ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「ブレーメンの自由」

2014-08-24 22:51:49 | 芝居
7月4日ステージ円で、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー作「ブレーメンの自由」をみた(演劇集団円公演、演出:立川三貴)。

副題は「ゲーシェ・ゴットフリート夫人 ある市民悲劇」
主人公ゲーシェは工場経営者の妻。
まず最初に彼女のDV夫が、元気一杯だったのに突然苦しみ出し、「多臓器不全で」死ぬ。その夫との間にできた子供たちは、彼女の恋人が
うるさがっていると都合よく二人共死んでしまう。その恋人もゲーシェに飽きて別れようとすると途端に苦しみ出し、急遽牧師が呼ばれ、
ベッドの上に起き上がらせて結婚式を挙げた直後にこと切れる始末。彼女を非難した母も、無理に別の男と結婚させようとした父も、
次々に死んでしまう。
戦争から帰った兄は、家族が全員死んでおり、妹と二人きりになったことを知って驚くが、自分が店を引き継ぐと宣言し、女は家事をやって
いればいい、と言い放つ。ゲーシェは兄と一緒にじゃが芋だけの質素な食事を済ませると、お茶を飲む兄をじっと見つめる…(この辺まで
来ると、観客はもう次に何が起きるか分かるのでドキドキ)。その後も犠牲者は増えていく…。

毒入りカレー事件を思い出した。

冒頭のDV夫のシーンがあまりに恐ろしかったため、評者は、これからどうなることか、来るんじゃなかった、と後悔しかけたが、彼が死んだ
というので、えっ?そうなの?あんなに元気だったのに、でもよかったね~ゲーシェ、と単純に喜んでいたら、あれれお母さんも、子供たち
も??…!!と事の次第が分かってくる。そうなると、もう目が離せない。

時代の問題もあるが、彼女は抑圧からの解放と自立した生き方をひたすら求めていた。

映画的手法が面白い。短いシーンが続き、そのたびに状況が変わっているので、その間に起こったであろうことを観客に想像させる仕掛けに
なっている。

ヒロインは少なくとも9人は殺している。殺人は癖になる…少なくとも彼女の場合はそうだったと思う。
これは1820年頃ブレーメンで起こった実話に基づいているそうだ。彼女はブレーメンで公開処刑された最後の人物の由。
作者は彼女の事件と人生の謎を解き明かしたかったに違いない。

後味の悪さはもちろんあるが、この作品には胸に迫ってくる力と説得力がある。演出も(他と比較はできないが)好感が持てた。
観る者に考えさせる芝居。その先は観客に任されている。
一筋縄では行かない戯曲だが、円の役者たちの確かな演技には、いつもながら深い満足を味わえた。



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「リア王」

2014-08-09 22:17:20 | 芝居
6月13日あうるすぽっとで、シェイクスピア作「リア王」をみた(劇団昴公演、演出:菊池准)。

高齢のため退位を決意した古代ブリテンのリア王は三人の娘に領土を分配することを決意し、愛情深い娘に多くの恩恵を与えると宣言する。
長女ゴネリルと次女リーガンは巧みな甘言を弄して王を喜ばせるが、末娘のコーディリアは、親子の絆ゆえに愛し尊敬すると言葉少なに応える。
激怒したリアは頑なに真実に拘るコーディリアを勘当。二人の姉娘に全ての権利、財産を与え、今後自分の世話をするようにと告げる。
約束通り姉娘を頼ったリアは冷酷非情な娘たちに裏切られ、館を追われる。嵐吹きすさぶ荒野、道化一人を供にして、さまよう半狂乱のリアの
姿がある…。

何と福田恆存訳!!

中央に可動式の床。黒地に赤のマス目入り。その真ん中にまず家来が大きな剣を突き刺す。その時、効果音。
床が地図になっているつもりで、王は「ここからここまで…」と示す。

とにかく訳が古い。冒頭リアの「娘共それぞれにつかわす化粧料」というセリフには驚いた。持参金のことを昔はこんな風に言っていたのか。
評者は高校生の頃、福田訳を愛読していたが、すっかり忘れていた。こういう言葉は、初めてみる人には難しいだろう。

グロスター伯爵役はベテランの牛山茂だが、長男の謀反を聞いた時はもっと愕然としてほしい。
道化役の人(たぶん昴の重鎮)は、これまで何度か見たことがあるが、この日は早く喋ることができなかった。滑舌も悪く、聞き取りにくい。
息切れするため次のセリフがなかなか出て来ない。

あちこち省略。特に道化のセリフは大きくカット。

グロスター伯爵の庶子エドマンド役の永井誠という人が出色の出来。
ゴネリル役の一柳みるもさすがの好演。
ケント伯爵役の水野龍司は今回滑舌悪し。昨年のサルトル作「汚れた手」では(役柄のせいか)魅力的だったが…。

嵐のシーンで何と音楽が流れる!邪魔以外の何物でもない。
その他、ムード音楽のようなものをしばしば流す。

道化はとさか帽をエドガーに投げ渡す。
ブラディ・シーンの後、家来が(グロスターの目の手当のため)「卵の白身を持ってくる」と言う。こういう、現代日本では非日常的なセリフを
言う時は、もっとゆっくり言わないと観客には理解できない。
リーガンは家来オズワルドに指輪を託す。
オズワルド役の江崎泰介はなかなかの好演。
コーディリアはケントと再会すると抱き合うが、身分がはるかに違うのだから違和感がある。
最後、老いたリアがコーディリアの遺体を抱きかかえて登場すると、そこに音楽が!せっかく出かかった涙が引っ込んでしまう。

長らくシェイクスピアを上演しなかった昴が、やっと(満を持して?)、というので出かけたが、結果は…微妙だった。
シェイクスピアは言葉を楽しむもの。セリフにすべてがある。音楽はセリフの邪魔をしてはいけない。
そこに何かをつけ足したいと感じるとすれば、それは、残念だが作者の言葉の力を十分感じ取れていないということではないだろうか。
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