「自分自身のための覚書」⑧

2011-10-21 12:36:22 | 従って、本来の「ブログ」

 


            「自分自身のための覚書」


                    ⑧


 これまでの日本社会は、経済人の優れた経営能力によって政治家

の無能を経済で補ってきたと言われてきたが、ここに至ってそうばか

り言えないニュースが続いている。所謂、創業者の跡を継いだ二代

目三代目の社長による馬鹿げた不祥事が相次いでいる。彼らは何と

しても業績を伸ばさなければならない使命を受けているので、という

のは設備投資やブランド力は先代の苦労によって築かれているから

で、逆風の中、功績を焦るあまり社会的な立場を見失い、じり貧に耐

えられなくなって粉飾や偽装に走らざるをえないのかもしれないが、そ

れが世間に知れると詭弁を繰り返して、さらにそれが不信を生む結果

になっている。もちろん、そんなことは食品偽装問題や脱税などバブ

ル崩壊以降何度も起こってはいるが、それにしても東電を始めとす

る原発を巡る電力会社や官庁の嘘っぱち会見や、さらには大王製紙

のバカ息子による使い込みがあったり、オリンパスの就任したばか

りの外人社長の交代劇など、何れも日本を代表する大企業の中で、

これまでなら信じられなかった経営陣によるドタバタ劇が起こってい

る。もしかすると報道されているのは氷山の一角で、多くの会社の

役員室で夜な夜な怪しい話し合いが続いているのかもしれない。

優秀と持て囃された日本の経済人さえもただ社名を守るためだけに

汲々として、政治家と肩を並べるまでに堕落したのかもしれない。

そうなれば、いよいよ日本再生は遠退くばかりで、遂に頼みの綱も

細ってしまったなあと、経営者としての社会的責任を露も口にしな

い自分勝手な言動を聴くと経済人のモラルも地に落ちたもんだと

情けなくなってしまう。

 あのー、 大丈夫ですか?日本。ギリシャみたいにならない?

 

 「国の借金、1000兆円突破へ=復興債発行で-11年度末見込み」

                               (時事ドットコム)

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「自分自身のための覚書」⑦

2011-10-21 10:32:12 | 従って、本来の「ブログ」

 

             「自分自身のための覚書」

 

                     ⑦

 

 人間は本能と理性に従って生きている。一般に、本能は欲望や感

情など自分自身を生かせるためにあり、理性はそれらをコントロー

ルして共生社会との整合性を図ろうとする。本能は個人的であり理

性は社会的である。つまり、

「本能>アプリオリ>感覚>個人的>欲望>感情>自由>いま」

であるのに対して、

「理性>アプリテリオリ>記憶>社会的>秩序>計算>あした」

と、異論があるでしょうが、もちろんそれらは互いに干渉し合って

いる。われわれの意志や情熱や正義感などはそれらが干渉し合うこ

とによって生まれる。さて、われわれが本能だけに従って生きてい

るのであれば、恐らく、われわれの社会は原始時代とそれほど変わ

らないままだったに違いない。そこでは、個人の欲望が優先され、

当然、社会は秩序を失って混乱し、社会は発展せず利益は個人に還

元されなくなり、やがて個人は社会を見棄てる。個人の利益は社会

の利益との循環によってもたらされる。つまり、社会の豊かさが個

人の豊かさをもたらし、個人の豊かさが再び社会に還元される循環

が個人を社会へと誘う。何れもそれらは理性のはたらきによる社会

の仕組みである。ところが、社会の中に個人の本能が忍び込みその

公正さが失われると、忽ち個人は社会を信用しなくなって社会の仕

組みは崩壊する。

 ところで、社会化が進みわれわれが社会の中でしか生きられなく

なると、われわれの本能にまで理性が忍び込んで社会への服従を強

いるようになる。社会という檻の中では本能による個人の欲望は矯

められ、社会との共感から生まれる歓びがそれに取って代わる。こ

うしてわれわれは社会という鏡を通して歓びを知り、個人的な本能

による生きる歓びは失われる。「私の幸福は社会が認める幸福でな

ければならない」それは理性に唆(そそのか)された幸福である。つ

まり、社会の中での相対的な幸福である。何故ならもっと幸福な者

が現れた途端に色褪せるからだ。本能的な歓びとは個人的な歓びで

あり、だから絶対的な歓びである。何もわざわざ社会に共感を求め

たりはしない。

 

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