「あほリズム」
(159)
異性を好きになるために理由は要らない。それは本能によるから
だ。逆に言うと、理由のある愛とは理性から生まれる愛である。そ
れは何らかの計らいから生まれる。例えば、親子の愛は本能から生
まれ如何なることがあってもその愛は変わらない。本来、愛とは理
由の要らない感情なのだ。ところが、われわれは理性を重んじる余
り愛にまで理由を求める。こうしてわれわれは本能による愛を見失
い理性に適った愛、つまり、理性に偽られた愛を求めるようになる。
私はそれを「偽愛」と呼ぶ。「偽愛」は決して惜しみなく与えよう
とはしない。従って、愛を巡って取り引きが始まる。
(160)
今や資本主義社会は情報化が進み、恋愛さえも市場で取引される。
まるでネット通販で品物を買うように、相手のプロフィールが詳細
に載ったカタログから、自分の条件に見合った相手を需給バランス
に則って、それでも掘り出し物を物色しようと色めき立つ。つまり、
「きっかけくらいはネットが作ってやるわ」と言うのだ。やがて、
彼らはメデタく気に入った相手を探し出して交際が始まる。申し分
のない相手に巡り合えて良かったと幸福を噛み締めることもあるの
かもしれない。ところがだ、社会的には何一つ申し分のない相手で
あるにも拘らず、まったく愛情が沸き上がってこないのだ。しかし
それもその筈だ、あなたたちは自らの本能からではなく社会的判断
から相手と「取引」したのではなかったか。それにしても、社会性とは
本能を忌避する意識であるというのを知らなかったのか。それでも、
彼らは世間が羨む、ただそれだけのために幸せなカップルを演じる。
(161)
ニーチェは「我々は愛する人にさえも欲情する」と言ったが、恋愛
は繋がりを持たない者同士が出会うことから始まるので、初めから
繋がっている親子の愛情の様には行かない。しかし、男女の間には
強い連帯を生む性交が用意されているではないか。そこでは精神が
物質に還元されて愛が生成される。ところで、精神とは本能から生み
出される。しかし、社会が高度化すると感情的になることは諌められ
本能は矯められて、われわれの本能は次第に退化し始めている。実
は、われわれは精神なき時代を生きているのだ。つまり、われわれが
いくら性交を重ねても愛(精神)は生成されない。