「従うことが誰でもできた」 マタイによる福音書 4章18~25節
イエスさまは、福音宣教を開始され、まず4人の漁師を弟子にしました。4人の漁師は、持ち物の網や舟や父親までもその場に残してすぐにイエスさまに従って行きました。見ようによっては、全てを捨ててイエスさまに従ったかのようですが、実際は家族もいたし、家に帰ったり、漁の手伝いをすることもあったのではないかと思います。そうすると、物語の中心は、「全てを捨てて従った」という弟子たちの思いにあるのではなく、「イエスさまが招かれた」というイエスさまの思いにあるのではないでしょうか。
イエスさまが弟子たちを招かれた後、実際に行われた宣教の様子について記されています。イエスさまは、ガリラヤ中を回り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、イエスさまの教えに共感した民衆と呼ばれる人々の、ありとあらゆる病や患いを癒やされました。そのうち、四方から病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り憑かれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてくる人も現れ、それらの人々も皆癒やされました。彼らは、群衆と呼ばれる大勢の人々となり、イエスさまに従いました。
イエスさまが、社会で弱い立場の者とされていた漁師に声を掛け、弟子にしたということは、大きな意味があるのではないかと思います。また、福音を宣べ伝える中で、信じた人が一人二人と増えて民衆となり、彼らの病が癒やされて、そんな民衆に共感して信じた人たちが病気の人を連れてきて、彼らの病も癒やされたということは、共感が共鳴を呼び起こし、響き合って伝わって行く様子を感じます。「福音宣教」とは、何も敷居の高い難しいことではなく、従うことが誰でもできる易しいものであると教えられているように思います。