融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「従うことが誰でもできた」

2016年02月04日 | 聖書のお話

「従うことが誰でもできた」 マタイによる福音書 4章18~25節

 イエスさまは、福音宣教を開始され、まず4人の漁師を弟子にしました。4人の漁師は、持ち物の網や舟や父親までもその場に残してすぐにイエスさまに従って行きました。見ようによっては、全てを捨ててイエスさまに従ったかのようですが、実際は家族もいたし、家に帰ったり、漁の手伝いをすることもあったのではないかと思います。そうすると、物語の中心は、「全てを捨てて従った」という弟子たちの思いにあるのではなく、「イエスさまが招かれた」というイエスさまの思いにあるのではないでしょうか。

 イエスさまが弟子たちを招かれた後、実際に行われた宣教の様子について記されています。イエスさまは、ガリラヤ中を回り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、イエスさまの教えに共感した民衆と呼ばれる人々の、ありとあらゆる病や患いを癒やされました。そのうち、四方から病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り憑かれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてくる人も現れ、それらの人々も皆癒やされました。彼らは、群衆と呼ばれる大勢の人々となり、イエスさまに従いました。

 イエスさまが、社会で弱い立場の者とされていた漁師に声を掛け、弟子にしたということは、大きな意味があるのではないかと思います。また、福音を宣べ伝える中で、信じた人が一人二人と増えて民衆となり、彼らの病が癒やされて、そんな民衆に共感して信じた人たちが病気の人を連れてきて、彼らの病も癒やされたということは、共感が共鳴を呼び起こし、響き合って伝わって行く様子を感じます。「福音宣教」とは、何も敷居の高い難しいことではなく、従うことが誰でもできる易しいものであると教えられているように思います。

 


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目が覚めて立ち上がる

2016年02月04日 | 日記

 キリスト教で、「福音」という言葉があります。「良い知らせ」、「良い知らせを告げる者」、「良い知らせを告げる者がやって来る時の足音」という幅広い意味で受け止めることができると思います。

 「良い知らせ」は、それ自体で尊いものですが、それを伝え「告げる者」の存在がなくてはなりません。また、「良い知らせを告げる者」の働きによって「福音」が認知されるようになったら、「良い知らせを告げる者がやって来る時の足音」さえ意味を持つようになるのではないかと思います。

 ですから、私は、福音を紹介することは勿論のこと、一歩進んで紹介する者としてドカドカと足音を立てながら歩いて行くことが大切ではないかと思っています。ドカドカという足音は、福音によって目が覚めて、立ち上がった者としての存在を示すということです。

 聖書を読んで、目が覚めたという人もいると思います。それよりも多いのは、聖書を読んで目が覚めた人を見て、自分も目が覚めた、というのではないでしょうか。人が変わるということは、大きなインパクトがあります。いままで悪の限りを尽くしてきた人が真人間になったとしたら、多くの人は驚くのではないでしょうか。たとえば、「パウロの回心」という出来事は、目が覚めた人の典型的な姿ではないかと思います。

 人に何かを伝えたいと思ったら、伝えたいものの内容を吟味して示すということは勿論のこと、その内容に加えて、目が覚めた「人」の姿を伝えることができたとしたら、それによって、もっと多くの人たちが目を覚ますことができるようになるだろうと思います。そして、目が覚めた人が多ければ多いほど、その地域や社会は変わることができるのではないかとも思います。

 最近、政治のことをブログに書いたりすることが多いのですが、その理由は「3.11」以降、自分の生き方を改めなければならないと強く思わされたことが一番の理由ですが、自分が多少なり目が覚めた者としての姿を示すことによって、もしかしたら多くの人たちが目を覚ますことにつながるのではないかと思ったからです。目を覚ました人が多ければ、世の中が変わる可能性があると思うからです。

 自分の反省も含めてですが、自分に利害が及ばなければ、何事も他人事で済まそうとする人が多いのではないでしょうか。けれども、そんな考えでいたら、やがて取り返しのつかないことになってしまうのではないかと思います。そうならないためには、寝ている状態から、まず目を覚ますことではないかと思います。

 一人ひとりが、目を覚まし、他人事ではなく自分のこととして考え、答えを持ったというのなら、たとえ答えが一人ひとり違っていても、尊重されるようになるのではないでしょうか。諦めてしまい、投げやりになって、何事も他人事を決め込んで、寝ているような有様が、残念な状況を生み出しているように思えてなりません。

 それで、「福音」についてよく考えてみたら、自分が福音によって目が覚めて、立ち上がった者として、人を立ち上がらすことができる「良い知らせ」を、ドカドカという足音を鳴らしながら歩き伝えるということであったと再認識させられました。正に、目が覚めた。だから、色々な意味で、寝ている人たち、寝させられている人たちが目覚めるためには、多少なりとも目覚めた者として、恥ずかしながらでもドカドカ足音をいわせながら、色々と気づかされたことなど伝えることが大切なのではないかと思い、現在このようにしているところです。

 

 


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