「自分自身のための覚書」
⑨
「今は精神なき時代」と記して礑(はた)と思った。そうだ、われ
われは精神なき時代を望んでいたのではなかったかと。実際、われ
われは過去にも精神注入棒などという堅い棒を無理やり呑み込まさ
れてきたのだ。やっと敗戦によってそんなお化けが居なくなったと
思ったら、すぐにイデオロギーによる精神主義や新興宗教による精
神主義が蔓延り、今では八百万の神が犇(ひし)めく神国には、様々
な目には見えない精神(スピリチュアル)がこの国を取り巻いている。
しかしそれならば、かくも悲惨な大震災を予言する霊言なり神託が
何故告げられなかったのか?大地震が来るぞと言って触れ回る霊能
師が何故現れなかったのか?他人の明日を占うことよりも容易(たや
す)いはずではないか。たとえば、震災前まで世間からは異常者扱い
されて、そのお告げに従った者たちだけが被害を未然に防ぐことが
できて、震災後にその能力を怖れられている霊能者が居たならば、
私はその霊能者なら信用しても構わないが、そうでなければ、カタ
ストロフィーすら予言できない霊能者が、それには一切触れようと
もせず白々しく他人の運不運を騙るのは、誑惑(きょうわく)の謗(
そし)りを免(まぬが)れないではないか。
さて、精神などと些(いささ)か時代掛かったものを博物館の奥に
仕舞い込まれた柳行李の封印を切って持ち出すつもりも、また畏れ
多くも朝堂に額ずき拝して御簾奥より詔(みことのり)を賜りて、遍
く(あまね)く津々浦々に知らしめるつもりもないので、精神などと
いう大仰な言葉ではなく社会理念と呼んでもいっこうに差し支えは
ないが、しかし精神とはいったい何を表す言葉なんだろうか?そも
そも社会とは共同体である限り何らかの社会理念がなければ共同す
る必然がない。ところが、資本主義社会とは競争原理によって成り
立ち、社会というリングでは日夜勝者と敗者が判定される。そして、
運よく勝者の栄誉を手にした者はそれまでの心情をあっさり転向し
て敗者たちを蔑(ないがしろ)にし、敗者はそんな勝者への不信を募
らせる。果たして、そのような共同体に共通の理念が生まれるのだ
ろうか。勝者と敗者が共に手を携えて社会を発展させることができ
るだろうか?勝者と敗者を分断するようなそんな卑俗なルールのこ
とを社会理念と呼べるだろうか?だから、こう言い直さなければな
らない、「今は理念なきルールだけの時代」だと。
実は、われわれの共同体は資本主義経済の下ですでに破綻してい
るのだ。所得格差が階級を作り、階級が階層化して排他的になり、
共同体の理念が忘れられ、それぞれが自分たちの既得権を守ること
しか考えなくなり、わが身の利害に関わる社会改革(ルール変更)に
は是非なく反対する。階層の違いによる足の引っ張り合いは社会を
硬直化させ相互の共感が失われ交流が途絶え、一億二千万人を乗せ
た船「日本丸」は船底の亀裂から浸水し始め、三等客室はすでに浸
かってしまい、しかしその情報は一等客室で憩う人々には届けられ
ず適切な対処が遅れ、気付いた時はに手遅れとなって沈没するだろ
う。
共感について、トーマス・マンは「ヨゼフとその兄弟たち」の中
で次のように述べている。
「他人の心の動きに対する無関心や無知は、現実に対する関係をま
ったくゆがめてしまい、人を盲目にしてしまう。アダムとエヴァの
時代からこのかた、つまり、ひとりの人間がふたりの人間になって
からこのかた、他人の身になってみようとしなかった者、他人の眼
で観ようと試みることによって自分の真の状態を知ろうとしなかっ
た者、そういう者は誰一人として生きながらえることはできなかっ
たのだ。他人の感情生活に想像力をはたらかせて、それを察知する
技術、つまり、共感というものは、自我の限界を打破するという意
味で賞賛すべきものであるばかりでなく、自己保存の欠くべからざ
る手段なのである」と。
グローバル経済によってもたらされた貧富の格差は日本だけに及
ばずアメリカを始め世界各国で問題を生みその対立は国内で起こっ
ている。グローバル経済の問題がローカル経済に回帰してきたのだ。
社会は人間が共存するために営まれるなら、少なくとも共生(シェ
ア)について無関心であってはならないはずだ。街にはホームレス
が溢れ、自殺者の数が年間三万人を超え、無縁社会が拡がっている。
もしかしてわれわれは「他人の心の動きに対して無関心や無知」に
なっていないだろうか。つまり、自分の権利ばかりを主張して「現
実に対する関係をまったくゆがめてしまい、盲目に」なっていない
だろうか。「他人の身になってみようとしなかった者、他人の眼で
観ようと試みることによって自分の真の状態を知ろうとしなかった
者、そういう者は誰一人として生きながらえることはできなかった
のだ」とまで彼は言う。 他人との共感は何よりもまず話し合うこと
から生まれる。われわれは他人と話す時、「他人の感情生活に想像
力をはたらかせて、それを察知する技術」を得る。それは「他人の
眼で観ようと試みることによって自分の真の状態を知る」ことにも
生かされるのだ。つまり、他人への共感は自省心を生み「自我の限
界を打破するために」生かされ「自己保存の欠くべからざる手段」
となる。もしも、トーマス・マンの言うことが正しければ、われわ
れは「他人の心の動きに対する無関心や無知」でいるために「自己
保存の欠くべからざる手段」を見失い、やがて我らが「日本丸」は
「誰一人として生きながらえることはできな」い事態を招くことに
ならないだろうか。
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