1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災が26年目を迎えました。
マスコミの報道は年々少なくなり、今年は特にコロナ騒動と重なり、追悼式の参加者数を絞ったり、
また26年目という節目でない年だったので、世の中から忘れられる方向を感じます。
あの時を振り返っておきたいと思います。
1.発災前後
地震が発生する10分以上前には目が覚めており、布団の中でぼーっとしていました。
なんとなく、「ごぉー」というような地鳴り音が聞こえ、「なんか変だなぁ・・・・」と思った瞬間、
どすーーん、どすーん、ガタガタガタ と激しい揺れが襲ってきました。
すぐに布団を飛び出し、テレビをつけたところ、最初、NHKは震源地が京都と報道してました。
私は、ついに関東大震災が起こったと誤解したくらいに、関西では震災は起きないと思っていました。
当時は父も健在で、2世帯同居の住宅で、父と母、妻と子供2人の無事を確認。
食器棚、本棚などの中身が散乱しましたが、電気、ガス、水道のライフラインの無事を確認。
会社の出社基準が震度5以上なので、すぐに駅に向かって出勤しましたが、
駅前まで行くと銀行の大きなガラスが割れて散乱し、電車も止まっていました。
公衆電話で奥さまに「バイクで行くから、パッチを用意しておいて欲しい。」と伝え、
急ぎ帰宅し、XL125で大阪市内大正にある職場に向かいました。
2.職場での状況
当時39歳の私は、商品開発の部署で総務と企画のマネジャーをしていました。
7時前後に職場に到着すると、スキー帰りの若手社員4-5人がいたので、
直ちに、実験場などの施設の点検を命じ、設備の無事を確認しました。
そのうち、隣の建物の大阪市内を担当している部署の電話受付がパンク状態との情報が入り、
出社した部員を順次、コールセンターに送り込みました。
一方で、部員の安否確認なども行いながら、あっという間に時間が経過していきました。
2時間ほどして、コールセンターに送り込んだ部員から、「メンバーはへとへと状態なので、
交代要員を出して欲しい。」とのことで、手配をし、ホワイトボードでメンバー管理をして、
交代させていました。
さらに時間が経過し、夕方になると、市内での点検要員が足りないとのことで、
調査要員を40-50人ほど出せるだけ出して欲しいとのことで、その時には、
コールセンター応援メンバーも帰ってきていたので、全メンバーを会議室に集め、
要望内容を具体的に伝え、協力可能なメンバーを志願してもらいました。
その中に、間もなく定年退職する人も入ってきました。
私の方から、深夜に亘って調査活動する必要があるので、気持ちはありがたいが、
一旦帰宅して後方支援活動に参加してくださいと伝えると、現場経験があるし、
会社に貢献しなければならないときこそ参加するのが本望との声に感動しました。
結局、気持ちだけいただき、マイカーできた部員を10人ほど並べ、その後ろに3人ずつ立たせ、
グループ分けをして、送り出しました。
一人を現場調査隊の責任者に指名し、順次、情報を入れるように指示して、
夜中に事業所で待機してました。
夜中の2時過ぎごろに調査が終わり、現地本部で仮眠後、帰ってくるように指示しました。
3.1月18日(2日目以降)
初日はほぼ徹夜で2日目を迎えました。
現地調査に行ったメンバーには、帰社後、帰宅を命じ、本社の動向などを調査していました。
商品開発部門は現場を持っているわけでなく、商品開発のために情報収集に努めておりました。
一方で、自宅近所の事業所に出社したメンバーは、現場の対応要員に組み入れられており、
部員の状況確認にも追われていました。
部長からは、現地の被災状況を確認したいとの要望が出されたので、
営業部門にいた時の付き合いのある制作会社さんに依頼し、会社名入りの「調査中」の
腕章を手配したりして、夜の8時過ぎに事業所を出ました。
帰宅途中の、大阪梅田の繁華街のパチンコ屋が営業中で、パチンコに興ずる満員の状況を見て、
戦争状態の職場や現場とのギャップに戸惑いました。
非常事態なのに、大阪市内の繁華街は平和ボケ状態でした。
4.マンション調査
腕章も出来上がり、西宮から芦屋方面のマンションを中心に被害状況などを抽出調査しました。
事前の資料では6階建てとなっていたのに行くと5階建てでした。
なんと、1階部分が総崩れで、ぺしゃんこになって、低くなっていたのです。
また、損傷がないと思って入ったマンションの共用廊下を歩いているうちに気分が悪くなりました。
建物が傾いており、平衡感覚が乱れてしまったのでした。
5.現地応援派遣
地震災害の復旧のために、人事部から応援者の割り当てが来ました。
商品開発部門は業務的に至急対応しなければならない一部を除いて、
当面、自由が利くので、割り当て以上に人員を供出することを部長に提言し、
