ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

井上ひさし作「母と暮らせば」

2021-07-31 10:36:09 | 芝居
7月13日紀伊國屋ホールで、井上ひさし原案、畑澤聖悟作「母と暮らせば」を見た(演出:栗山民也)。ネタバレあり注意!
広島が舞台の「父と暮らせば」、沖縄の「木の上の軍隊」に続く戦争3部作。本作の舞台は長崎。

伸子(富田靖子)は一人暮らし。長男は生後すぐに亡くなり、夫は次男・浩二(松下洸平)が2歳の時亡くなり、浩二は長崎医科大の学生だった時、45年8月9日に
被爆死。今年はその3年後。昭和23年夏。セミの鳴く声がする(原爆を扱う芝居ではセミの声は必須なのかも知れない)。
そんなある日、死んだ浩二が現れる。母は彼を見て腰を抜かすが、落ち着くと、むろん再会を喜ぶ。しばらくたってから「あんた、なんで出て来たん?」と尋ねる。
伸子は産婆(助産婦)。彼女の母も産婆だった。この町の人はみな彼女の母か彼女が取り上げた。だが、なぜか仕事のカバンを、もう一ヶ月も奥にしまったきり。
それで浩二は心配して「出て来た」らしい。
二人はこれまでのことを語り合う。浩二は被爆して死んだ日のことを、伸子はその日以来毎日、マチコという女性と一緒に彼の死体を探して歩いたことを。
マチコは彼が付き合っていた女性。婚約もしたらしい。この家の二階で、一緒に蓄音機でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴きながら、将来を語り合っていた。
今は、小学校のおなご先生になった。つい最近、同僚の男性を連れて伸子にあいさつに来た。その人は松葉杖をついており、やはり家族を原爆で亡くしていた・・・。
伸子はクリスチャン。カトリック信者らしい。
彼女が産婆の仕事を辞めたのには二つの出来事が関係していた。
一ヶ月ほど前、長崎中の助産婦が医科大の部屋に集められ、今後生まれる赤ん坊について必ず報告するよう言われた。身長、体重、異常出産(早産、死産、奇形)。
それぞれにボーナスが出る。「奇形は特に興味深いです」と言われた・・・。そう言ったのは、GHQの人だった。
そして同じ頃、市内でも被爆の影響をほとんど受けなかった地域の家に妊婦の健診に行くと、腕に紫色の斑点がある、と指摘され、産婆の仕事を断られた。
紫色の斑点は、被爆者に時に見られるもので、徐々に体中に広がり、往々にして死に至る恐ろしい印だった。
もっとも、それを理由に仕事を断るのは偏見に過ぎない。原爆症は人にうつるわけじゃないのだから。
だが伸子は自分でも、そりゃそうだ、と相手の気持ちを理解し、もう産婆の仕事はできない、と思ったのだった。

伸子「以前は一つの家に7人も8人も子供が生まれて忙しかった。クリスチャンは避妊しないから」
浩二「神は偉大だね」
伸子「神は・・・無責任だよ」
  「みなしごを引き取って親身になって育てていたシスターたちも(原爆で)亡くなった。なんであなたたちが死なんばいかんとですか、と聞くと、シスターの
   一人はにっこり笑いながら『神の摂理です』と答えた。いいや、そんなはずはなか」
  「神様なんて始めからいないんじゃないか」
浩二「そんなこと言っちゃいけないよ」
このように、伸子は神への疑問を口にする。彼女の信仰は揺らいでいる。当然のことだ。神を信じて生きている者が原爆の惨状を知ったら、それは大きな謎
として現れるわけで、どうしたってそれと神との関係を考えないわけにはいかないのだから。なぜ神はこんなことを許すのか。キリスト教では「神は愛なり」
と教えるが、果たしてそれは本当なのか。なぜこの世に悪があるのか。我々人間には到底理解できないことだが、かと言って、顔をそむけて見なかったふりを
することもできない。すぐに答えが出なくたって、疑問を持つことをやめて思考停止に陥る必要もない。
「分からないという状況に耐え、悩むことは、本来価値がある知的な能力であり、恥じることではない」(帚木蓬生による、negative capability についての解説より)。
それに、人間界の出来事と神とは必ずしも常に関連しているわけではない、と考えるとすれば、それは理神論であってキリスト教ではない。
キリスト教の神は「歴史に介入する神」なのだから。だからこのことは、昔から西洋では「リスボンの大地震論争」のように、哲学・神学上の問題となってきた。
わが国でも東日本大震災の時には、多くのクリスチャンがそのことを考えたはずだ。

