人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

ライナー・キュッヒル氏「現代のコンマスの役割、若手指揮者の傾向」を語る~N響「Philharmony」のシリーズ「オーケストラのゆくえ」より / 吉田秀和著「バッハ」を読む

2019年04月28日 07時20分35秒 | 日記

28日(日)。わが家に来てから今日で1668日目を迎え、トランプ米大統領は26日の日米首脳会談で、新天皇と会見するため国賓として訪日するよう安倍首相から打診された際、「スーパーボールと比べてどれくらい大きいものなんだ?」と尋ね、安倍首相が「だいたい100倍くらいだ」と答えると、トランプ氏は「行く。そうだったら行く」と来日を決めた というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

        アメリカ大統領の外交の判断基準はいつからスーパーボールになったんだい?

 

         

 

N響のプログラム冊子「Philharmony」は、現代のオーケストラを巡る様々なトピックを「オーケストラのゆくえ」というシリーズで取り上げてきました 4月号掲載の最終回では元ウィーン・フィルのコンサート・マスターで現在N響のゲスト・コンマスを務めるライナー・キュッヒル氏がインタビューに答えています 超訳すると、次の通りです

「コンマスの立場は微妙だ。第1ヴァイオリンのセクションをまとめるにとどまらず、オーケストラ全体を助け、時には指揮者も助けなければならない 指揮者がどうにもならない場合は楽員を困難から救い出す義務もある。指揮者は音楽面で最強の存在だ しかし、音楽的には優れていても、バトン・テクニックの危うい指揮者もいる すばらしい音楽のアイディアがあれば、テクニックは二の次でもよいが、協奏曲などの伴奏指揮ではそうも言っていられない 最大限の努力で演奏を成立させなければならない。かつてウィリー・ボスコフスキーがウィーン・フィルのコンマスを務めた時代は、ダメな指揮者には はっきり「あなたはウィーン・フィルを振る器ではない」と言い放ったそうだ    半面、本物のマエストロたちには最大限の尊敬を払っていた。面白いのは同じ指揮者が10のオーケストラを振ったとしても、それぞれに固有の伝統があるため、10通りの異なる音の結果が出ることだ   例えば、カラヤンは基本的にトロンボーンをゆっくり、重く吹かせるのを好んでいたが、ベルリン・フィルとウィーン・フィルでは異なる指示を出していた   若い指揮者に関しては、カラヤンやマゼールのようなマジックを発揮できるマエストロが極端に少なくなったと言わざるを得ない キャリアを作ることに汲々とし、イメージ戦略に熱中する傾向が顕著だ。楽譜の背後に身を置き、音楽の奉仕者に徹する指揮者は非常に少なくなった 残念ながら現状は、テクニック偏重だ。テクニックだけを極めていけば、指揮の未来は人間ではなく、ロボットの手に委ねられるのではないか 音楽は危機に瀕している。この方向での発展には区切りをつけ、原点に立ち返るべきだ コンサートマスターの権威づけも行き過ぎた。他の楽員全員がチューニングを終えるのを待ってソリストのように現れ、いきなり演奏するオーケストラのリーダー(コンマス)は明らかに威張り過ぎの感じがする 自分はいつも同僚と同時に入場する。オーボエ奏者が厳かにチューニングを開始する習慣も、ウィーン・フィルでは廃止して久しい。ひとりの奏者に全員が音程を依存するリスクは意外に高い N響は過去半世紀、ゲバルト(暴力)といっても過言ではないほど急激に、力を上げてきた 自分は1971年にウィーン・フィルに入団したが、当時の楽員は今とまったく違う顔ぶれだった。しかし、ウィーン独特の奏法は見事に保たれていた。オーケストラの形態が変わる今日ではそれを引き継ぐのは非常に難しくなった もし腕前だけでオーディションを実施したら、ウィーン・フィルの音は雲散霧消してしまうだろう 奏法や音楽性、音色を慎重に検討しながら、シュトラウス・ファミリーのワルツを『それらしく』奏でられる集団の個性を維持することは難しい時代になった。日本のオケは十分な発展を遂げ、いくつかの団体は世界のトップクラスに比してまったく遜色のない演奏水準を備えている 世界の名門楽団は優秀な音楽家を獲得しようと国際オーディションを繰り返した結果、かつて固有だった響きの個性を失いつつある その点、日本のオーケストラは言語や地政学の問題もあって、日本人の割合が多いままに構成され、世界的にみても優れた奏法の一体感がある 21世紀はN響をはじめ、日本のオーケストラが一段と強い個性を発揮して、世界に羽ばたく時代と言えるだろう

 

     

 

キュッヒル氏のインタビューを読んで真っ先に知りたいと思ったのは、「指揮者がどうにもならない場合は 楽員を困難から救い出す義務もある」という発言で、「どうにもならない指揮者」って具体的に誰ですか?ということです   まあ、これは答えられないでしょうね

次に気になったのは、「キャリアを作ることに汲々とし、イメージ戦略に熱中する傾向が顕著だ。楽譜の背後に身を置き、音楽の奉仕者に徹する指揮者は非常に少なくなった。残念ながら現状は、テクニック偏重だ。テクニックだけを極めていけば、指揮の未来は人間ではなく、ロボットの手に委ねられるのではないか」という若手指揮者についての発言です   これについても、具体的に誰と誰ですか?と訊きたいところですが、これも答えられないでしょうね   でも、それってブザンソンをはじめ、世界各地で行われている指揮者コンクールの影響はないのでしょうか? 私は素人なのでよく分からないのですが、指揮者コンクールって しっかりしたバトン・テクニックがないと上位入賞は難しいのではないかと思うのですが、どうなんでしょう

