「ボーダー」

2012-03-04 23:53:45 | 境界性パーソナル障害(BPD)



                  「ボーダー」 



 子供の頃、テレビの中で活躍するヒーローたちは危機に追い込ま

れると決まって「変身」をして超能力を使い困っている人々を窮地

から救った。ざっと思い返しても「スーパーマン」「月光仮面」「

七色仮面」「ウルトラマン」そして「仮面ライダー」などなど、何

れも悪党を退治するために仮面を着けて変身し正義の敵を倒した。

子供とは成長することが第一義で、成長とは「変身」願望以外の何

ものでもないので当然強い憧れを抱いた。成長とは自らの境界(ボー

ダー)を乗り越えることで可能性を拡げる。ところが、「変身」をす

れば超能力を得て困難を逃れることが出来るのはテレビの中だけの

話であって、実際に困難に直面すると人格を変身させて逃れようと

するのは分裂症という人格障害の精神疾患である。

 かつて、民主党は政治を主権者国民の手に取り戻そうと訴えて国

民の支持を得て政権を任されたが、すると、途端に掌を返すように

公約を反古にして、反対していたはずの消費増税を行なおうとして

いる。民主党を一個の人間と看做せば、言うことと行なうことが一

貫しない二重人格者のように見える。彼らの中には相容れない二つ

の人格が在り、都合が悪くなれば別の人格が現れて話を逸らし責任

を逃れようとする。しかし、一個の人間であれば、何れそんな者は

誰からも信用されなくなるだろう。ただ、これは一つの無責任な政

党の言動に留まるだけなら未だしも、政権政党の無責任な「変身」

は何れ社会全体に影響を及ぼし、誰もが言ったことの責任を取ら

ない信用できない社会に堕落する恐れすらある。

 実際、これは何も民主党だけに限ったことではなさそうだ。最近、

我々の社会では到る所でこの人格の使い分けを目の当たりにするこ

とがある。恐らく、情報化社会によって社会的自我が増幅し、もは

や、我々は社会の中の自分以外考えられなくなり、その場その時の

状況に合わせて器用に人格を使い分け上手く世間を泳ぐことは決し

て悪いことではないという風潮が蔓延っている。ところが、整合性

が伴わない矛盾や偽善に嫌悪感を催すはずの個人的自我は、社会的

自我の台頭とは裏腹にすでに退化してしまい、自らの言動を省みる

ことさえ出来なくなってしまった。彼らが口にする「ポジティブな

生き方」とは競争社会の中で如何に自己を棄てて生きるかに尽きる。

「幸福」とは社会的幸福のことであり、それは自分が認める幸福ではなく、

他人が認めた幸福でなければならない。


                                  (つづく)   
    
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 「私という舟」(改)

2012-03-04 21:07:55 | 「存在とは何だ?」



            「私という舟」(改)


 「私」という自意識は私という肉体に宿っている。「私」が「私

は生きている」と言う時、実は生きているのは「私」という自意識

ではなく「私」とは不可分の私の肉体である。「私」が宿る私の肉

体とは謂わば死の海を漂う小舟のようなものだ。私という生命は死

の世界から萌え出て死の海を漂いながら、そして死へと還る「私」

の乗り物なのだ。「私」という自意識は漂流する小舟の中で芽生え

その中でしか存在できない。その小舟は「私」が生まれる前に岸を

離れてしまった。だから、「私」はこの小舟の中で生きること以外

の選択の余地はなかった。岸を離れた小舟は後戻りできないのだ。

そして「私」はその小舟と不可分であるが故に、乗り換えることも

途中で降りることもできない。

 私という存在を「ザイン」、そして、私に「斯くあるべし」と命

じる「私」という自意識を「ゾレン」とすると、「ゾレン」は「ザ

イン」から派生した。つまり、「ゾレン」とは「ザイン」にとって

より良く生きるための手段であった。だから、「ゾレン」が「ザイ

ン」に対して「何のために生きているのか」と問うのは、「ザイン」

の手段であったはずの「ゾレン」が、「ザイン」を支配しようとす

る転倒した思考である。つまり、「何のために生きているのか」と

問うのは、目的と手段を倒錯させた問いなのだ。私の存在は何かの

手段なんかではない。ただ、「ゾレン」は「ザイン」に対して「生

きるために何を為すべきか」としか問えない。自殺とは、「ゾレン」

が理性によって「ザイン」を貶めようとする行為である。「私」と

いう自意識にとって私という存在は「不可解」であり、「在るべき

か在るべきでないか」の選択さえも与えられていない。だから、決

して間違っちゃいけない、私という存在は「私」という自己意識を

乗せた小舟なんかでは決してなく、「私」という自意識は、私とい

う小舟を動かすための漕ぎ手であり、私という存在を生かすための

手段なのだということを。

 やがて、「私」とい自意識を宿した小舟は長い漂流を終えて彼岸

へ辿り着く。かつて、「私」という自意識が生まれる前に小舟が岸

を離れたように、「私」という自意識が消え去った後に漂流を終え

る。

「おお、生きることこそが私の目的だったのか。『私』という自意

識はそのための手段に過ぎなかったのだ」

 
               

               「もう消したくないよー」 ケケロ脱走兵




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