役者では、富田靖子がとにかく魅力的!特に、息子と婚約者マチコとのかつての交際をからかう時の可愛らしいこと!とても他の女優には真似できないだろうと思うほど。
題材から言って重く辛いこの芝居の中で、このシーンが明るく光り輝いていた。
逆に、長く感じたのは、二人がご飯を作ったり食べたりする「ふりをする」シーン。
何しろ戦後の物のない時代ゆえ、お米もないが、浩二が「母さんの作ったおにぎりがおいしかった」と言うので、伸子が作るふりをし、浩二と共に食べるふりをする。
役者は当然、精一杯、楽しげに演じるが、見ている方は楽しくないし、全然面白くない。
そもそも芝居では、本当に食べるシーンでも実際には食べ物はなく、ふりをするだけということがよくあるわけだから、こういうやり方には無理があるのではないだろうか。
ここはぜひカットして欲しい。

長崎弁については、評者はネイティブゆえ懐かしく聴いたが、だいぶマイルドに感じた。分かり易くするためか。
そう言えば、同じ井上ひさしの「国語元年」では、奥方の話す薩摩弁が難解で、字幕が欲しいくらいだったっけ。
ただ、大人の女性である伸子が自分のことを「うち」と言うのが引っかかった。そう言うのは子供だけではないだろうか。
「うち」という語は、長崎でも自分の家のことを指すと思う。

マチコはかつて息子の婚約者だった人に過ぎないのに、二人が一貫して名前を呼び捨てにするのも引っかかった。
少なくとも母は普通「さん付け」するのではないだろうか。だから評者は途中まで、マチコのことを実の娘か嫁かと思い込んでいた。

「父と暮らせば」の娘と、この母とは、自分だけ生き残ったという点で似ているようだが、内実はだいぶ違う。
夫も子らも失い、仕事さえ失ってしまった彼女が、自分も息子のところに行きたいと願うのは当然のことだろう。
彼女の置かれた状況を想像すると、実に辛い。
だが彼女はまだ若い。たぶんまだ40代くらいだろう。物語は、思い直して未来に向かって歩き出そうとする彼女をしっかりと描く。
見ている我々も力をもらえる。いざ生きめやも、だ。








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「ウィルを待ちながら」

2021-07-19 09:57:01 | 芝居
7月5日こまばアゴラ劇場で、河合祥一郎作・演出「ウィルを待ちながら」を見た。
2018年初演。その改訂再演。田代隆秀と高山晴夫の二人芝居。
タイトルから分かるように、ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」を模しているようで、冒頭それらしいシーンが続き、イライラさせられる。
白いドクロをじっと見つめたり、暗転の後、そこにもう一人が床から首を出していたり。
ドクロを見つめるシーンは「ハムレット」から取ったと言いたいのかも知れないが、それでも全然面白くない。

落語を2つはさむが、どちらもさっぱり面白くない。素人がへたに手を出すものではないのかも。

たった90分の芝居なのに「リア王」の1シーンが3度も演じられる。4幕6場、盲いた老グロスターが、気違い乞食(松岡訳です、念のため)に身をやつした
息子エドガーに導かれてドーバー目指して歩くシーン。作者はこのシーンがよっぽど好きらしい。それは構わないが、他にもいい芝居は山のようにあるのだから、
何も3回も同じことを繰り返さなくてもいいではないか。役者が覚えるセリフをなるべく少なくしてあげたかったのか。
いや、こんなのは見せられる方もいやだが、演じる方だっていやだろう。
何しろチラシに「全40作品から名セリフを集めて1本の芝居に!」とうたっているのだ。大風呂敷もいいところではないか。期待した方がいけないのか。

