この映画の冒頭にクレジットが出ますが、「〇〇市教育委員会推薦」「〇〇校長会推薦」「〇〇小学校PTA推薦」という文字がいくつも出てきます この映画の舞台は栃木県ですが、栃木県に限らず北は青森県(北海道はなかったと思う)から南は九州まで、全国の教育委員会や校長会やPTAが推薦しています。トドメは「文部省特選」です

「文部省特選」ですから、おそらく映画を観た後はきっと「感想文を書きなさい」という課題が出されたに違いありません。まったく覚えていませんが 当時の私は文章を書くのが超苦手でした

 

          

 

私は普段、ニュース以外はテレビを見る習慣がないのですが、たまたま見た昨夕7時半からのNHK・TV「クローズアップ現代」は、「原節子・永遠に美しく 新発見!幻の名画」というタイトルのもと、原節子が14歳の時に出演したという、悪化した映画フィルムをきれいに修復した映像を映し出していました 現在ではコンピュータよる修復技術が高度に進んでいるようで、まったく影も形もないように見えるフィルムから原節子の顔がはっきりと判別できるまでに再生されていました 世界に認められた「東京物語」の映像も取り上げていましたが、今回、池袋の新文芸坐で開催中の「追悼 原節子」上映シリーズの第1日目に上映されたこの作品を、風邪のため観られなかったのが今でも心残りです シリーズ最終日の30日(土)に上映する「麦秋」だけは何としても観たいと思います。コンサートあるけど

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤美枝子の「夜の女王のアリア」を再評価~新国立オペラでモーツアルト「魔笛」を観る

2016年01月25日 07時16分22秒 | 日記

25日(月)。わが家に来てから484日目を迎え、お姉ちゃんに暖房器具を買ってもらいながら ぶつぶつ言っているモコタロです

 

          

                        暖房器具より 一杯ひっかけて身体の芯から温まりたいなぁ

 

  閑話休題  

 

昨日、初台の新国立劇場でモーツアルトの歌劇「魔笛」を観ました 出演者は、ザラストロに妻屋秀和、タミーノに鈴木准、パミーナに増田のり子、夜の女王に佐藤美枝子、パパゲーノに萩原潤、パパゲーナに九嶋香奈枝、モノスタトスに晴雅彦、弁者に町英和、僧侶に大野光彦ほか。ご覧の通りオール日本人キャストです。指揮はロベルト・パーテルノストロ、管弦楽は東京交響楽団、演出はミヒャエル・ハンぺです

ハンぺの演出による「魔笛」は1998年、2000年、2006年、2009年、2013年に次いで今回が6回目です。私は多分2000年の公演から毎回観ています

 

          

 

モーツアルトのオペラはどれもが素晴らしいですが、この「魔笛」ほど年齢を問わず受け入れやすいオペラは無いでしょう とくにこのハンぺによる演出では、第1幕冒頭に大蛇や猿やライオンや鰐などが ぬいぐるみで登場するので子供でも楽しく観られるはずです

あまりにも有名なオペラなのでストーリーは省略します。キャストでは、何を歌っても何を演じても安定感がある妻屋秀和のザラストロが特に素晴らしく、鈴木准はタミーノにぴったりの声質を持っていて、歌も丁寧で好感が持てました

 

          

 

私がこのオペラを観る時のポイントとしているのは、「夜の女王を誰がどう歌うか」ということです 新国立オペラの「魔笛」を振り返ると、2006年が今回と同じ佐藤美枝子で、2009年、2013年が安井陽子でした。私の頭の中では「夜の女王=安井陽子」というイメージが出来上がっています

ミヒャエル・ハンぺ演出による第1幕の夜の女王の登場シーンは劇的です 夜の女王はステージ上空から丸いゴンドラに乗って降りながら空中で「夜の女王のアリア『畏れるな、わが子よ』」を歌います(上のチラシのように)。高所恐怖症の歌手はとても歌えないでしょう

今回10年ぶりに新国立オペラの「夜の女王」にカムバックした佐藤美枝子は、コロラトゥーラを駆使して美しい声で難曲を歌ったのですが、安井陽子と比べて狂気に迫るような迫力が感じられず、ちょっとがっかりしたのです

