平和聖日の礼拝後、この日に礼拝に出席された方と、御飯を食べながらお話をする機会が与えられました。
色々なことをお聞きできたのですが、その中で特に心に響いたのが、今、安保法制に反対の意思を表している若者が、各地でデモを行っていることについて、その方は、若者が自分たちの意思によって行動していることを、私は見守りたい、というようなことを言われました。
未来は、若者のためにあるので、未来をどのように切り開いていくのかについては、若者たちの考えや意思が尊重されて当たり前だと思います。そのことを見守れない大人では、あまりにも狭量ではないかと思わされます。
お年寄りが、若者たちの将来について考え、高いところから口を出すようにレールを敷いたとしても、与えられたレールしか歩めないような人間が、どういう人間かということについて、分からないお年寄りはいないはずだと思います。
どのような結論であっても、将来のことは、まず若者たちの判断に耳を傾けることが必要ではないかと思います。将来のことを判断するには、歴史を含めて様々なことを勉強する必要もあるかと思います。何を勉強する必要があるのかも含めて、若者たち自ら気がついて学ぶことでなければ、意味がありません。教えられることの中には、間違いがあるからです。その上で、若者たち自らが下した判断を見守るという、そんな度量の深さがお年寄りと呼ばれる人たちに、あってもよいのではないか、そんなことを思わされました。