融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

山本太郎8/25「総理との一騎打ち 」【全19分】

2015年08月27日 | 日記

 過去に行ったことを検証し、将来、行おうとしていることに生かすということ、これのどこがおかしいことなのでしょうか。しごく、まっとうな意見ではないかと思います。裏を返せば、それだけ国会ではマトモな議論も成り立たないくらいだということでしょうか。

 仮に検証などして、米軍の行ったことが戦争犯罪になってしまうと都合が悪いから、検証などしないというのなら、もう初めっから国際法など守る気などないということを言っているようなものですね。言葉には表さないだけで、愚劣な考えだと思います。

 

山本太郎8/25「総理との一騎打ち 」【全19分】


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「争うだけしかできなかった」

2015年08月27日 | 聖書のお話

「争うだけしかできなかった」 創世記 4章1~16節

 宗教の世界では、偉くなればなるほど善悪の判断を偉い人がするようになるものではないでしょうか。かつて、神の民であるイスラエルの王国では、指導者が善悪の判断を自らの判断で下し、様々な内政・外交政策の間違いを犯した結果、王国を滅亡へと導き、バビロン捕囚の憂き目に遭ったと言えるのではないかと思います。創世記には、「善悪の木の実」を食べると、人は善悪の判断を自ら下すようになることが記されています。問題は、人が善悪の判断を下すとき、本当に正しい判断ができるのか、もしかすると他人を裁くことでしかなかったり、他人と争うことでしかないものではないかということを、いつも心の内に忘れないようにしておくことが求められているのではないでしょうか。

 カインは、礼拝の場で信仰が問われました。つまり、神さまが弟である「アベルとその捧げ物に目を留められ」、「カインとその捧げ物に目を留められなかった」ことに怒りを覚えました。その結果、カインは、弟のアベルを殺してしまうという暴挙に出ました。これもまた、善悪の判断を自らの判断によって下した結果ではないでしょうか。善悪の判断を自ら下した結果、神さまから目を留められた人を殺し、自らは罪を重ねてしまうばかりというのが、人間の現実・限界というものなのかもしれません。たとえ、善悪を知り尽くすほどの高い知識を得ることができたとしても、争うだけしかできない存在が私たちではないかと思います。バビロン捕囚の脈絡で考えたとき、善悪の判断を自ら下してしまった結果、バビロンで捕囚の身になっているということではないでしょうか。その反省に立つなら、いかなる場合であっても、神さまの判断を待つ忍耐と、神さまの判断に委ねる謙遜こそが信仰ではないかと思わされます。

 


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豆州楽市に行ってみた

2015年08月27日 | 日記

 さぁ、死ぬまでの仕事を一つ済ませての帰り道、豆州楽市に寄ってみました。私の風貌が、かなりアレだったのか、そのおかげでお店の人と会話ができて良かったです。商品について、女性の方から色々と親切に教えてもらったのですが、商品の知識を事前に知っていたこともあり、どういう素性がバレバレです。(笑)

 それで、そばとか、うどんとか、缶詰とか、Tシャツとか・・・荷物のスペースと予算の範囲内で買い物をしました。本当は、わさびとか、もっと買いたかったのですが、今回は仕方ありません。それと、帆船Ami号のTシャツ、ありがとうございました。生憎、店長さんは不在でした。色々と学べることもあったと思いますが、もしお目にかかれたとしたなら、死ぬまでの仕事が、もう一つ済んでしまうことになりますので、また今後の楽しみにしたいと思います。

 買い物も終わり、お金を払ってさぁ帰ろうとすると、雨が降り出していることに気がつきました。それで、荷物を詰めたり、雨具を着たりで、出発に手間取ってしまいましたが、お店の若い男性の方がずっと見ていてくださり、恐縮でした。若い人たちが、生き生きと働いている姿を見ていると、何だか元気をもらった気分です。感謝。

 

 


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星野先生とお会いできました

2015年08月27日 | 日記

 週の初め、朝早く出発して、その日の夜に星野先生とお会いすることができました。ずいぶんとご無沙汰してしまい、私が死ぬ前に一度はお会いして、農伝時代にお世話になったこと、不義理であったこと、その他、感謝や懺悔など、少しばかりでもお伝えできればと思っていました。普段から、ぼんやりと、そんなことを思っていましたが、虫の知らせなのか何なのか、出かけることにしました。

 霊によって、いや例によって、アポなしでお訪ねしました。お会いできるか、できないか、それは神さまにお委ねしているからです。神さまが会わせてくださるなら、お会いできるだろうし、お会いできなかったとしたら、神さまが会わせてくださらなかったということだと思っていました。結果的に、神さまの許しがあり、お会いすることが叶いました。しかし、それは私の理屈で、先生の方はというと、付属施設で建築の打ち合わせが長時間あり、翌日は付属施設の朝礼拝があるということで、まったく迷惑な来訪者だったことと思います。しかし、先生の方も、数日前にお客さんとの会話の中で私の名前があがり、「どうしているのかな」と思い出されたということでした。不思議だなぁと思わされました。

 お会いして思ったのは、お互いに歳を取ったということは勿論ですが、25年ほど前とまったく同じように牧師館に迎えてくださり、食事を共にしてくださり、話をしてくださったということです。思い起こすと、神学校の教師というのは、学生に与えるばかりで大変だったと思います。方や、学生は、受けるばかりで、何も与えることなどできる存在ではなかったように思います。今、そんなことも考えることができるようになって、心の中で改めて感謝するばかりで、頭が下がります。先生は、私の在学中、農伝の農場を担当しておられ、講義も担当されていました。そこで、牛を飼うことなど、少し教えてもらいました。私は、先生の農村伝道の神学や、農村伝道の経験から、今でも農伝になくてはならない先生、ミスター農伝、ザ・農伝であると思っています。

 そんな星野先生も、数年後には隠退を考えておられるご様子でした。先生が働き始めた時代は、きっと色々な夢を持ち、挑戦し、創り出して行こうという気風に満ちた時代ではなかったかと想像します。ご夫婦で二人三脚しながら、苦労をも喜びとして、伝道に燃え、努力した分の評価を得ることができた歩みではなかったかと思います。それは、先生の著書を見れば分かります。特に、「湖畔の小さな教会」という小さな本が好きです。そして、隠退を控えている今も、松崎の町でなくてはならない施設を生み出した教会の牧師さんとして、変わらない評価を得ておられるご様子でした。私が卒業してから20年も経っていますが、先生の姿は年相応なれど、魂はまったく変わっていませんでした。

 消費が美徳とされる時代があり、今、若い牧師と呼ばれる世代の人たちは、そんな時代に育った人が多いのではないかと思います。消費が美徳とは、言い替えれば、より良いものを求めるために、使い捨てをするということです。星野先生は、牧師が短期間で教会を転任すると、地域に根ざした良い働き、じっくりと育てるということができないのではないかと嘆いておられました。私に対する指導の意味もあったのではないかと思っています。それは、その通りだと思います。かなり乱暴な言い方をすれば、教会の使い捨て、また、牧師の使い捨てという現象は、より良いものを求めるというと、何だか聞こえが良いのですが、牧師も信徒も教会も時代の影響を少しは受けていたことではないのかなと思っています。

 これからの時代、これまで良かれと思っていたものを否定し、色々なものが崩れ去ってしまう時代になろうとしているように思います。希望に燃えて創り出そうという気風に満ちた時代があり、消費は美徳と考え、少しでも良いものを追い求めようとした時代があり、そしてこれからの時代は、追い求めて来たものが否定され、負の遺産を担わなければならないという、難しい時代に変わろうとしているのではないかと思わされます。これからの時代の若者は、何と大変なことか、「祝福あれ」と祈らざるを得ません。

 いずれにしても、どのような時代であっても、そこで生きる主権は自らにあるという思いをもって、神さまのお守りと祝福を魂の内に感じながら、姿形は変われども、明るく楽しく歩むことが大切なのではないかと考えさせられます。先生には、その変わらない魂をもって神学校時代と同じように教えられ、励まされました。感謝いたします。先生ご夫妻のご健康と祝福をお祈り申し上げます。

 

 


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