ところが、第2幕で歌われる2回目の「夜の女王のアリア『地獄の復讐が私の心の中に煮え立つ』」では、「ザラストロ憎し」の演技のもと、まさに狂気に迫るコロラトゥーラを歌い切ったのです これを聴いて、私はハタと思い至ったのです。「佐藤美枝子は第1幕と第2幕で敢えて『夜の女王のアリア』の歌い方を変えていたのではないか」と。つまり、第1幕では「何としても娘のパミーナをザラストロの下から取り戻したい」という母心からあのアリアを歌った(ここでは夜の女王=良い人という構図)のに対して、第2幕では「娘パミーナを自分から奪った父ザラストロに対して復讐をする」という自己中心的な邪心からあのアリアを歌った(ここでは夜の女王=悪い人という構図)のだと こう解釈することによって「夜の女王」を歌うコロラツゥーラ歌手としての佐藤美枝子に対する私の評価は変わりました。世界的な「チャイコフスキー国際音楽コンクール声楽部門の日本人初の第1位という輝かしい経歴はダテではないのです

それ以外のキャストに目を転じると、特に素晴らしいと思ったのは3人の侍女を歌った横山恵子、小林由佳、小野美咲です 第1幕冒頭から出番がありますが、この3人は声も美しく存在感抜群でした

今回の演出で気になったことがあります(ということは前回もそうだったか)。それはこのオペラの最後のシーンです フィナーレはタミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナの2組のカップルがめでたく結ばれて大団円を迎える訳ですが、ハンぺの演出では、幕が下りると、なぜかザラストロだけが幕の外(客席側)に残り、肩ひじをつきながら本を読んでいるのです。照明が点いたままなので、聴衆はオペラが終わったのか、まだ続いているのか判然としないまま、拍手をしたものか、まだ早いのか、迷わされている事態になっていました オペラでは通常、劇が終わると照明が暗転し、幕が下ります。そして再び幕が上がりカーテンコールがあるのです。それが、照明が消えないままだったのでこういう混乱になったのです

歌劇「魔笛」はモーツアルトもメンバーだった秘密結社「フリーメイソン」との結びつきが深いと言われており、作曲者モーツアルトと台本作者のシカネーダーは、フリーメイソンの儀式や習慣をこの「魔笛」の劇中で使用したと言われています そうしてことを踏まえて考えると、ハンぺの演出の意図は、フリーメイソンの啓蒙主義的な思想を体現したザラストロを幕の外に残すことによって、啓蒙主義(皆さん、本を読みましょうね)を聴衆に訴えたかったのではないか、と思います 私の推測が合っているかどうか分かりませんが、いずれにしても、最後のシーンは照明を暗転させるべきだと思います

 

          

 

オペラの帰り、地下鉄・初台駅で電車を待っているとき、どこかで聴いたことのある「電車到着メロディー」が流れてきました ヴェルディのオペラ「アイーダ」の「凱旋行進曲」でした。新国立劇場の最寄り駅・初台に相応しい曲を、と選んだのでしょう 着眼点は良いのですが、この曲だと若干 勇ましすぎて、発車前の飛び込み乗車が増えたりしないでしょうか?「アイーダ」の勇ましい音楽にのせられて電車のドアに飛び込み 首を挟まれて「アイーンだ」なんて・・・・・考え始めると夜も眠れません。ウソですけど

 

  も一度、閑話休題  

 

新国立劇場のオペラ「2016/2017シーズン ラインアップ」が発表されています 新国立劇場の情報誌「ジ・アトレ」に掲載されたラインアップ(10月~来年6月)は次の通りです

 

          

 

          

 

          

 

          

 

私の場合はもう10年以上も新国立オペラの定期会員になっているので、継続するのが当たり前になっています 現在の席は1階センターブロックの左通路側席(プルミエ・S席)ですが、すぐ前の2列は主催者側席(招待席・予備席)なので、かなり良い席だと思います 今回の悩みは、同じS席を継続するか、同じS席でも料金の安い左右サイド席に移るか(S席には3ランクある)、あるいはA席(2階左右)にランクを落とすか、ということです

ただ、現在の2015/2016シーズンが全10公演であるのに対し、2016/2017シーズンは9公演で、前季まであった日本人作曲家によるオペラ作品が入っていません その分料金的には安くなっているわけです。とは言うものの、現在のS席を継続する場合は9公演=184,500円で、決して安くはありません

しかし、発表されたラインアップを見ると、かなり魅了的です ワーグナーの2作品(「ワルキューレ」「ジークフリート」。両方とも新制作)をはじめ、大好きな「セビリアの理髪師」も「フィガロの結婚」も入っています 他の作品も含めて考えると全体的にバランスが良く取れたラインアップだと言えます

ということで、来季も現在のS席を継続することとし、「プルミエ公演継続申込書」を送付しておきました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3つの「第3番」を聴く~東京ニューシティ管弦楽団第103回定期演奏会

2016年01月24日 08時40分52秒 | 日記

24日(日)。今朝5時に目が覚めて外を見たら家々の屋根に雪が積もっていたのに、7時過ぎに起きたら もう消えていました。雪もゆき止まりだったようです ということで、わが家に来てから483日目を迎え、土曜日の万歩計を確認するモコタロです

 

          

            土曜日にご主人は8953歩 歩いたようだ 僕は何歩かな?

 

  閑話休題  

 

昨日、池袋の東京芸術劇場コンサートホールで東京ニューシティ管弦楽団の第103回定期演奏会を聴きました プログラムは①ベートーヴェン「レオノーレ序曲第3番」、②同「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」、③ブラームス「交響曲第3番ヘ長調」です ②のピアノ独奏は三舩優子、指揮は源田茂夫です。すでにお気づきのように、この日のプログラムは3曲とも「第3番」です

三舩優子と言えば、ピアニストというよりも、私などは2003年から08年までNHK-BSの「週刊ブックレビュー」の司会者としての方が親近感を覚えます あの番組は毎週楽しみにして観ていました。今は亡き児玉清さんなど週ごとに司会者が変わり、それぞれのパーソナリティーが楽しめる番組でした

 

          

 

1曲目のベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番はベートーヴェンの唯一の歌劇「フィデリオ」の4つの序曲のうちの1つです この歌劇は、ヒロインのレオノーレが男装してフィデリオと名乗り、政治犯として収獄されている夫を救出する夫婦愛の物語です。実際のオペラでは冒頭に「フィデリオ」序曲が演奏され、第2幕のフィナーレ前に「レオノーレ序曲第3番」が演奏されるのが一般的になっています

指揮者の現田茂夫がいつも通りタクトを持たずに登場し、さっそく演奏に入ります 途中、遠くの方でトランペットのソロが聴こえてきますが、これはステージ左サイドのドアの奧で演奏しています 演奏が終わるとドアが閉じられます。全体的にテンポ感良く雄渾なベートーヴェンが演奏されました

ピアノが左サイドからセンターに運ばれ、2曲目のベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」の演奏に備えます この曲はベートーヴェンが作曲した5つのピアノ協奏曲の中で唯一の短調の曲です。ハ短調というと彼の第5交響曲”運命”や第8番の”悲愴ソナタ”と同じ調性で、性格的にはドラマティックな曲想が特徴です ただ、この第3番の協奏曲に関しては、どちらかというと勇壮な曲想です

ソリストの三舩優子が黒のステージ衣装(ちょうど上のチラシのような)で登場し、ピアノに向かいます 第1楽章はオーケストラの提示部に続いてピアノが華やかに登場します。三舩優子の演奏は名前の通り優雅です カデンツァはベートーヴェンのものを弾きました。第2楽章「ラルゴ」は彼女の演奏の白眉です 私はベートーヴェンの曲を聴くとき、シンフォニーにしても、ソナタにしても、コンチェルトにしても、クァルテットにしても、緩徐楽章(アダージョ、ラルゴ)が一番素晴らしいと思います この第3番の協奏曲のラルゴも夢見るような美しさに溢れています。三舩優子はあくまでも美しく弾きます そして、間を空けずに第3楽章「アレグロ」の歯切れのよい演奏に移ります。彼女の演奏を聴いていると「ラルゴ」も良いけれど「アレグロ」も良いな、と思います