役者はセリフをよく覚えたと思う。特に、途中英語の原文になったり河合訳になったりする上に、舞台下手に字幕があり、日本語のセリフをポロポロ間違えるのが、
観客に全部分かってしまうのだから、気の毒なくらいだ。こういうやり方は役者には酷だ。
ただ、見る方としては、字幕がないと、まるでお手上げなので助かる。

途中、小さなレコーダーで昔上演された「ロミオとジュリエット」を聴きながら、二人は酒を飲み鍋をつつく。いわゆる異化効果というやつだ。
それぞれ自分とシェイクスピア劇との関係、これまで、どの劇団でどんな芝居のどんな役をやってきたかを語る。
でも・・全然面白くない!

その後、舞台上方に並べられた、おびただしい数の本がバラバラと落下し、しまいには舞台を埋め尽くしてしまうが、その意味するところは不明。
しかも全然面白くない!!

作者、河合祥一郎氏は、東大で英文学を教える先生で、シェイクスピア劇の翻訳もしている。
結局私たちは、自分も一度芝居を書いてみたい、という彼の思いにつき合わされた、ということ。
昔、福田恆存作「分かってたまるか!」とかいうおぞましい芝居を見たことがある。
彼はシェイクスピア劇の名翻訳者として名を馳せ、評者も高校生の頃から大変お世話になった(と言っても直接ではないが)方だが、彼もまた、
長年シェイクスピア作品を扱ってきて、自分でも芝居を書きたくなったのだろう。そのことを思い出した。
ま、今回は、あの時ほど不愉快ではなかった。

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井上ひさし作「キネマの天地」

2021-07-13 10:33:52 | 芝居
6月22日新国立劇場小劇場で、井上ひさし作「キネマの天地」を見た(演出:小川絵梨子)。
昭和10年、築地東京劇場。日本映画界を代表する大スターの女優4人(高橋惠子、那須佐代子、鈴木杏、趣里)がやってくる。超大作の松竹蒲田特撮豪華版・喜劇映画
「諏訪峠」の打ち合わせに呼ばれたのだ。4人は自らを誇示し、鞘当てしあいながら、上演中に突然死した女優・松井チエ子のことを思い出す。
松井の夫でもある映画監督・小倉(千葉哲也)は実は犯人探しが目的で、松井の一周忌記念興業「豚草物語」の再演を提案する。万年下積み役者・尾上(佐藤誓)を
刑事役として雇い、稽古中の4人を見張らせる。果たしてこの中に犯人はいるのか・・・(チラシより)。
・・さて、この文章は、あまりよくない。突然死と言っておいて、いきなり犯人探しというから分かりにくい。何の犯罪のことを言っているか分かりますか?
実は監督は、妻が誰かに殺されたのではないかと疑っていた。だから「犯人」というのは、松井チエ子殺害の犯人という意味だ。そこをちゃんと書いてくれないと困る。

この芝居は、2011年に紀伊國屋サザンシアターで見たことがある(演出は栗山民也)。
大きな劇場だったので今回とはだいぶ違っていた。この作品には、今回のような小さな劇場がちょうどいい。
三田和代、麻実れい、秋山菜津子・・・という豪華な顔ぶれだった。
あの時と比べて今回の座組を見ると、ずいぶん若返った感がある。

4人の女優がそれぞれ登場するシーンが、それだけでおかしい。みなスター然として登場するが、上には上があるということ、格上の先輩女優が後から
次々に登場するので、彼らの態度から、女優たちの、言わば「序列」が、見ている方にもはっきり分かってしまう。

