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新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「不信仰な人は幸いだった」

2016年02月13日 | 聖書のお話

「不信仰な人は幸いだった」 マタイによる福音書 5章1~12節

 イエスさまは、大勢の群衆を見て、山に登られ、「山上の説教」を始められました。マタイによる福音書は、「(旧約)聖書の言葉(預言)が実現した」という言葉が多く使われています。そうすると、モーセがイエスさまで、イスラエルの民が大勢の群衆で、モーセシナイ山で神さまから与えられた十戒が、イエスさまの山上の説教であるように連想させられるような気がします。

 イエスさまは、まず「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」と教えられました。大勢の群衆は、社会の中で貧しい人たちでもありました。孤児や母子家庭だったり、身体に障がいや病気を持っている人が多くいました。それは、自分たちの努力が足りなかったからではなく、彼らを貧しくした社会があったということです。さらに、信仰的にも天の国に入ることができない、罪人同様であると言われていました。「心の貧しい人々」とは、単に経済的に貧しい人々という意味ではなく、貧しさによって心までも貧しくさせられた人たち、信仰心を持つことさえ不当に奪われた人たちのことではないかと思います。つまり、多くの富める人々から「不信仰な人々」と呼ばれ、天の国への道さえ通せんぼされ、まるで奴隷のように扱われていた人たちなのです。イエスさまは、そんな「不信仰な人たち」と呼ばれていた群衆に向かって、まるでモーセがイスラエルの民に十戒を指し示したように、「あなた方は幸いだ。天の国はあなたたちのものである。」と宣言されました。

 モーセの十戒は、奴隷であった人々に、神の民として生きるための道を示しました。同じように、イエスさまの愛の教えは、現実の社会において貧しくさせられ、不信仰にさせられてしまった人たちに生きる道を示しています。

 

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