演奏後は大きな拍手とブラボーがソリスト・三舩優子と現田+オケに送られました

 

          

 

休憩後はブラームスの交響曲第3番ヘ長調です。この曲は1883年夏にライン河に近い避暑地ヴィースバーデンで完成され、その年の12月にハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルにより初演されました 第1楽章冒頭の雄渾なメロディーからか、「ブラームスの英雄交響曲」と呼ばれている、と何かで読んだ記憶があります

この曲の”聴かせどころ”は第3楽章「ポコ・アレグレット」です。『哀愁に満ちたロマンティックな曲』という表現はこの曲のためにあるのではないか、と思えるほどロマンに満ちた曲です その昔、フランス映画「さよならをもう一度」で使われたそうです。残念ながら私はまだ観たことがありませんが

この楽章で思い出すのは、もうかなり前のことですが、多岐川裕美がヒロインの女スリを演じたテレビ・ドラマがあり、そのテーマ音楽にこの曲が使われていました その時は、オーケストラではなくピアノ独奏で演奏されていました。北風の吹く中を多岐川裕美演じる女スリがコートの襟を立てて一人歩くシーンでこの曲が流れていました ピアノが彼女の哀愁を表しているようで、素晴らしい選曲だな、と感心しました

この楽章は特に素晴らしい演奏でした。第4楽章が静かに閉じた後、大きな拍手が送られました

東京ニューシティ管弦楽団は在籍楽員約70名で、在京オケの中で一番こじんまりしたオケです。芸術監督の内藤彰の方針により、同じ曲でも別の「版」で演奏するなど独自の演奏スタイルを築いてきました ただ、最近は他の在京オケと同じようなプログラムで演奏することが多くなってきたように思います ある程度”やり尽くした”感があるのかも知れません。しかし、多くのオーケストラがしのぎを削る東京圏で生き残っていくためには、他のオケにない特色がなければならないし、個々人の演奏能力の向上もなければなりません

 

          

 

私は現在このオケの定期会員ですが、来季のコンサート・ラインアップを見ると、7回の定期演奏会のうち一番の”ウリ”は11月の演奏会に世界的なピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンが登場することです しかし、演奏するのはポーランドの作曲家クナピクの「ピアノ・ソロ、混声合唱、オーケストラのための協奏曲”ソング・オファリングス”」という現代曲(世界初演)です ツィメルマンをソリストに迎えることは他の大きな在京オケでも相当な覚悟がいることで、そのうえ現代曲を取り上げるということなので、「常に新しいことに挑戦する」という東京ニューシティ管弦楽団の意欲は伝わってきますが、これでどれほど定期会員を獲得できるのか、ちょっと心配です 

私としては、小規模ながら頑張っている東京ニューシティ管弦楽団を応援したい気持ちは大いにありますが、他の6公演のプログラムと演奏者(プログラムもソリストもロシアが中心か)も勘案しながら、来季も会員を継続するかどうか慎重に検討したいと思います

 

          

 

          

 

          

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原節子16歳の主演映画「新しき土」「河内山宗俊」を観る~新文芸坐

2016年01月23日 07時50分42秒 | 日記

23日(土)。わが家に来てから482日目を迎え、踊り疲れて倒れた白ウサちゃんのために救急車を要請するモコタロです

 

          

           だれか119番して下さい ”転倒虫のサンバ”を踊ったらしい

 

  閑話休題  

 

昨日は、夕食に「鶏もも肉の照り焼き」と「生野菜とワカメと白すのサラダ」を作りました 「鶏もも肉」は醤油と砂糖のタレをかけて焼くとフライパンが焦げ付きやすくなりますね。何とかなりませんかね  娘の食後の感想は「超おいしい」でした

 

          

 

  も一度、閑話休題  

 

