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東海大相模33年ぶりの夏
東海大相模、33年ぶりの夏=連覇狙う中京大中京も―高校野球地方大会(時事通信) - goo ニュース
昨日行われた全国高校野球選手権の神奈川県予選の決勝で東海大
相模が横浜に勝って33年ぶりの夏の甲子園出場を決めた。
前回の夏は77年。
原辰徳・津末英明・村中秀人らが抜けた翌年に神奈川県予選の決勝で
横浜商の粘りに手こずりながらも1-0で勝って4年連続出場を決め、甲子
園では初戦で栃木の宇都宮学園と対戦。
‘強い相模’のイメージが相手エースの見形仁一に満塁HRを打たれるなど
0-10の惨敗を喫したのは衝撃だった。
何せ両校のネームバリューやチームカラーからいけば10-0は相模の勝ち
というイメージだったからだ。
私が東海大相模の最初に名前を聞いたのは74年夏。
小5だった私は前年 江川卓を擁した作新学院と地元の柳川商との死闘
から高校野球に魅せられ、真剣に見始めた最初の夏の大会だった。
初戦で豪腕・工藤一良を擁する土浦日大と対戦し1-2とリードされた9回裏
2アウトランナーなしで出塁すると、盗塁して2アウト2塁から杉山のタイムリー
で追いつき延長16回にサヨナラ勝ちしたのだ。
そして何よりもベスト8では鹿児島実と対戦し2-3とリードされて迎えた9回
裏に1年生だった原辰徳のヒットから追いつき延長戦へ。
14回に1点勝ち越されたものの、その裏に再び同点に追いつく。
結局15回に押し出しで勝ち越され定岡正二から抑えられて4-5で敗れた
ものの‘東海大相模強し’を印象付けたものだった。
更に翌75年春はベスト8で沖縄の豊見城相手に9回裏2アウトランナーなし
から4番・津末英明の2ベースから4連打で奇跡の逆転勝ち。
9回2アウトまで2年生の赤嶺賢勇から完璧に抑えらていただけに、相模の
勝負強さには感嘆した。
それで相模の野球に興味を持って見ていたが原辰徳の父親・原貢氏は
水分補給を推奨するなど科学的な練習をするし、複数投手制を敷いたり
スクイズを極力しないなど当時の高校野球の常識を覆す革新的な戦い方を
していたのだ。
そういう意味でも私にとって野球を見方に凄い影響を与えた最初のチーム
だったので77年夏に宇都宮学園に0-10の大敗をした時は驚いたし、それが
トラウマになったわけではないだろうが春は92年に準優勝し2000年には優勝
しているにも拘わらず夏には出られなくなったのが不思議で仕方なかった。
‘神奈川を制する者は全国を制す’とはドカベンで使われた言葉だが、それ
だけ神奈川県はレベルが高いという事だろう。
それを裏付けるような東海大相模の夏ブランクだと思う。
選抜では優勝候補筆頭と言われながら初戦で敗れた東海大相模が33年
の眠りから覚めて どういう戦いをするか大いに注目したい。
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東海大相模が'77年以降、夏の甲子園に出られなくなった原因には、'80年夏の県大会での「試合中の監督による選手殴打事件」による出場辞退とその影響が大きかったと記憶しています。
当時、神奈川県在住でしたのでよく覚えていますが、TVK(テレビ神奈川)の試合中継中に、原貢監督の後任者が送りバント失敗(だったと思う)でベンチに帰って来た選手にビンタを喰らわすシーンがモロに放映されてしまい、視聴者、とりわけライバル校(この年は横浜・愛甲、横浜商・宮城、鶴見工・青木など好投手を擁する有力校が多く、東海大相模も有力校の一つだった)関係者からの抗議が殺到し、東海大相模はこの試合に勝ちながら次の試合から出場辞退せざるを得なくなり、その後数年間有力選手が集まりにくくなって成績が低迷してしまった事がありました。
それから復活するまでに約10年ほどかかった訳で、一つの不祥事が与える影響が如何に大きい物となるのか、の顕著な例であろうと思います。
ありましたね、覚えてますよそれ。
当時私も現役でしたので。
当時の監督は三池工が優勝した時のキャッチャーの
穴○氏でした。
かなりコワモテの方で、なぜ知っているかといえば
後に福岡に戻って東海大五の監督で85年に選抜に出場しています。
そして90福岡国体の時には世話係をしていたので
強烈な印象を持ちましたよ。
沖縄水産も92年の不祥事で弱体化しましたからね。
ホント不祥事による出場停止は恐ろしいですね。