了解をもらいましたが、あとで、苦労することになりました。
現場は、一度受け入れると、それで組織化するので、交代要員も同数出せとのこと。
当面は対応できるがいつまでもというわけにはいかず、途中で人員を引き上げるのに苦労しました。
6.シャワーカー
現地ではお風呂に入れない人たちが多くおり、商品開発部門らしく応援できることとして
長尺2トントラックの荷台に、4台分のシャワーブースを組み、給湯器とプロパンガスを積んで、
水は現地の避難所から補給するようにして、イベント装飾会社さんに手配し、製作しました。
完成したのが1月30日で、試運転確認後、西宮今津まで私が運転していきました。
取りあえず、朝まで今津の体育館で宿泊して朝を待ちました。
めちゃくちゃ冷え込んで、布団を2枚重ねても寒くて眠ることができず、
被災し、避難所で生活されている方々のご苦労が身に沁みました。
31日に芦屋の小学校で記念すべき第1号シャワーを提供しました。
百貨店に手配して、タオル、石鹸、替えの下着などを準備しましたが、下着類は他の支援で、
十分間に合っていました。
利用いただいた被災者の皆さまから喜びの声を聴いて、胸が熱くなりました。
7.振り返り
冒頭に書いたように、関西では地震など起きるとは想像すらしてなかったです。
9月1日の関東大震災の記念日に地震訓練をしていましたが、いい加減なものでした。
当時は、大卒の新入社員は現場配属が基本で、現場では宿直、日直で、お客さまとの電話対応、
現場出動による作業の手伝い、他部署の先輩同僚とのコミュニケーションを通じて、
幅広い業務知識を会得し、現場力が身についていたと思います。
そのような基礎体力があったので、突発事態に対して、マニュアルなどなくても、
各自が今何をしなければならないかの判断を肌感覚でできたと思います。
ところが、今や日食宿直も外注化で対応するようになり、新入社員研修での体験も少なく、
本社部門へのいきなり配属なども行われるようになり、個々の社員の現場力が弱くなっていると思います。
さらに、IT化が進み、個人主義が強まり、マニュアル化がすすみ、感性が鈍くなるとともに、
派遣社員化、外注化が進みました。
社員の気概や責任感、仕事の誇りなど、底力が弱くなってしまったのではないかと心配します。
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[阪神・淡路大震災から26年] 映像でたどる 6,434人の命を奪った大災害 _ NHK - YouTube 2:38
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阪神・淡路大震災から26年 地震の特徴と被害を解説 - YouTube 20:13
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神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 震災文庫 】
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テレビでは伝えられなかったこと災害映像アーカイブに:朝日新聞デジタル
【参考】
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あれから20年、阪神大震災の1月17日 - KOfyの「倍行く」人生(2015年)
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あれから15年、阪神大震災 - KOfyの「倍行く」人生(2010年)
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あれから15年、阪神淡路大震災 - KOfyの「倍行く」人生(2010年)
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ヒューマンノート ~震災から16年~「500人のゴスペルコンサート」2011年 - KOfyの「倍行く」人生
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阪神淡路大震災と東北関東大震災(東日本大震災)の違い - KOfyの「倍行く」人生 2011年3月17日
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あれから9年、東日本大震災 - KOfyの「倍行く」人生 2020年3月9日
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2018年6月18日の大阪北部地震 - KOfyの「倍行く」人生