ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「マクベス」について Ⅱ

2022-08-31 22:39:35 | シェイクスピア論
<翻訳のこと~松岡和子訳との出会い>

5幕5場、王マクベスの元に、家来が夫人の突然の死の知らせを持って駆け込んで来る。

 シートン:お妃さまが、陛下、お亡くなりに
 マクベス:あれもいつかは死なねばならなかった。
      このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた。(小田島雄志訳)

これは私が慣れ親しんできた小田島訳だ。
高校生の頃読んでいた福田恆存訳もこれと同様。

 シートン:は、お妃様が、お亡くなりあそばして。
 マクベス:あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。(福田恆存訳)

ところが、ある公演で、今まで一度も聞いたことがない次のようなセリフが耳に入って来た。

 シートン:お妃様が、陛下、お亡くなりになりました。
 マクベス:何も今、死ななくてもいいものを。
      そんな知らせには、もっとふさわしい時があっただろうに。(松岡和子訳)

それは舞台を日本に置き換えた翻案物で、2007年4月、場所は国立能楽堂で、りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズの企画、演出は栗田芳宏、
このセリフを口にしていたのは主演の市川右近だった。



その日、私の頭の中はびっくりマークで一杯だった。
文字通り耳を疑った私は、帰宅後、急いで小田島訳を繰って確認した(当時まだ松岡訳を持っていなかった)。
思えばあれが、松岡訳との衝撃の出会いだった。

小田島訳でマクベスは、すでに妻の死を覚悟していて、理屈で自分を納得させよう、諦めようとしている。
松岡訳では、負け戦でただでさえ焦燥、憔悴している時に、かねて覚悟していたとは言え、ここまで苦楽を共にして来た唯一の同志とも言うべき妻の悲報を聞いて
打ちのめされ、ひたすら嘆いており、底知れぬ悲しみがにじみ出ている。
原文は
 She should have died hereafter.
 There would have been a time for such a word-

文法的にはどちらとも取れるが、日本語に訳すと意味が全く違ってくるので悩ましい。
この後すぐに、tomorrow speech と言われるマクベスの有名な独白が続くのである。
ちなみに、ちくま文庫には松岡氏自身の親切な解説がついていてありがたい。

この時は、まだブログ開設前だったので詳しい内容は覚えていないが、印象的だったのは、このセリフと、もう一つ。
4幕1場で、特別出演の藤間紫が演じたヘカテがゆっくりつぶやく「親指がチクチク痛い、何か悪いものがこっちへ来るよ」というセリフ。
今確認したら、このセリフは本来、魔女2が言うはずだが、この時はヘカテ役の藤間紫が言ったと記憶している。
この人の存在感が半端なく、魔界の雰囲気たっぷりでゾクゾクした。
15年も前のことなのに、その声音をはっきり覚えている。
 

<蜷川幸雄の「マクベス」>

この戯曲の後半で、主役のマクベスは暴君となり果ててしまうため、何とかしてこの残虐非道な男の暴走を止めて国の平和を取り戻さなくてはいけない、と
誰もが思うようになる。舞台上の人々も、そしてそれを見ている観客も。
そこではもはや、観客が感情移入するのはマクベスではなく、彼を成敗すべく立ち上がる高潔な王子マルカムと、王子を支えるマクダフらだ。
つまり、これまで主役だったマクベスから観客の気持ちが自然と離れてゆくように、戯曲が書かれているのだ。
だが、どうも多くの日本人にはそこが難しいようだ。
魔女たちにたぶらかされて道を誤り、滅びてゆく哀れな男、マクベス。
心優しい日本人は、この男にも「哀れさ」を感じてしまうのだ。
蜷川幸雄の演出はその典型だろう。
マクダフとの最後の一騎打ちは、蜷川が好んで使うスローモーションで、異常に長い時間をかけて見せられる。
戯曲では、セリフの応酬の後、「二人、闘いながら退場」というト書きがあるだけなのに。
アルビノーニの「アダージョ」の甘美な旋律が流れる中、桜吹雪が舞い散り、平幹二朗演じるマクベスは舞いを舞うかのように美しく死んでゆく。
すべてが美しい。
だが、彼の死をあまりに美化したために、すべてが平板になってしまった。
悪事も罪も、当人が死んでしまえばみな無かったことにされるというのだろうか?
一人の男の悲しい運命。諸行無常・・・。
いや、この戯曲は本来そういう話ではないのではなかろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スカラムーシュ・ジョーンズ」

2022-08-23 10:47:15 | 芝居
8月18日下北沢・本多劇場で、ジャスティン・ブッチャー作「スカラムーシュ・ジョーンズ」を見た(演出:鵜山仁)。



1899年12月31日、十九世紀の終わり、大晦日のカーニバルの中、美しい褐色の肌を持つ女から生まれた小さな赤ん坊は
抜けるように白く、何か特別なことのために生まれてきた子だ・・・と、つけられた名前は道化師を意味する、スカラムーシュ。
生涯で唯一我が家だといえる場所をわずか6歳で後にし、たった一日で孤児となり、奴隷となり、流浪の身となり・・・そして
これが、これから長く続く波瀾万丈な旅路へのスタートとなる。
時にその光景や匂いに恍惚とし、この世のものとは思えぬ魅力的な音楽と共に旅をした。自身の透き通るような白い肌によって
巻き込まれた数奇な運命は、恐怖と喜びに満ちていた。
そして今夜は1999年12月31日、二十世紀のどん尻でありミレニアム・イブ。
大きな花火が打ち上がる大晦日にスカラムーシュー道化師ーが己の人生を、仮面を剝がすように語り始める(チラシより)。

その初日を見た。
主人公の母は娼婦で、毎晩何人もの客を取っていた。息子の彼は、それを見ていた。自分の父親が誰なのか、どんな人なのか知りたがったが、
母は何も教えてくれなかった。ただ一度だけ「イギリス人よ」と言った。周囲の人々はみな肌が褐色なのに、自分だけ白い。彼のイギリスへの憧れはつのった。
6歳の時、母が事故死し、孤児院に入るはずが奴隷商人に売り飛ばされた。その後は蛇使いと共に路上で何年もショウをやったり、或る国のゲイの王子に
拾われて船旅をするが、迫られそうになって海に飛び込んだり、ジプシーの一団に助けられたり・・。
そのうち第2次大戦が始まり、ジプシーたちとポーランドのクラクフに行くことにするが、いろいろあって12歳の娘と結婚することになったり、
ユダヤ人と一緒にいるところをナチスに捕まり強制収容所に入れられたり、だが彼はどう見てもユダヤ人には見えないので墓掘りをさせられたり・・。
とにかくひと言で言うと「数奇な人生」。

舞台の背後に主人公の旅する国の地図を映したり、当時のニュース映像を流すなど工夫を凝らして、一人芝居の単調さを補っていた。
トム・ハンクス主演の映画「フォレスト・ガンプ~一期一会」にテイストが似ているかも。
だがその中身は、と言うと、映画と違ってあまりに表面的で内容が無い。
人間も描かれていない。
19世紀の末の大晦日に生まれて20世紀を丸々百年生きた、と言うが、だから何?と言いたい。
数字をそろえることに何か意味があるのか?
人間を描く芝居を見たい。

加藤さんがチャレンジ精神旺盛なこと、自分に自信があること、そして芝居が心底好きなことは伝わってきた。
そんな彼を応援し続けるコアなファンが大勢いることも。まあ評者もその一人だが。
この日は何だか芝居を見たような気がしなかった。
芝居の楽しさ、面白さというのは、何よりも作者の力量にかかっていると改めて思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「頭痛肩こり樋口一葉」

2022-08-15 17:27:45 | 芝居
8月9日、紀伊國屋サザンシアターで、井上ひさし作「頭痛肩こり樋口一葉」を見た(演出:栗山民也)。






激動の明治に生を受け、若くして樋口家の戸主となった一葉(本名・夏子)。
女性でありながら母・多喜と妹・邦子との暮らしを守るために小説を書いて生計をたてることを決意する。
苦悩やしがらみと向き合いながら筆を執る彼女の前に現れたのは幽霊・花蛍。
一葉と花蛍のユーモア溢れる交流を軸にした、ある時代を生きた女性6人の物語。
好景気で浮かれる上層と下層の間で、美しい文体で時代とともに生き抜いたあらゆる階級の女性たちの頂上から底までを見た一葉・・・。
24歳6ヶ月の若さでこの世を去るまで多くの名作を発表した夭折した天才女流作家の‘‘奇跡の14か月とは・・・(チラシより)。
主催者に注文あり。「女流作家」という、もはや死語に近い言葉をチラシに載せるのはやめて下さい!

これまで2回見たことがあり、2回目は栗山演出だったので今回はパスしてもよかったが、貫地谷しほりが主役の夏子をやるというので
彼女目当てで出かけた。
初回は1991年7月。サンシャイン劇場で、演出は木村光一。
夏子:原田美枝子、花蛍;新橋耐子、稲葉鑛:三田和代、樋口多喜:佐々木すみ江、樋口邦子:あめくみちこ、中野八重:風間舞子という座組。
この時、一番印象に残ったのは幽霊の花蛍を演じた新橋耐子。いっぺんで彼女のファンになってしまった。
大方の評もそうらしく、この時の彼女の演技は名演として語り継がれている。
2回目は2013年紀伊國屋サザンシアターで。栗山民也演出。
夏子:小泉今日子、樋口多喜:三田和代、花蛍:若村麻由美、稲葉鑛:愛華みれ、樋口邦子:深谷美歩、中野八重:熊谷真実。   
若村麻由美の美しい幽霊が客席を魅了し、熊谷真実の、後半の威勢のいい演技が印象的だった。

さて、今回。(ネタバレあります注意!)
前回と同じ役の若村麻由美と熊谷真実は、いずれも、変わらず達者な演技を堪能させてくれた。
母親・樋口多喜役の増子倭文江は、後半、ぐっと老けた演技が特にいい。
井上は年寄りのセリフを書くのもうまい。いかにもそれらしい。
ラストで、評者はこれまで母親に怒りを覚えていたが、今回なぜか怒りが薄らいでいて我ながら驚いた。
夏子に続いて母もあの世の人となり、次女の邦子が借金取りから逃げるために仏壇を背負って引っ越す様を見て、母は思わず声をかける。
「邦子!世間体なんてどうでもいいんだよ!」
生前、世間体ばかり気にして娘たちを縛りつけていた母のこの言葉を聞いて、そばにいた夏子たちは驚くが、さらにその後、最後に母は声を振り絞って言う。
「幸せにおなり!」
彼女が初めて母親らしい言葉をかけた瞬間だった。
こちらはもう涙が止まらない。
前々回と前回は、「遅いんだよ!娘たちが不幸になったのは全部お前が悪い!」と怒り心頭だったが。
だって彼女は貧乏なくせに見栄っ張りで、親戚や知人が訪ねて来ると、鰻重を取ってご馳走したりしていたのだ。
娘たちは内職に追われ、借金取りに怯えて暮らしていたというのに・・。
だから、今回どうしてこういう心境の変化が起こったのか、我ながらわからない。
増子倭文江の演技ゆえか、評者が年を取ったせいか。

この後、邦子はどんな人生を送ったのか。
姉の夏子は24歳で亡くなった。
母が死んだ時、邦子はいくつだったのだろう。
まだ人生は始まったばかりなのに、すでに莫大な借金を背負わされて・・。
本当に可哀想だ。
肩に背負った大きな仏壇が象徴的だ。
邦子役の瀬戸さおりは声がいい。演技もまっすぐでひたむきで好感が持てた。

夏子はと言えば、彼女も真面目で親に逆らえない「良い子」だった。
命を削って書き残した小説群。目が悪く、ひどい頭痛に悩まされ、最後は病気のため、夏でも猛烈な寒気に苦しんだ。
小学校中退。恋もしたが成就せず、辛いことばかりの人生だったように見える。
だが、この芝居を見た後で知ったことだが、彼女は短い生涯の中で、作家としても人間としても急速に成長を遂げていたらしい。
恋する人と別れることも、自ら決断したのだった。
人生は長さではないのかも知れない。
馬齢を重ねる我々凡人と違って、彼女は24年間を濃密に生きた。
与えられた才能を厳しい修行によって開花させ、命を燃焼し尽くしたのだ。
そして彼女は自分の才能を自覚していた。作家として成功もおさめ、手応えを感じていた。
作家としての令名が高まると、他の作家たちとの交流も楽しんだらしい。
この戯曲では主に辛く苦しい面が描かれているが、彼女の人生の、そういう明るい側面を最近知り、救われる思いがしている。
夏子役の貫地谷しほりは期待通り。
若さと知性があり、しかもなお因習に押しつぶされそうな辛さが伝わってくる。

これで3人の夏子を見た。
原田美枝子、小泉今日子、そして貫地谷しほり。
みなそれぞれ個性的でよかった。
今回の座組は、あるいは決定版かも知れない。
ただ、評者が見た日に、何人かがセリフをとちって言い直したりかぶったりしたのが残念。
芝居は一種の魔法なのだ、と改めてわかった。
そういうことが起こると、それまで客席にかかっていた魔法がふっと解けてしまうのだった。
もちろん少したてば、またじわじわと魔法が客席を覆うようになるけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マクベス」について

2022-08-04 16:05:12 | シェイクスピア論
① マクベス夫人は想像力がないのか

スコットランドの将軍マクベスとバンクォーは、戦場からの帰り、三人の魔女に出会う。魔女たちは、マクベスはやがてコーダーの領主を経て王になり、
バンクォーは王にはならないが子孫が王位につくだろうと予言する。そこへ王ダンカンの使者が来て、マクベスがコーダーの領主に任命されたと伝える。
予言を信じたマクベスは、王位への野心を抱き始める。マクベス夫人は夫からの手紙で予言のことを知り、国王暗殺を企む。
ダンカン王はマクベスの城であるインヴァネスを訪れる。歓待のため一足早く到着したマクベスは、ためらい悩むが妻に励まされ、ついにその夜、
王を刺殺する。マクベスは護衛の二人に罪を着せて殺し、その場を何とか取り繕う。二人の王子マルカムとドナルべインは身の危険を察知し、それぞれ
イングランドとアイルランドへ亡命する。このことにより王子たちに暗殺の嫌疑がかかり、王の近親者であるマクベスが王位につくこととなる。

魔女の予言を共に聞いたバンクォーが自分を疑い始めたのを感じたマクベスは、暗殺者を送ってバンクォーとその息子フリーアンスを殺そうとするが、
バンクォー殺害には成功したものの、フリーアンスには逃げられてしまう。その夜開かれた晩餐会でマクベスは平静を装うが、バンクォーの亡霊が
現れたため怯えて錯乱する。他の者には亡霊は見えないため夫人はその場を取り繕おうとするが、結局晩餐会はお開きとなる。
不安を感じたマクベスは、自ら魔女たちのところへ行き、未来を問う。魔女たちは3つのことを告げる。
  ①マクダフに注意せよ
  ②女から生まれた者がマクベスを倒すことはできない
  ③バーナムの森が攻めて来ない限り、マクベスは安全である
マクベスは特に②と③を聞いてすっかり安心する。
この直後にマクダフが単身イングランドに亡命したと聞き、暗殺者を送って彼の城を襲わせ、妻と幼い子供たちを殺させる。

マクベス夫人は夢遊病にかかり、うわ言で自分の犯した罪を口走るようになる。
イングランドに逃げていた王子マルカムは祖国の窮状に心を痛め、マクダフらと共に挙兵する。
マクベスは魔女の予言を信じ、マルカムたちを迎え撃つと決めるが、夫人の死を知らされ、悲嘆にくれる・・・。

吉田健一の『シェイクスピア』を読んでいたら、「マクベス夫人は想像力がないのではなく・・・」とあってギョッとした。
というのも、ヤン・コットがマクベス夫人のことを「この女は想像力がなく・・・」と書いているからだ!
てっきり吉田はコットの説に反論しているものと思ったが、その後、どうもそうじゃなさそうだ、と気がついた。
コットの『シェイクスピアは我らが同時代人』はイギリス版出版が1964年、吉田健一の『シェイクスピア』が昭和31年つまり1956年出版だった。
つまり、吉田はコットより前にこのことを書いているのだ。
それにしても、ほぼ同時期に、二人がマクベス夫人について正反対のことを書いていたというのは、実に興味深い。   
夫人の想像力に関しては、もちろんコットの説は的外れだ。
マクベス夫人にも人並みの想像力があった。
彼女は夫が力づくで国王の地位に上り詰めた後のことも、自分が王妃となった後のことも、ちゃんと想像できていた。
ただ、国王となった後、夫が良心のやましさから恐怖にかられ、次々と人を殺めていくとまでは想像していなかっただけだ。
彼がしたこと、バンクォー殺しとマクダフの家族皆殺しは、する必要のないことだった。
言わば、彼を後戻りできないところまで追い詰めてゆくために悪魔がそそのかしたとしか言いようのないことだった。

② マクベス夫人はなぜ気が狂うのか

5幕1場。真夜中にマクベス夫人は暗い宮殿内を夢遊病患者のように歩き回りながら、とりとめもないことをしゃべり続ける。
この時、彼女はすでに気が狂っているのだから、その言葉には何の意味もない、と思ってはいけない。
実は、彼女の言葉にはすべて意味がある。
特に注目すべきなのは、前後と何の関係もなく唐突に彼女の口からもれる「地獄は真っ暗だ」(Hell is murky!)という一文だ。
これこそ日夜、彼女を追いかけ苦しめている恐ろしい幻だった。
地獄は、自分が今に間違いなく落ちて行かねばならない所であり、そこから何とかしてどこかに逃れたくてもどうしても逃れることのできない刑罰であり、
顔を引きつらせ、恐怖におののく彼女から出てくる呻きのような三語なのだ。

最初のダンカン王殺しは、ためらう夫を自分が強くそそのかしてやらせたことだが、当時、主君殺しや下剋上はそれほど珍しいことではなかった。
だから彼女も、親戚であり目をかけてくれた老王を殺すことにさほど罪の意識を感じなかった。
だが、その後のバンクォー殺しとマクダフの家族皆殺しは夫が単独で突っ走ってやったことだ。
彼女がマクベスに、何を企んでいるのか尋ねると、夫は答える。
  マクベス:かわいいお前は何も知らなくていい。
       あとでよくやったと褒めてくれ。(3幕2場)

特にマクダフの妻と幼い子供たちの虐殺は決定的だったろう。そのことを聞き知って、彼女の心は平静を失っていった。
知らなかったとは言え、夫がそこまで悪に手を染めたのも、元はと言えばあの時ダンカン王を殺すのをためらった彼を彼女が責め、それでも男かとなじりさえし、
叱咤激励して実行させたことが発端なのだから。
彼女は夫の運命と自分の運命とを分けて考えることができない。
二人はどこまでも一心同体なのだ。

このシーンで、気のふれた王妃がただもうわけの分からぬことを口走る、という演出をする人や、「地獄は真っ暗だ」というセリフを笑いながら言う役者がたまにいるが、
それは見当違いも甚だしい。

映像で見ただけだが、ジュディ・デンチの演技は、この場に最もふさわしいものだった。
彼女は長い長い、異様な呻き声をあげるが、それは己の罪の重荷に押しつぶされそうだからだ。

   マクベス夫人:やってしまったことは、元には戻らない(5幕1場)

ここには果てしなく深い絶望がある。
自分のしたことをなかったことにしたい、消してしまいたいのにどうしても消し去ることができない、自分の罪から逃れたくてもこの世のどこにも
逃げ隠れするところがないとすれば、気が狂わない方がおかしいではないか。
それと言うのも、彼女の中にもやはり正義感というものがあるからだ。
彼女は自分のしたことが罪であると自覚しており、罪を犯せば罰が下るということも信じている。
それが、何か人間的な感じを我々観客に与えるので、むしろほっとさせられる。
この辺から、妻と夫の関係が逆転し、夫の方は、ますます非人間的になってゆく。
そして、この戯曲の主人公の座からも降りることになる。
このことについては、またそのうち扱うことにしよう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする