「常ならざること」②

2011-10-29 20:33:21 | 従って、本来の「ブログ」

               「常ならざること」②


 精神とは、本能から生まれる情熱と理性がもたらす正義によって

生成されるとすれば、われわれは明らかに本能の退化による情熱の

欠如によって精神を衰えさせている。何も精神などを持ち出さなく

ても卑近な例を上げれば、若者の恋愛に於いてさえも欠けているの

は情熱である。つまり、本能である。今や彼等は理性によって恋愛

対象を選ぶが、そもそも恋愛とは本能的な結び付きなのだ。理性に

従って結ばれても愛が芽生えるとは限らない。むしろ、理性が情熱

を封じ込め二人の世界は失われ、やがて社会の中で二人の絆を確か

めようとして社会との関係を求めようとする。そしてこう言うのだ、

「私は社会が認めた人しか愛せない」と。しかし、それは倒錯した

精神だ。本能による愛とは如何なる条件も求めない。われわれは恋

愛でさえ情熱によらない社会的な、従って理性が仕切る恋愛を求め

ている。しかし、情熱のない恋愛は愛を生まない。何故なら、われわ

れの本能は打算(理性)を嫌うからだ。つまり、われわれは本来の恋

愛を避けて、恋愛を社会的な手段として利用しようとしているだけな

のだ。かつては、そんなものを恋愛とは言わなかった。理性が後悔す

るかもしれないような恋愛を愛とは呼ばなかったのだ。                                 

 

                                   (つづく)


 

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

 「常ならざること」

2011-10-29 13:21:15 | 従って、本来の「ブログ」

          「常ならざること」

 

 人間は誰しも程度の差こそあれ精神病に罹っている、と精神病の

医師は看做すらしいが、たとえば、神経質な娘の行動を叱ってすぐ

に暴力に訴える父親とそれを咎めもせず見て見ぬ振りをして平静を

装う母親、のように誰しも人の常ならざる言動には眼は向くが、こ

と自分のことに関しては省みようとはしない。もちろん、自身の全

てを客観を頼って矯正して、その結果、自分自身が失われて「自分

は価値のない人間だ」と言って自殺する者もまた別の意味で精神を

病んでいると言われる。それでは、そもそも健全な精神とは果たし

てどのようなものをいうのか。これこそが健全な精神であると精神

衛生局なりの掲示板に掲げられ、国民が挙(こぞ)ってそれに倣うよ

うな事態さえもまた異常な姿に受け止められるとすれば、精神って

いったい何?って言いたくなる。

 近代文明は常なる自然を破壊して機械文明をもたらした。常なら

ざる言動をする人を精神異常者と呼ぶならば、常ならざる世界を望

んだ人々によって築かれたこの文明を、精神を病んだ文明と言って

も差支えないのではないだろうか。だから、われわれがいくら自然

な精神状態を取り戻したとしても、それこそが病んだ精神と捉えら

れてしまう。つまり、われわれの精神が病んでいるのではなく、社

会そのものが病んでいるのだ。


                                  (つづく)


 

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村