最後に「日本のオーケストラは言語や地政学の問題もあって、日本人の割合が多いままに構成され、世界的にみても優れた奏法の一体感がある」という発言は、「そういう見方もあるのか」と意外な感じがしました また、 「21世紀はN響をはじめ、日本のオーケストラが一段と強い個性を発揮して、世界に羽ばたく時代と言えるだろう」という発言は、N響のゲスト・コンマスの立場からのリップサービス半分としても、日本のオーケストラの楽員にとっては嬉しいコメントではないかと思います

そのためには「世界に羽ばたく」前に、国内での定期演奏会の会場を聴衆でいっぱいにしなければならないと思います


         


吉田秀和著「バッハ」(河出文庫)を読み終わりました この本は、音楽の友社が2002年に刊行した「吉田秀和作曲家論集6  J.S.バッハ、ハイドン」から、バッハに関する文章のうち26本をまとめたものです

吉田秀和は1913年東京日本橋生まれ。東大仏文科卒。戦後、評論活動を始め「主題と変奏」(1953年)で指導的立場を確立。1948年には、斎藤秀雄らと「子供のための音楽教室」を創設し、後の桐朋学園音楽科設立に参加。館長を務めた水戸芸術館開設を記念し吉田秀和賞が設けられている。著書多数。2012年没

 

     


巻末の「発出一覧」を見ると、「朝日新聞」と「レコード芸術」が多いようです 朝日新聞は30年以上定期購読しているし、「レコード芸術」は世紀が変わる20年ほど前に定期的に読んでいたので、一度読んだことのある文章もあると思われますが、すっかり忘れているので、どれも初めて接するような気持ちで読みました 登場するアーティストは、ヴァイオリンではシェリング、ヴァルガ、ミルシテイン、ミンツ、ピアノではフィッシャー、グルダ、グールド、リヒテル、シフ、ミケランジェリ、チェロではマイスキー、ビルスマ、鈴木秀美、オーケストラではカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団といった往年の演奏家・団体です 吉田氏は彼らの演奏を通してバッハの魅力に迫っていきます 

【 下の写真はカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるバッハ「マタイ受難曲」のLP 】

 

     

 

この本を読んで一番驚いたのは、吉田氏が「バッハの宇宙の大きさと深さにおいて頂点に立つのは『ロ短調ミサ曲』と『マタイ受難曲』である」と書きながら、「私は『マタイ受難曲』を これまでに ほんの数回しか聴いたことがない   レコードでも初めから終わりまで聴いたのは、何度あったか。数は覚えてはいないが、10回とはならないのは確かである    私は、それで十分満足している。私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回も聴かなくてもよい、と考えている」と書いていることです。天下に名の知れ渡った音楽評論家はこんないい加減でいいのだろうか    ただ聴く回数を増やせば良いという問題ではないにしても、正味3時間の「マタイ受難曲」を一生に10回も聴いていないなんて、それでよく音楽評論家が務まったものだと思います

それにも関わらず、ケンプの弾くバッハのコラールを取り上げて、吉田氏は次のように言ってのけます

「バッハが聴ける、いや、バッハが楽しめることが、どんなにかけがえのない幸福であるか お節介な言い方で大変恐縮であるが、音楽が好きだったら、バッハに心から没入できるようになった方がよい。いや、私は、むしろゲーテを真似て『バッハの味を知らない人は幸福である。その人には、人生で最大の至福の一つが待っているのだから』というべきかもしれない

ここで「バッハに心から没入できるようになった方がよい」と言うのだったら、『マタイ受難曲』を全曲通して聴くべきではないのか

吉田氏が朝日新聞の「音楽展望」や「レコード芸術」誌で取り上げたアーティストの演奏録音の中で最も高い評価を与えたのは間違いなくグレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」の1955年録音盤(モノラル)です これはグールドのデビュー・レコードでしたが、吉田氏はこのレコードを初めて聴いた時、「ほとんど、飛び上がらんばかりにびくりした」と語っています。グールドの才能に惚れ込んだ吉田氏は評論家として初めて、日本コロンビアから依頼されてレコード・ジャケットに「グールド讃」を書きました グールドはその後、同じ曲を1981年にステレオ(デジタル)録音していますが、吉田氏は「ステレオになってからの盤はなぜか、迫力が薄れてしまった」と書いています

【 写真は上が1955年モノラル録音盤、下が1981年ステレオ録音盤 】

 

     

 

     

     

本当のことを白状すると、この本に出てくるLPやCDは持っていない方が多かったので、読み進めるのに難儀しました もし持っていれば、文章の中で紹介されているCDやLPを聴きながら読み進めれば理解がいっそう深まるはずです その点はちょっと残念でしたが、巻末の「解説」に小池昌さんが書かれている「読むと聴きたくなるのは当然のこと CD・DVDは入手困難でも、現代にはユーチューブを始めとして様々な映像媒体もあるから、探して聴きながら本書を読んでみたい」というのは気の利いた提案だと思います

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