ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「タトゥー」

2009-05-26 22:08:58 | 芝居
 5月19日、新国立劇場小劇場で、デーア・ローアー作「タトゥー」を観た(演出:岡田利規)。
 
 舞台天井からたくさんの窓ガラスがぶら下がっている。すべて白枠。その中に茶色いテーブルや椅子、ろうそく立て、鏡、赤い花もある。
 様式は反リアリズム。セリフは抑揚なく切れ切れに発音される。
 皆、白い衣を着ている。
 時々必要に応じて家具が降ろされる。
 母の存在が重要。母はいつもマスクをしている。自称アレルギー症。犬の美容院?でパートで働いていて、「犬になりたい」が口癖。

 長女が恋人パウルと初めて出会う場面で、音楽が流れ、歌詞がディスプレイに示される。1曲目は知らない曲。「いつかいいことがある・・」みたいな歌詞。2曲目は「からたちの花」。なるほど。暗い世界に差してきた一条の光か。
 
 「閉ざされた家族」とチラシにあるが、娘たちは学校に通っているのだから決して閉ざされてなんかいない。半ば開かれているではないか。去年だったか、欧州のどこかの国で、父親が娘を地下室に監禁し、何人も子供を生ませ、母親は全く気づかなかった、というぞっとするようなおぞましい事件があったが、そういう話とは違う。長女が何歳なのか分からないが、父の彼女に対するレイプは立派な犯罪なのだから、彼女は警察にも学校にも訴えることができるはずだ。パウルは訴訟を起こす、と言うが、その前に早くやるべきことがあるのではないだろうか。それともドイツではこれは犯罪ではないのだろうか。

 学校に通って教育を受け、映画を観る自由もある長女が、なぜ自分の将来を思い描くことができず、すべてに絶望して死んだように生きているのか、そこが不可解だ。

 以前、マーティン・マクドナーの「ビューティークィーン・オブ・リーナン」を観た時(2004年11月演劇集団円公演)、この世の地獄だと思ったが、これはまた、あれをも上回る、想像を絶する暗黒世界だ。

 途中、父の胸が電気で赤く点滅し始めるのはどういう意味なのだろう。

 ラストは説得力がある。観る者に想像の余地を残しておいたのは正解だ。

 この作品は、「作者独特の詩的センスと劇的言語」が特徴らしいので、恐らく翻訳ではその斬新さや面白さがよく伝わらないのかも知れない。

 それにしてもドイツ人の心性とは・・・。未だ第二次大戦の傷が癒えていないことを感じさせられて辛い。
 1994年にロンドンで、ドイツの劇団の「ロミオとジュリエット」を観たが、奇怪で醜悪だった。
 この作品は1992年発表だという。今年3月にシンメルプフェニヒの「昔の女」を観た時にも感じたが、彼らは演劇に何を求めているのだろう。こんな芝居をいつまで書き続けるのだろう。


  
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オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

2009-05-09 15:35:11 | オペラ
 5月4日、新国立劇場オペラパレスでショスタコーヴィチ作曲のオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観た(演出:リチャード・ジョーンズ、指揮:M.シンケヴィチ)。
 ショスタコーヴィチのオペラを観るのは初めて。あらすじを読むと何とも陰惨な話だが、CDを聴くと音楽が素晴らしいので、行く気になった。

 ストーリーはシェイクスピアの「マクベス」とは何の関係もない。あちらは同じく残酷な話ではあるが、妻は夫と相思相愛、一卵性夫婦と称されるほど強い絆で結ばれているのに対し、こちらはハナからバラバラだ。

 そもそもなぜカテリーナはジノーヴィと結婚したのか。どうも貧しさから抜け出すためらしい。要するに経済的な理由からだ。しかも夫は Potenz がないらしく、5年(!)たつのに二人の間には関係がない。彼女は「せめて子供がいたら」と退屈な日々を嘆く。ではなぜこの男は彼女と結婚したのだろう。周りからの圧力があったのかも知れない。恐らく父親が、豪商の家の跡継ぎを作るよう迫ったのではないか。
 この父親ボリスの存在が大きい。
 カテリーナから見れば義父、舅に当たるボリスの死の前と後で、彼女は別人のようだ。始終小言を言われ続け、常時見張られ、息も詰まりそうな日々から解放されたのだから当然だが、それに初めての性体験が加わり、一気に人間らしく息づき始める。
 間奏の間に寝室がすっかり模様替えされる。幕を下ろさず、その過程を見せてくれるので楽しい。彼女の衣裳も dressy になり、髪型も美しくなる。
 音楽は、もちろん非常に面白い。

 意外だがユーモラスな所もある。義父が嫁の寝室の前で妄想に耽るシーン、嫁と不貞を働いた下男を、義父が鞭打ち、「声を出したら許してやる」と言いながら打ち続けるが、相手が我慢強いので自分の方が「疲れた」と休憩するシーンなど。
 舞台は、幕が上がるたびに現れる部屋が少しずつ変わって面白い。居間と台所、台所と寝室・・・という風に。

 下男でヒロインの愛人となるセルゲイは、主人夫婦の寝室で白黒テレビをつけ、ボクシングか何かを見る。彼が寝たあと、そのテレビ画面に義父の亡霊が出てきてヒロインを怯えさせる。
 夫は出張に出かけるまでは弱々しいのに、父の死を知ったのが彼にとって転機となったのか、帰宅すると妻に対して急に強く出るのは不思議だし不自然な気もするが、まあ仕方ないか。そうでないと話が先に進まないのだから。
 下男たちは何と30人位いる。すごい豪商だ。
 演出(リチャード・ジョーンズ)は水際立っている。04年に英国ロイヤルオペラで上演され、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀オペラ賞受賞、さらに07年にはミラノ・スカラ座でも上演されたプロダクションだと聞いて納得。

 カタリーナにとって世界は一変したが、しかし彼女は愛人と共に家を出て行くわけではない。そんなことをすればすぐに二人共食べていけなくなるのだろうか。豊かな暮らしに慣れてしまい、二度と貧乏には戻りたくないのかも知れない。
 しかし舅殺しはうまく行ったが夫殺しはやり過ぎだった。
 始めの成功で調子に乗ってしまったのだろう。だが夫の家で下男と結婚式だなんて、いくら何でもそんな虫のいいことができると本当に思ったのだろうか。

 斧が凶器とは、やはりロシアらしい。「罪と罰」の世界そのままだ。
 死体の首をビニール袋に入れ、その中で少しずつ血が染み出てきて・・・というのがリアルに仕組んである。個人的にはリアルな方が好きだが、あれには驚いた。
 退屈を持て余している警察署長らが、夫の首を見て一言「神のご加護だ」と言うのがたまらない。作者の皮肉はここで頂点に達する。
 
 二人はシベリア流刑となるが、セルゲイはすぐに彼女に飽き、若い女囚ソニェートカと親しくなる。彼女はいつも小袋を持ち、絶えずスナックを食べている。二人はカテリーナを騙し、その純情をあざ笑う。
 
 ラスト、カテリーナは無言でソニェートカを連れてフットライトを越え、彼女の頭を上から押さえつけて沈める仕草をしつつ二人共奈落へ沈んでゆく。声はない。ここは断末魔の叫びがほしいところだ。実際、叫ばせる演出もあるらしい。ついでに、下品なソニェートカには「何すんのよ?!」ぐらい言わせたい。
 
 この話に根っからの悪人はいない。セルゲイはただの女たらしだし、舅にしたって、嫁から見ればどうしようもなくいやな奴だが、見方を変えれば人間らしいとも言える。誰よりヒロインの、初めて愛した男に夢中になり、あっと言う間に裏切られ、ひどい仕打ちを受けても一途に慕い続ける様が哀れでならない。

 というわけで、この日は素晴らしい音楽と、貧しいロシアの一人の女の人生にどっぷり浸ることができた。


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