「迫害者から宣教者になった」 使徒言行録 9章19節b~31節
迫害を受けるということは、それだけ迫害する側も必死だということです。同じユダヤ人として、律法を大切にし、アイデンティティーを守ってきたのですから、それを命がけで守ろうとして、ユダヤ人キリスト者を殺害することもやむを得ない覚悟で迫害するというのも理解できるような気がします。サウロは、迫害者から宣教者になった人です。その変わり様は、誰もが驚くほどでした。しかし、サウロは、宣教者となった自分を迫害するユダヤ人を、かつて自分がやったように殺害もやむを得ない覚悟で反撃したりはしませんでした。迫害者から宣教者へと回心したほど大切な思いを守るためには、必死の覚悟で反撃するという選択肢もあったはずなのに、そうはしませんでした。
考えてみれば、ステファノも、自分を迫害するユダヤ人たちに向かって、反撃はおろか抵抗もしませんでした。彼は、ユダヤ人たちに殺されるとき、「主よ、彼らに罪を負わせないでください」と叫びました。それは、イエスさまが十字架で叫ばれた言葉と同じ言葉でした。ステファノは、イエスさまの十字架の痛みに寄り添う人であったと思います。
大切なことは、イエスさまの十字架の痛み、苦しみに寄り添い、救いの喜びを共にできる信仰者は、他者の痛み、苦しみに寄り添い、喜びも共にできるということです。迫害をする者の痛み、苦しみを理解して寄り添い、それが同じ神さまに対する深い敬虔の思いから出たことであると理解できたからこそ、ユダヤ人からの迫害という暴力に対して、同じように暴力でやり返すのではなく、争いを避ける道を選ぼうという思いが与えられたでのはないかと思います。争い合うだけが道ではないことを忘れない者でありたいと思います。