「ボーダー」⑧
前にも記しましたが、メンタルヘルスの専門医は、全ての成人は
多かれ少なかれ何らかの精神疾患を抱えていると診るのだそうです。
ということは、「健全な精神」などというものはないのです。幼少
時に何らかの精神的苦痛を受けて人格形成が阻害されて「人間にな
り」、「自分自身」が確立できないまま生きていくことは辛いこと
です。「自分自身」がないのですから。だからと言って、他者に縋
っても、他者は「自分自身」ではありません。例えば神仏に縋るこ
とによって更に「自分自身」を空しくすることにならないだろうか。
あなたは手段として生まれて来たのではないのですよ。目的とし
て生きるべきです。人格障害の人は自己と向き合えないので過
去の記憶を消し去ろうとする。しかし、そこには自分が拠るべき
原点があって、それがトラウマに阻まれて回帰することができない。
たとえば、交通事故に遭って大きな身体的障害を受けた人は、そ
れまでの生き方を大きく変えざるを得ません。それは多分人格さえ
も変えてしまうことでしょう。事故後の自分はそれまでのようには
生活できなくなり、人の援けにも縋らなければならない。そんな生
活から「精神の自立」は遠ざかって行くかもしれません。事故に遭
う前の自分と、事故に遭った時の自分と、事故後の今の自分と、彼
はいったいどうすれば「自己同一性」を失わずに生きることが出来
るでしょうか?事故に遭う前の健全な自分が本当の自分だと思って
生きて行けるでしょうか。それとも、事故に遭った不運を悔やみな
がら生きて行けるでしょうか。今在る自分を受け入れて生きていく
しかないではないか。つまり、過去の「自分自身」を棄てて、新し
い「自分自身」を育むこと以外できないのではないだろうか。身体
の自由は取り戻せなくても、幸いなことにアイデンティティーは失
われていないのだから、新しい「精神の自立」は取り戻せるに違い
ない。
それでは、それを反転させて、幼少時に大きな精神的苦痛を受け
てトラウマとなり自己形成ができずに「自己同一性」が確立されな
かった人はどうすればいいのだろうか。彼らも同じように過去の精
神的苦痛やトラウマを抱えて生きていくことはストレスである。だ
から、忌まわしい過去を忘れて日常を生きようとする。しかし、そ
の日常生活の中で思い通りにならなくなると幼児期の感情が蘇
えってきて自己抑制することが出来ずに突然キレる。そして一転
して、見棄てられることの不安から、異常な嫉妬心、強い執着、
幼稚な甘え、それらは激しい感情を伴って爆発する。何よりも、
まずは本人がそのことに気付かなければならない。そうでなければ
「変!」と感じた他人は遠ざかる。いい加減なことことは言えないが、
トラウマから逃げていてはきっと何時までも同じことを繰り返すだろ
う。トラウマと「飽きるほど」向き合い、何が衝動的な感情を引き起こ
すのか、その原因を分析して自己認識し、コントロールの方法を自ら
思い付くこと。そして、決して「自分自身」を見失わずに、他者(宗教も
含む)に依存しないこと。間違ったってどうってことはないのだから自
分を信じることを怖れないこと。一番大事なことは、それらは孤独な
仕事だから、決して孤独を恐れないこと。辛くなったら立ち止まって考
え込まずに外を歩き回って考えること。最後に「これは理性の仕事だ
ぞ」と自分に言い聞かせること。こうして私は「自分自身」を取り戻す
ことが出来ました。つまり、「自分自身」を取り戻すのに、自分以外の
ものを信じたり、自分を忘れたりしないこと。心は病んでいても、幸い
なことに身体の自由は失われていないのだから、自らの身体感覚を
拠り所にして「自己同一性」を取り戻せるに違いない。
(つづく)
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「ボーダー」⑦
途中になりましたがお断りしておきますが、私は、メンタルヘル
スの専門医でもありませんし、心理学を学んだこともないド素人で
すから、どうかこのブログに記してあることを真に受けて深刻に考
え込まないで下さい。もしも、あなたに当て嵌まる症状があれば迷
わずにメンタルヘルスの専門家のカウンセリングを受けるべきです。
その前に予備知識として以下のブログを参考にするのもいいでしょ
う。斉藤学氏はメンタルヘルスの第一人者です。
さて、近代社会がもたらした個人主義は、それまでは共同生活の
中で忘れることができた虚無感も個人で解決しなくてはならなくな
った。当然のことながら、物質文明は精神、つまり宗教からの離脱
を促します。かつて、中世西洋社会では神への信仰が孤独を救って
くれたが、ニーチェが神を殺してからは、思想界には無神論が席巻
して凄まじい勢いでペシミズム(厭世観)の風が吹き荒れました。孤
独とはただ独り在ることではないのです。孤独とはペシミズムとの
戦いなのです。ペシミズムの旗を掲げて「生きることは無意味だ」
と叫びながら襲って来るのは、もう一人のあなたです。いや、あな
たの理性と言ってもいい。あなたは他者の助けを借りずに独りで立
ち向かわなければならない。孤独とはもう一人の自分との戦いなの
です。
その戦いを、生きようとする本能と無意味だと言う理性の戦いと
しましょう。この戦いが本能にとって不利なのは、本能は言葉を操
れないことです。本能は「在るべきか、在らざるべきか」などと思
考しないからです。つまり、思考こそが理性のホームグラウンドな
のです。ただ、本能が理性を駆逐することができるのは、生命その
ものだからです。生命そのものが本能のホームグラウンドなのです。
思考といえども生命に宿っています。そこでは「是非」を問う言葉そ
のものが無意味なのです。つまり、生命に「生きること」の是非を問
うこと自体が無意味なのです。生命に従いませんか?
(つづく)
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