「常ならざること」③
精神は本能と理性から生成されるとすれば、それは明かに個人に
属する観念だと言える。本能とは個人からしか生まれないのだから。
つまり、社会がいかに個人に対して統一された精神を強要しても本
能は個々に異なっているのだから一様な社会精神などというものは
生まれてこない。愛社精神や愛国精神を強いるのは精神の個性を無
視した乱暴なやり方である。「愛さなければならない」とは理性が
本能に強いる言葉であるが、理性に強いられてもわれわれの本能は
勃起しない。それは本能を捨てて理性的に恋愛をするようなもので
ある。つまり、偽りの愛を強いることになる。理性が作った秩序の
破綻を精神で弥縫(びほう)することなどできないのだ。
たとえば、芸能人やタレントという人気を当てにする人々は自ら
の思いを捨てて大衆の期待に応変に演じようとする。そうしなけれ
ば「売れない」からだが、やがて、個人的な思いと社会性との葛藤
に苦しむ。もちろん、それは芸能人に限らず政治家だって企業経営
者だって同じことだが、ただ、売り物が自分の個性であることにお
いて際立っている。だから、彼らは人気を得るために自分の感情を
圧し殺しても社会に受け入れられようとする。しかし、そもそも個
々の生き方が在って社会の合意が生まれるのであって、社会に合わ
せて自分自身を作るのは倒錯している。自分の生き方は自分自身の
中からしか見つからないのだ。社会の中で自分の生き方をいくら探
しても見つからない。そこで先人に倣って生きようとするが、先人
に倣っても自分自身を喪失していては表象を追うばかりで精神は根
付かない。こうして彼らは迷いながら社会に合わせて自分自身を応
変させ、遂には人格が破綻して人格障害へと陥る。
女優の藤原紀香と芸人の陣内智則が結婚を発表した時には驚いた。
藤原紀香という女優は社会依存の強い女性で、一方の陣内智則は尾
崎豊に憬れて芸能界に入った男性である。尾崎豊と言えば社会の束
縛を嫌い本能のままに自由に生きようとした。自分自身を生きるこ
とが目的であり社会とはそのための手段に過ぎなかった。しかし、
藤原紀香といえば群衆に囲まれてみんなの注目を一身に浴びていな
いと一刻も耐えられないほどの自己顕示の強い人のように思えた。
(違っていたらゴメンナサイ) その対極に居る二人が上手く行くわけ
がないと思っていたが、それは陣内智則が彼女の自意識に嫌気がさ
すと思ったからで、だって尾崎豊に憬れてんだよ、しかし、巷間で
はそうは伝えられていないようだ。ただ、離婚の原因は彼の行動に
あったというのを聞いて、やはり私の思いは間違いではなかったと
思った。普通、そんな状況で男は他の女に手を出したりはしない。
まして相手の女性だって彼が何者であるか充分承知している筈であ
る。彼の方から動いたことに注意すると、彼は彼女の今後のために
ワザと自分を悪者にしてその原因を用意したのではないだろうか?
彼女は社会を遠ざけて今さら二人の世界に戻ることなどできなかっ
た。すでに彼女の中で社会から注目されることが目的化してしまい
彼女自身もその手段にすぎなかった。すると、個人的な生活でさえ
社会を意識するようになり、やがて、精神の拠り所を社会に求め、
社会への精神的な依存から抜けられなくなり、遂には、社会的自我
が個人的自我に取って代わり、社会の中でしか生きられなくなって
しまった。つまり、彼女は好きな男と寝るよりも大衆と寝る方を選んだ。
(つづく)