昨日、池袋の新文芸坐で原節子主演映画「新しき土」と「河内山宗俊」の2本立てを観ました 「新しき土」は原節子がデビュー間もない16歳の時に主演した、ドイツのアーノルド・ファンクと日本の伊丹万作の共同監督による1937年 日本初の国際合作映画です

 

          

 

欧州留学が終えてドイツ人女性ジャーナリストとともに帰国した輝雄(小杉勇)は、ずっと待ちわびていた許嫁の光子(原節子)と父の巌(早川雪洲)に温かく迎えられる 輝雄は子供時代に養父・巌に育てられ光子と兄妹のように育てられたのだった。しかし、西欧で”個人の自由”を学んできた巌は”許嫁”という日本的な慣習に反発し大いに悩む 輝雄の心の変化に絶望した光子は、花嫁衣裳を胸に抱き、噴煙を上げる険しい山にひとり登り始める 実の両親を訪ねたり、日本各地を訪ねたりするうち日本の良さを再発見した輝雄は、光子の失踪に驚き、彼女を追って山に登る

 

          

 

原節子の演じる光子は、典型的な美しい日本人女性です 先日の朝日のコラム「ニュースの本棚」に横尾忠則氏が「原節子の美」について次のように書いています

「原節子の美しさについて佐藤忠男は『純潔さ、まじめさ、健気さ、気高さ、やさしさ』と『永遠のマドンナ 原節子のすべて』でさらりと、しかしズバリとその本質を語る

これ以上、適格な言葉はないかもしれません

この映画では、輝雄とドイツ人女性ジャーナリストが語る背景に、日本の旭日旗やドイツのハーケンクロイツの旗が飾ってあったり、光子の父・巌が日本を紹介するのに「日本は天皇の国です。日本人は天皇家のためにあります」と語るシーンがあったり、「日本は人口の割りに国土が狭い。広大な満州を開拓しなければならない」というナレーションが入ったり、当時の日本を取り巻く世界情勢が垣間見られるシーンが少なくありません

この映画は、山田耕作が音楽を担当しています 全編を通じて「さくらさくら」「荒城の月」などお馴染みのメロディーが流れますが、大阪の街並みを映しているのに「東京音頭」が流れるシーンがあり、思わず苦笑してしまいます 山田耕作がついていながら何とかならなかったのか、と思います

さて、2本目は「河内山宗俊」です この映画は山中貞雄監督による1936年制作の作品です。甘酒屋の可憐な少女・お浪(原節子)を救うため、居酒屋に居候する河内山宗俊(河原崎長十郎)と、用心棒の金子市之亟(中村翫右衛門)が獅子奮闘する物語です ある日、お浪が、不良の弟・広太郎の借金のために身売りすることになったことを知った宗俊と市之亟は手を組んで彼女の救出に向かう。二人は、広太郎を姉のお浪の下へ行かせるため、追手を阻んで自ら犠牲になる

 

          

 

この映画で原節子を見初めたアーノルド・ファンク監督は「新しき土」のヒロインに抜擢したといいます。いかにも”清楚”で”純真”という形容詞がぴったりの女性です

この映画を観て一番驚いたのは、宗俊と市之亟が追手と闘いながら逃走する場面で流れていた音楽です まさか1936年制作の日本映画でチャイコフスキーの「幻想序曲『ロメオとジュリエット』の音楽が流れるとは思いもしませんでした モンタギュー家とキャピュレット家との激しい闘いを表す部分の音楽ですが、これがピッタリはまっています

これだから映画は面白いのです。何が出てくるか分かりません

 

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スクロヴァチェフスキ+読響でブルックナー「交響曲第8番」を聴く~神は降りたか?

