「議論なき対立」
原発の推進、廃止の議論にしても、またTPP参加を巡る議論に
しても、それぞれが意見の異なる者を締め出して集まっていくら気
炎を吐いても、それに反対する者は一切耳を貸そうとはしない。そ
んな虚しい蛸壺集会が憲法を巡る護憲改憲論議以来この国に根付い
てしまったようだが、果たして壁を隔てた議論からいったい何が生
まれるのだろうか?更に、それぞれの集まりで使われる情報でさえ
それぞれの都合のいいデータが集められ、データでさえ共有されな
いで賛成反対の意見を述べているのだ。放射能汚染の人体の許容量
など推進派と反対派でこんなにも数値が違うのかと思った。それぞ
れが議論を戦わす前にまずはその叩き台となるデータの統一を図る
べきではないだろうか。そして、心情に偏る総論ではなく各論につ
いて順次意見をディベートさせていく。そういう手順を踏んだ討論
が何故行われないのだろうか?「朝生」のような討論ショーは対立
が鮮明になっても何一つ問題解決へ歩み寄らないことは明白ではな
いか。会話にしろ議論にしろまずは相手の意見を正しく訊くことか
ら始まる。そして、考えは人が生み出すものであるから議論をする
人は何よりも自由に考える場が与えられなければならない。つまり、
それぞれが身を委ねている蛸壺を抜け出してそれを叩き壊す覚悟
を持たなければならない。蛸壺組織の利害に操られて「言わされて
いる」限り確執を解いて協調することはできない。否、利害に固執
するから議論を避けているのだ。議論とは、意見を同じくする者同
志が意見を確かめ合うことではない。意見の異なる者同志が互いの
意見を論じ合うことである。合意とはどちらか一方の頭の中にあるの
ではなくそれぞれの頭上にあるのだ。つまり、対立する者の意見を
しっかりと聴かなければならない。そうでなければ、われわれは真面
な議論を討わさずに決定を強いられることになる。結果、蛸壺組織
の言われるままに従わざるを得なくなる。しかし、如何なる組織にそ
の身を委ねていたとしても、飽くまでも意見は個人に委ねられている
のだ。
にほんブログ村