劇中劇のシーン。年長の2人は映画女優なので、自分のセリフが終わると客席に顔を向けてにこやかにほほえみ続ける。芝居とは無関係に!
「だってお客様はスターの顔を見に来ていらっしゃるのよ。見せて差し上げるのが私たちスターの仕事なのよ!」というわけだ。
舞台出身の(三女役の)女優はそれに我慢できず「リアルじゃない」と言うが、「また横文字!」と嫌がられる始末(これは時代でしょう)。

病気自慢もおかしい。長年スター女優をやっていると膀胱炎、頻尿、視力低下、等々に悩まされるが、若手女優は先輩方に比べると、まだそれほど辛くもない。
だがそれは、裏を返せば、スターとしてのキャリアが足りない、というわけ。

あらすじでもその一部が分かるが、それ以上に、この芝居は何重もの構造になっている。
どんでん返しは作者の得意とするところであり、観客を大いに楽しませてくれる。
ラストは井上ひさしの芝居には珍しく三谷幸喜風。前回(2011年)にも書いたが、ひょっとして彼は三谷を真似したのだろうか。

演出には疑問がある。第2幕の冒頭、第1幕の幕切れより何行も前からの芝居が繰り返される。そのため著しく感興がそがれる、つまり平たく言うと、しらける。
なぜそんなことをするのか。見ている方もいやだし、演じている方だっていやだろう。
そういう風にした方がいい芝居ももちろんあるが、この芝居はそうではない。幕切れのセリフが発せられた直後から第2幕を始めればいいではないか。

役者たちは期待通り、みなさん好演。
高橋惠子はエレガンスそのもの。張りのある甘い声がとにかく素晴らしい。
衣装(前田文子)も最高。4人の女優のそれぞれの個性と役柄に合っていて、特に高橋の鮮烈な青いドレスが艶やかだ。
鈴木杏のボルドー色のブラウスと黒のパンツも、那須佐代子の淡い黄色い着物も似合っている。
那須の着物姿は初めて見た。いつも翻訳劇で見ていたので。

「若草物語」のパロディが「豚草物語」(!)で、その中に出てくる「プレゼントのないクリスマス」を「お餅が一つしかないお正月」にしたり、
亡くなった女優の日記に「私はKTに殺される」と書いてあったというので、よく見ると、4人の女優の名前のイニシャルがみなKTだったり。
とにかく細部までおかしい。何度見ても、よくできた芝居です。
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蓬莱竜太作「首切り王子と愚かな女」

2021-07-02 11:54:08 | 芝居
6月15日パルコ劇場で、蓬莱竜太作「首切り王子と愚かな女」を見た(演出:蓬莱竜太)。

雪深い暗い王国ルーブ。英雄であり人格者であった先王バルが早くに没して20年。女王デン(若村麻由美)は「永久女王」としてルーブを統治していたが、
溺愛していた第一王子ナルが病に倒れてからは国のことを見なくなり、魔法使いを城に招き入れ、閉じこもるようになった。ルーブ国は統治者を失った国になっていた。
国は呪われ、民は貧しさに疲弊し、反乱の気運が高まっていく。
そこで城に呼ばれたのが第二王子トル(井上芳雄)であった。トルは幼い頃から「呪われた子」とされ城から遠ざけられていたが、反乱分子を鎮圧するために
再び城に戻される。使命に燃えたトルは、反乱分子の首を次々に落とし「首切り王子」として恐れられるようになる。
リンデンの谷に住む娘ヴィリ(伊藤沙莉)は死ぬことにした。これ以上生きる理由が見当たらなかったからだ。最果ての崖にたどり着いたヴィリが目にしたものは
白い空と黒い海と首切りの処刑であった。
首切り王子トルは死を恐れないヴィリに興味を持ち、召使いとして自分に仕えるように命令する。
城に連れられていくヴィリが耳にしたのは王子の歌であった。美しくも悲しい歌。ヴィリはトルに深く暗い孤独を見る。
こうしてヴィリは召使いとして首切り王子に仕える日々を送り始める。
そこに見たのは野心や愛憎、陰謀が渦巻く人間たちの姿であった(チラシより)。

井上芳雄と蓬莱竜太が6年ぶりのタッグで描く、ブラックで、しかし人間の真実に迫る「現代の寓話」とのこと。
その初日を見た。ネタバレあります。ご注意を!
物語はヴィリの視点から語られる。
何しろ冒頭、いきなり首切りの処刑が何人も続くので、さっぱりわけがわからず、とにかく恐ろしく殺伐とした話のようだと思っていると、次第に王国の状況が
明らかになってくる。そこには第二王子の奇妙な出生の事情が絡んでいた。
先王バル、永久女王デン、第一王子ナル、第二王子トル、娘ヴィリ、と名前がどれも王族らしくなく、手抜きっぽいが、最後にそのわけが判明する。
王子たちの名前に、実は深い意味があり、他の人たちの名前もそれに引きずられて、と言うか、それに合わせて短くなったようだ。
物語は暗く、母の愛を求めても得られないトルの悲しみが迫ってくる。

語られるセリフのセンスが相変わらず素晴らしい。
今風で、生き生きしていて、さすが蓬莱竜太、といちいち感心してしまう。
特に、この芝居の狂言回しとも言うべきヴィリの独白がいい。
またヴィリ役の伊藤沙莉という人が、その役柄にぴったりで素晴らしい。
美声ではないが、声もいい。独特な強さのある低音。
作者は彼女に宛て書きしたに違いないと思う。
評者は彼女を、この日初めて見たが、テレビによく出ているらしく、彼女目当ての観客も大勢いたようだ。
(ちなみに評者の目当ては若村麻由美さん。そして井上芳雄と太田緑ロランス)
音楽(阿部海太郎)もいい。出しゃばらず控え目だが効果的。

ただ、ヴィリが(行動も態度も声も)一貫して中性的なので、いつの間にか第二王妃になっていたという展開に、なかなかついて行けない。
トルと夜、カードをして遊んだり、釣りをしたり、馬の競技をしたりするのも、男の子同士が仲良くしているようにしか見えないし。
トルは、いつから彼女を女性として見るようになったのだろうか。ストーリーの急な飛躍に違和感がある。そこが惜しい。

ヴィリも姉リーガン(太田緑ロランス)も、自殺しようとして王子(それぞれ別の)に出会い、自殺を止められたことがきっかけで城に入る、という点が共通している。

少女ヴィリなど魅力的だが、残念ながら物語としてあちこち破綻している。
役者では、期待通り若村麻由美が好演。言わば敵役だが、だからこそ、これくらい強く毅然として、かつ魅力的でなければならない。この人は声もいい。

蓬莱竜太はこれまで家族の問題や子供同士の人間関係について、さまざまな角度から描いてきた。
地方の旧家の跡取り娘が家系を絶やさないかどうかをめぐる「まほろば」、小学校の同窓会で過去の出来事の真実が暴かれる「正しい教室」、奔放な母に振り回される
娘たちを描く「母と惑星について、および自転する女たちの記録」、久々の帰省がきっかけで、長年積み重なってきた家庭内の問題が浮き彫りになる「消えていくなら朝」、
団地に住む小学生たちの力関係、そして震災後の不穏な社会とそこにうごめく人々を描く「渦が森団地の眠れない子たち」等々。
だから今回のチラシを見た時は驚いた。突然のファンタジー化?
民を顧みない為政者に対して、虐げられてきた民衆が、ついに立ち上がり反乱を起こすという結末は、ひょっとして暗喩なのか、とも思ったが、どうも違うようだ。
ファンタジーの形を取りながらも、作者の関心は、やはり家族の問題、そして人間関係のようだ。



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