2016年01月22日 07時37分23秒 | 日記

22日(金)。昨日は、午前中に娘の部屋の新しいエアコンが届いたので古いのと交換工事をしてもらいました リビングなど他の部屋はすでに新しいエアコンに変えてありますが、娘の部屋だけが20年以上放置されていて、先日、娘から「エアコンが動かない」と言われて早速 池袋のBカメラに行って手配してきたのです

一方、ここ数か月、メガネの度が合わなくなってきたので新しいのを買おうと考えていて、やっと決心して一昨日 行きつけの眼鏡屋さんに行って新しいメガネを注文してきました 検眼してもらったら左目は視力が落ちていないが、右目が低下しているとのことでした。能力と同じか・・・・と しばし感慨にふけりました

さて、私が驚いたのは6畳用のエアコンと新しいメガネの値段が同じだったことです。ともに約65,000円でした これをどう解釈すべきか悩みました。エアコンが安いと言うべきか、メガネが高いと言うべきか、はたまた両方とも高いと言うべきか・・・・・結局、両方とも耐用年数を考えればそれほど高い買い物ではない かな、と自分を納得させることにしました 

「それにつけても・・・・」と思うのは、ここ5年くらいの間に相当の設備投資をやったなということです。大きな工事ではガスレンジの全面交換、お風呂とトイレの全面リフォーム、家電では、エアコン全4台の新調と照明器具全5器のLED化、洗濯機と冷蔵庫の新調、と相当な設備投資をしてきました 築20年も経てばあちこちガタが来るし、家電製品も寿命がきます。そういう時期だったのだと思います

ということで、わが家に来てから481日目を迎え、焙じ茶を飲みたいけれどキャップが開けられず諦めたモコタロです

 

          

           キャップが開けられない 脱帽だ! (分かるかな?)

           

  閑話休題  

 

昨日は、夕食に「モヤシ巻き豚肉しょうが焼き」、「生野菜とワカメと白すのサラダ」、「ワンタンとエノキダケのスープ」を作りました。経済的かつ健康的なメニューです

 

          

 

昨夕、池袋の東京芸術劇場大ホールで「読売日響特別演奏会」を聴きました 読響桂冠名誉指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが読売日本交響楽団を振ってブルックナーの「交響曲第8番ハ短調」を演奏します

 

          

 

いつも通り、会場アナウンスが入ります 今回のプログラムはブルックナーの大曲「交響曲第8番」1曲のため、約90分の間に途中休憩がない旨を知らせています。トイレに行くと、女性トイレは並んでいないのに男性トイレは長蛇の列 これは『ブルックナー現象』とでも言うべきもので、ブルックナーの交響曲のコンサートの時は、男性の聴衆が圧倒的に多いという実態を現しています この日も、2階席から満席の会場をざっと見渡した限り、7対3位の割合で男性が多いようでした。何故なんでしょうね?誰か音大の卒論で取り上げる学生はいませんかね

自席は2階M列22番、2階センターブロック左通路側席です。ステージの左サイド、右の奧、指揮台の正面後方、2階の左右にはテレビカメラがスタンバイしています おそらく後日NTV系列で放映するのでしょう

オケのメンバーが登場します。弦楽器は左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという編成をとります。コンマスは長原幸太、その隣には小森谷巧が控えます。反対側のヴィオラ席には、首席の鈴木康治と柳瀬省太が並びます。これだけ取ってみても このコンサートに賭ける読響の意気込みが感じられます また、左サイドにはハープが3台スタンバイし、ホルン・セクションの席にはワーグナーチューバが見えます

大きな拍手の中、巨匠スタ二スラフ・スクロヴァチェフスキが ゆったりとした足取りで登場します。やや猫背の姿勢で一歩一歩慎重に足を進めます。明らかに典型的な老人の歩き方です 「これから90分、立ったままで指揮し続けられるのだろうか」と ほとんどの聴衆が心配する中、指揮台に上がり一礼してオケの方に向き直ります。譜面台の上には薄緑色のブルックナーのスコアブックが載せられています

スクロヴァチェフスキは1923年にポーランドのリヴォフ(現在はウクライナ領)で生まれました。したがって現在92歳です 彼は1960年から20年にわたりミネソタ管弦楽団の音楽監督を務め、その後、ワルシャワ・フィル首席指揮者、英国ハレ管弦楽団の首席指揮者を歴任、現在はミネソタ管弦楽団の桂冠指揮者とザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルの桂冠指揮者を務めています

 

          

 

オケに向き直ってタクトを振るマエストロは、老人から盛年に一変したように矍鑠たる姿勢でオケと対峙します 第1楽章「アレグロ・モデラート」は弱音のトレモロに乗ってテーマが次第に現れてきます いわゆる”ブルックナー開始”です。オケの面々はいつもより真剣度が増しているように感じられます

ブルックナーは第2楽章に「スケルツォ」を置きました。これはベートーヴェンの第9交響曲と同じです。このため 次にくる第3楽章「アダージョ」が生きてきます マエストロは、第1楽章と第2楽章との間をあまり空けずに演奏しました。このスケルツォを演奏する弦楽器群、特に第1ヴァイオリンの二人の首席、ヴィオラの二人の首席、そして第2ヴァイオリンの首席・瀧村依里、首席代行・山田友子の演奏姿を見ていると、「マエストロと演奏するのも、今回が最後になるかも知れない」という切羽詰まった意識で演奏しているのではないか、と思えるような極度の集中力を持って演奏していることが伝わってきます その姿勢は、明らかにそれぞれのセクションのメンバーに伝わっています。もちろん、このことは弦楽器に限ったことではなく、金管楽器、木管楽器、打楽器、ハープ、すべてに言えることです

第3楽章「アダージョ」の深さを何と表現すれば良いのでしょうか。マエストロの指揮で聴いていると、まさに神が降りたのではないか、と思えるほど深い感動を覚えます 同じ”マラソン交響曲”を書いたマーラーの「アダージョ」も心動かされるものがありますが、”神”に通じるアダージョはブルックナーの独壇場でしょう ある音楽評論家は「クラシック音楽はブルックナーをもって終焉を告げた。なぜなら、ブルックナーの音楽は神の域まで達してしまったからだ」と語っていますが、その意味では、この「アダージョ」はクラシック音楽の終焉を現す音楽なのでしょう

最後の第4楽章「フィナーレ」は、勇ましい行進曲から開始されます。冒頭から管弦楽が咆哮します。そして、オケの総力を持って圧倒的なフィナーレを飾ります

最後の音が鳴り終わったところで、一部の聴衆が拍手をしましたが、まだ指揮者の手が止まったままだったため、追随する者がなく、マエストロが手を下してリラックスしたのを見て、大きな拍手とブラボーが沸き起こりました フライングでしたが、気持ちは分かります

マエストロは、まずホルン・セクション(ワーグナーチューバ持ち替え)を立たせ、次いで他の金管楽器群を、木管楽器群を、打楽器とハープを、そして弦楽器群を立たせました 拍手が鳴り止まないので、とうとう彼はコンマスの長原幸太の手を取って舞台袖に引き上げていきました

ブルックナーの交響曲は、あまりの長さに、また同じメロディーの繰り返しに、途中で眠くなってしまうこともあるのですが、この日の演奏は最初から最後まで集中力に満ちた渾身の演奏で、まったく隙がありませんでした

ここで演奏の途中ラップを振り返ってみます。演奏開始は7時8分。第2楽章終了は7時40分、第3楽章終了は8時10分、最後の第4楽章終了は8時31分、トータル演奏時間は83分でした なぜ演奏時間が気になったかというと、プログラムノートに書かれていたこの曲の解説に「演奏時間:約82分」という記述があったからです この「82分」が誰のどういう演奏を基準としているのか明確ではないのですが、おそらくマエストロのCDをもとに推測したのではないか、と思います つまりCDのスタートから終了までの再生時間の合計が82分ということです。それに比べて、今回の演奏は楽章間の”間”を含めてトータルで83分です。両者の間には1分の違いしかありません もし私の推測通り、解説にある82分がマエストロのCDの演奏時間であるならば、いかに彼のテンポが常に変わらないか、ということです

さて、指揮台に載せられていた薄緑色のブルックナーのスコアブックは、演奏中 一度も開かれることがありませんでした それでは何故 マエストロは一度も見ない楽譜を指揮台に置いていたのでしょうか? それはマエストロの作曲者ブルックナーに対する敬意の表明だったのだと思います

素晴らしいブルックナーでした。こういう演奏は1年に何度もあるものではないでしょう

 

          

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする