本日、2月11日、但馬地区2.11信教の自由を守る集いに出席しました。集会では、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」と「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」を読み比べる形で、あの戦時下において「日本基督教団は何をしたのか、しなかったのか」という観点で、小林先生から導入としてお話をお聞きし、その後、参加者で雑談的に意見や感想を述べ合いました。お互いの声を聞き合い、参考にしながら、自分が生きる上で何をするのか、しないのかが大切なこととして教えられたように思います。
ふと、憲法第一条が頭に浮かびました。この憲法は、象徴天皇制をおくということと、その地位は、主権者たる国民が決めるということです。
第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
それは、アメリカが戦後の日本を統治しやすいように天皇を利用するために作ったという言い方ができると思います。憲法前と、憲法後では、まったく別物の天皇制という意味です。
なぜそんなことが頭に浮かんだのかというと、最近、「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」(小学館)という、きれいな写真の多い本を読んだからです。この本の、一部分のみ紹介したいと思います。ご興味のある方は、ぜひご自分で買って読んでください。
(以下、引用始め)
美智子皇后が傘寿の誕生日に出した「お言葉」に、次の部分があります。
「私は、いまも終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いたときの強い恐怖を忘れることができません。まだ中学生で、戦争から敗戦にいたる事情や経緯につき、知るところは少なく、したがってそのときの感情は、戦犯個人個人への憎しみなどであろうはずはなく、おそらくは国と国民という、個人を超えたところのものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」
なぜ美智子皇后は、おめでたいはずの傘寿の誕生日に、このことにあえてふれなければならなかったのか。おそらくは、その直後に明仁皇太子が味わった自分とは比べものにならないほどの恐怖、1歳年上の、やはり中学生だった皇太子が味わった正真正銘の恐怖と衝撃に、遠く思いをはせてのことだったのでしょう。その重荷をおふたりで半世紀以上にわたって、ひそかに共有されてきたのだと思います。
当時14歳だった正田美智子さんがラジオで聞いて「強い恐怖」を感じたA級戦犯への判決は、昭和23年(1948年)11月12日に言い渡されています。そのとき絞首刑を宣告された7人が、実際に処刑されたのは翌月の12月23日。その日は明仁皇太子の15歳の誕生日だったのです。
もちろんそれは偶然ではありません。なぜなら裁判の始まり、つまり東京裁判でA級戦犯たちが起訴されたのは、その2年8ヶ月前の昭和21年(1946年)4月29日、昭和天皇の誕生日だったからです。そこには、あきらかに占領軍のメッセージがこめられていました。「この裁判と処刑が何を意味するのか、天皇とその後継者である皇太子は、絶対に忘れてはならない」
(以上、引用終わり)
戦後、占領軍の統治の手段として象徴天皇制が始まり、まだ中学生だった皇太子が味わった恐怖は、その意味を考えてみると深いものがあるように思います。そんな明仁天皇は、戦争で傷ついた人たちを訪ねる、慰霊の旅をされていることは周知のことと思います。沖縄を訪ねたとき、ひめゆりの塔の前で火炎瓶を投げつけられるという事件もありました。
そんな明仁天皇が、沖縄に思いを寄せて作った琉歌が紹介されています。
(以下、引用始め)
花ゆうしゃぎゆん(花を捧げます)
人知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ねらぬ世ゆ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)
(以上、引用終わり)
本を読むと、沖縄の歴史も合わせて学ぶことができます。火炎瓶のことなども、著者の思いを交えながら書かれています。立場に関係なく、ぜひ続きを読んで欲しいと思います。
ごくごく一断面的なことであると思いますが、この本を通して明仁天皇の思いが伝えられていますが、今、明仁天皇は沖縄の辺野古で繰り広げられている出来事を見て、きっと心を痛めておられるのではないかと思います。