「本気かどうか問われていた」 ルカによる福音書 9章57~62節
イエスさまの一行が、道を進んで行ったときのことが記されてます。イエスさまの歩まれた道は、弱い立場の人々、すなわち「罪人」と呼ばれ、神の国から遠い者とされている人々を見つけ出し、その罪を赦し、罪の無い者とし、神の国へと招くこと、そのような神の国の福音を宣べ伝える考えを持って歩むホドス(道)でした。
その道すがらで、イエスさまの弟子になろうとしている人が「いとまごい」を願いました。しかし、イエスさまは、彼らの「いとまごい」を認めませんでした。あの預言者エリヤですら、エリシャを弟子に招いたとき、エリシャが願う「いとまごい」を快く認めました。人間的な情を考えたとき、両親や友人たちにお別れを言う時間は欲しいと思いますし、「いとまごい」の時間は一つのけじめとして意味があると思われます。けれども、イエスさまは、父親の葬儀に出席するという当時の慣習でさえ、それを認めませんでした。イエスさまは、「死人に死人を葬らせなさい」と言われました。この言葉は、あまりにも無情であるように思われます。
イエスさまは、弟子になろうとしている人に対して、この世の慣習に囚われない、属さない、神の国の福音を宣べ伝える考えを持って歩みなさいと教えているのではないでしょうか。この世の慣習に囚われない、属さない、神の国の福音を宣べ伝える考えを持って歩み出す覚悟はあるのか、どうか、本気で弟子になろうとしているのかどか、そのことが問われているのではないでしょうか。人間の教えを捨て、イエスさまの教えに従って、生まれかわってホドス(道)を歩む決意があるのか、どうか、そのことが問われているのではないかと思います。
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