ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「鳥の飛ぶ高さ」

2009-06-29 21:48:11 | 芝居
 6月22日シアタートラムで、ミシェル・ヴィナヴェール原作、平田オリザ翻案の「鳥の飛ぶ高さ」を観た(演出アルノー・ムニエ)。

 1969年初演の原作「海に投げ出されて」は、登場人物が50人を超え、上演に7時間以上かかる長大な作品だというが、今回その「超々短縮版」を平田が現代日本に置き換えたという。

 筋は、日本のハイテク便器会社がフランス企業に狙われるというのが縦糸で、そこに古代日本の神話と、ルアンダ虐殺が絡む。

 原作の「ユダヤ人差別やアウシュビッツに関する描写をどう扱うか」「延々と話し合」った結果、ルアンダ虐殺に置き換えた、と平田は書いているが、フランス人にとってのユダヤ人やアウシュビッツと、日本人にとってのルアンダとでは心理的距離感がまるで違うのではないだろうか。とは言え、代わりに何に置き換えたらいいか、と考えると確かに難しい。在日かアイヌか沖縄か、そのあたりがいいのでは?大虐殺がないとダメか。時代的にも少し古過ぎるか。

 役者は両言語が上手な人も何人かいて、つまりフランス語の堪能な日本人も日本語のうまいフランス人もいて、なかなか頼もしい。この作品の上演自体、まさに国際交流、異文化交流として意味があると言えるだろう。

 挿入歌の作曲は、恩田博士役のひらたよーこだというので驚いた。この人は声もいい。曲もわりとしっかりしていて、確かな力を感じさせる。

 ところで、どうして日本語のタイトルは「鳥の飛ぶ高さ」なのだろうか?そして原題はなぜ「海に投げ出されて」なのだろうか。
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「桜姫」

2009-06-23 15:32:37 | 芝居
 6月8日シアターコクーンで、四世鶴屋南北作「桜姫東文章」を元にした現代劇「桜姫」を観た(長塚圭史脚本、串田和美演出)。
 
 冒頭、女(大竹しのぶ)と男(笹野高史)が舞台中央で真っ黒いものを焼いている。そこに大きな十字架を背中に背負った男(セルゲイ:白井晃)がやってくる。二人が焼いているのはここで心中した男女の遺体だという。
 男はトランペットを吹き(なかなかうまい)、女は太鼓を叩く。
 舞台の床に小さく四角い穴が開き、そこから人が出入りする。
 と、突如舞台奥の左右に設けた二階席が舞台中央に向かって90度回転し、こちら側(客席)に向かい合う。
 白服の記者たちに囲まれるセルゲイ。ロロジーニョ(古田新太)とルカという彼の弟子たちが現れ、貧しい人々に食べ物を配る、と言って、舞台左右の特設ベンチ最前列の人々に何か手渡すところを写真に撮らせる・・・
 
と書き出してはみたが、いやはや筋は錯綜し、とてもこの調子で書き続けるわけにはいかない。
 何より、まず鶴屋南北の原作を読んでから行くべきだった。そうすれば、台本作者長塚圭史の仕事のあとが分かって評も書き易いというものだし。
 もちろん筋を追ってあれよあれよと引っ張り回されるのもいいが。やはり何事も順番が大事だ。作品を十分楽しむためにはやり方があるのだった。
 7月には歌舞伎版を上演するというが、順番が逆だったらよかったのでは?

 大竹しのぶ、中村勘三郎、秋山菜津子、古田新太らは期待を裏切らない達者な演技を見せる。

 シアターコクーンはあまり好みではないが、大掛かりな仕掛けがあることだけは分かった。 
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オペラ「ウリッセの帰還」

2009-06-15 21:38:04 | オペラ
 6月7日、モンテヴェルディのオペラ「ウリッセの帰還」ヘンツェ版を観た(二期会、北とぴあさくらホール)。

 ヘンツェの編曲版は今回が日本初演だそうだが、そもそもイタリア語のウリッセが英語のユリシーズ、つまりギリシャ語のオデュッセウスのことだというのも今回初めて知ったくらいだから、モンテヴェルディの曲自体、私は聴いたことがなかった。

 古いオペラなのでやたらと長いが、当時の観客(聴衆)は皆、結末(ハッピーエンド)を知っていて、そこに至るまでの過程をゆったりと楽しんでいたのだろう。長さももっとずっと長かったらしいが、貴族階級の彼らにはそれでちょうどよかったのかも知れない。

 ウリッセの留守宅に押しかけ、妻に言い寄って困らせている男達は、彼の残した弓を引くことすらできない。そこに現れたウリッセは「弓とはこうして引くものだ」と言い放ち、男達を次々に射殺す。待ってました!と思わず声をかけたくなるシーンだ。この辺りの演出(高岸未朝)も洗練されていて美しい。
 
 夫の帰りを待って求婚者たちを拒否し続けるヒロイン、ペネロペは貞女の鑑だが、愛する夫がついに目の前に現れたというのに、かたくなに夫と認めない。目の前でその声を聞き、顔を見ているのに愛する人と分からない、というのは一体どういうことなのか。そう言えば「ペリクリーズ」でも、14年振りに再会した妻が証拠となる指輪を見せるシーンがある(第5幕第3場)。
 17世紀ヨーロッパの芝居の観客は、顔を見ただけでなく、本人しか知り得ないことを知っていると証言できた時、あるいは確かな物的証拠がある時、初めて本人と認めたのだろう。
 ペネロペの場合はさらに、長年求婚者たちの誘惑に負けまいと心を固く閉ざしていたために、状況の急激な変化に対応できなかった、という面もあるだろう。そのあたりの心理的葛藤は現代でも十分通じるものがあり、説得力がある。観客は皆、妻の心が溶ける瞬間を今か今かと待ち焦がれ、ついにその瞬間が訪れると、絵に描いたような大団円につい涙ぐんでしまう・・・。

 ウリッセ役の小林昭裕もペネロペ役の金子美香も、役柄にふさわしい威厳があり、声もよく、演技もよかった。 

 
 

 

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井上ひさし作「きらめく星座」

2009-06-06 22:34:58 | 芝居
 5月20日井上ひさし作「きらめく星座」を観た(こまつ座&ホリプロ公演、栗山民也演出、天王洲銀河劇場)。
 
 若い後妻役の愛華みれは、美しいし歌も芝居もうまい。しかし、彼女だけが常に明るく前向きで、何が起ころうと皆を励まし支えてゆく、という物語の単純な構図があまりにも単調で、絵空事のようだ。
 長女の夫源次郎役の相島一之も歌が結構うまい。後半は彼が主役級に重みを増してゆく。
 長女みさを役の前田亜季は少し早口過ぎる。台本から見えてくるのはエキセントリックな女性像だが、これも少々リアル感に欠ける。

 歌の入った井上ひさしの芝居、というと、警戒してしまう。昨年観た「太鼓たたいて笛ふいて」でも一昨年観た「ロマンス」でも、芝居の最中にみんなが歌い出すと、恥ずかしくていたたまれなくなって困ったからだ。宇野誠一郎の音楽は私には合わないらしい。だがこの作品では、幸いそれほど苦にならなかった。

 蓄音機の中に隠れた長男正一が飛び出してくるシーンは、往年の名画「フロント・ページ」を思い出させた。

 間借り人役の木場勝己の口を通して、作者の言いたいことが終始ダイレクトに語られる。こういうところが「井上の芝居は説教臭い」と言われる所以だろう。勿論作者の主張はいつも通りまっすぐだし、弱者の側に立つ姿勢はぶれることなく尊重に値するものではあるが、こういうやり方は芝居の面白さを半減させてしまう。

 いつ終戦になるかとずっと待っていたが、とうとう戦争は終わらなかった。だが考えてみれば、昭和20年8月15日の光景はテレビドラマなどであまりにも有名になってしまったから、改めて芝居にして見せる必要はないのかも知れない。しかし、戦争中の逸話というにしては、この芝居は長い。長過ぎる。

 ラストは尻切れトンボもいいとこだ。作者もこのままでいいか、きっと迷ったことだろう。

 
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