明日6月7日(日)は、主日礼拝です。新型コロナウイルス感染防止のために、4月19日(日)から5月31日(日)まで、それぞれの自宅で礼拝を守ることになっていましたが、明日から再開することになりました。都合、7回の自宅礼拝になりました。
その間、礼拝堂では私一人で普段と同じように礼拝を守っていました。所謂、無観客試合という感じで、最初は戸惑いを覚えたりもしました。けれども、そのような礼拝を7回もしていると、様々な余計な考えがなくなり、純粋に神さまだけを見上げて礼拝できるようになりました。それは、普段、人の目を気にしたりと、礼拝に関係ないことに随分と囚われていたことに気づかされ、反省させられる良い機会となりました。
明日は、少し緊張して迎えることになろうかと思っています。それぞれは、この経験を通して様々な感じ方ができたのではないかと思います。そして、神さまの支えと励ましによって、一人ひとりの信仰が更に強められたと信じます。礼拝堂で礼拝ができないのが残念だなんて、消極的な受け止め方だと思います。この経験を感謝し、新たな思いをもって教会の皆さんと歩み始めたいと願っています。
午前9時からの教会学校については、お休みを続けます。10時30分からは礼拝が始まります。メッセージの題は「愛によって従う」、賛美歌は「すべての人に」、「来たれ、聖霊よ」です。また、教会暦では先週の5月31日がペンテコステでしたが、明日の礼拝をペンテコステとして守り、聖餐式も行います。礼拝後は、祈りの一時、お茶の一時、6月の定例役員会を行います。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。
しばらくは新型コロナウイルスを意識しての生活スタイルを取らざるを得ないと思います。消毒やマスクによる予防の習慣や、聖餐式のやり方についても工夫するようにしています。
「イエスは道、真理、命」 ヨハネによる福音書 14章1~14節
イエスさんは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。これは、三つの違った表現が究極的にはイエスさんと同一であると教えられているのではないかと思います。それは、「父・子・聖霊」という三つの違った表現が、究極的には一つであるとする「三位一体」に通じるものであるように思います。
イエスさんが「道」であるとは、それが最初の入り口という意味で、それから「真理」や「命」にも導かれることが教えられているように思います。また、そのことを一つの神さまの三つの現れ方を表現する「三位一体」という言葉に重ね合わせてみると、イエスさんが「道」であり、聖霊が「真理」であり、神さまが「命」であると連想することもできると思います。
キリスト教のキリスト教たるゆえんは、イエスさんを道とするところから始まるということではないかと思います。人間イエスさんから教えを学び、その教えに従うためにイエスさんと共に葛藤し、更にイエスさんの教えに耳を傾け、イエスさんに何でも願い求めること、それが地上の生涯を営む私たちの信仰生活の具体的なイメージとして示されているように思います。
「生きた水が川となる」 ヨハネによる福音書 7章32~39節
祭りに来ていた人たちは、イエスさんがどこの出身であるか知っていました。そのために、救い主とはどこから来るのか誰も知らないはずなのだから、イエスさんは救い主ではないと考えました。彼らにとって、イエスさんの出身がイエスさんの価値を決める判断材料となっていました。それに対して、イエスさんは、「あなたたちは、わたしがどこの出身が知っている。だが、わたしをお遣わしになった方を知らない。」と言いました。イエスさんは、出身によって救い主かどうかを判断するばかりで、救い主を遣わされる神さまの御心に思いを寄せようとしない信仰の姿勢を問われました。
祭りが最も盛大に祝われる日に、イエスさんは大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。イエスさんは、盛大な祭りの影で、実は多くの人たちが信仰に飢え乾いている現実をご存じでした。多くの人たちが持っている信仰とは、見かけの盛大さや、人の出身ばかりに目を留めるものでした。けれども、イエスさんは、神さまの生きた水である聖霊を受け、人が互いに助け励まし、愛し合って生きることが本当の信仰であると教えられました。