ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

崩れたバランス

2009-12-29 18:06:55 | 芝居
12月12日文学座アトリエで、ファルク・リヒター作「崩れたバランス」を観た(中野志朗演出)。

何組もの人々の会話が積み重なってゆく。夫と妻、父と娘と父の恋人、老人ホームにいる女性と男性職員、別れようとしているゲイのカップル、稽古中の役者たち、父の迎えを待つ少年、テレビ局?の人々、神経科の医者と患者・・・。

クリスマスイヴを控え、イヴの過ごし方を巡って人々は模索し、焦り、執拗に抗う。西洋人にとってイヴは我々の「お正月」のようなものだから、イヴを誰と過ごすかは重要な問題だ。但し、最近日本の若者たちの間ですっかり定着してしまったように、「恋人」と過ごす日では決してない。あくまでも「家族」と共にしみじみと過ごす日なのだ。それがたまたま恋人ということもあるが。

ガビー役の片淵忍は声量があり演技もうまい。
少年役の渋谷はるかも好演。この人は‘08年「ダウト」の若い尼僧役で鮮烈な印象を残した人。
台本はともかく、役者たちはさすがに水準が高い。

「でも何の意味もない」というセリフが何度も繰り返されるが、聴かされる方から見れば、それはこっちのセリフでしょ、と言いたくなる。

役者たちが稽古中に、セリフと現実の言葉とが入り混じるところは面白い。
だがセリフはどれもこれも凡庸で新鮮味に欠けるし、どのシチュエイションもありきたりで退屈だ。こういう芝居がドイツで評判をとったり、好まれているというのは本当なのだろうか。全く理解に苦しむ。

やっぱり一年の締めはアイルランドの作品の方がよかった・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクファーソン作「海をゆく者」

2009-12-24 23:26:13 | 芝居
12月8日パルコ劇場で、コナー・マクファーソン作「海をゆく者」を観た(栗山民也演出)。

幕が開くと舞台は地下にある居間。散らかってはいるが居心地のよさそうな暖色でまとめられた室内(美術:松井るみ)。中央に二階への階段、右に台所へ通じるドア。

シャーキー(平田満)、兄リチャード(吉田鋼太郎)、その友人アイヴァン(浅野和之)が次々に登場。
時はクリスマスイヴ。失明した兄の世話をするため、シャーキーは家に戻ってきたのだった。
その後、彼が忌み嫌っているニッキー(大谷亮介)、その連れロックハート氏(小日向文世)が入ってくる。
ロックハートという男の正体は誰も知らない。

小日向文世が何とも魅力的。
一人だけ、いかにも紳士然とした優雅な物腰で、周りの男達とは違う不思議な雰囲気を漂わせるのに成功している。
これは彼の当たり役になるのではないか。
シャーキーと二人だけになると彼は本性を現す。
実は彼は長いことシャーキーを探していて今夜やっと見つけたのだった。
二人はかつて刑務所で出会い、或る契約を交していた・・・。かくて普通のドラマと見えたものが一転しておとぎ話となる。

シャーキーは小さい頃からどうしようもない悪い奴で、ロックハートに目をつけられたらしい。
だがシャーキー役の平田満には残念ながら「毒」がない。だからそれほど悪い奴にはどうしても見えない。
苦労人というなら分かるが。ミスキャストと言うしかない。

ロックハートは音楽が嫌いで、音楽を聴くと身動きが取れなくなるという設定は面白いが、それってどうなのか。
かのゲーテのメフィストフェレスは確か歌ったりするが・・・。ドイツとアイルランドでは違うのだろうか。

彼は様々な力を持っている。
他人の体を借りたり、お金を自由に作ったり(?)、手を触れることなく人間を痛めつけることもできる。
だが、人間の魂を手に入れることだけは勝手にはできないらしい(そもそも手に入れてどうするのかよく知らないが)。
ちゃんと契約を結び、それを忠実に守らないと手に入れられないらしく、そこが真面目と言うか律義な感じがする。
「あちらの方」「あの方」「誰かさん」・・・彼は至高の存在をそう呼び、「あの方」が「あんた方人間ばっかり愛しておられる」とひがんでいる。

作者マクファーソンの劇の構成は緻密。栗山民也の演出も実に巧みだ。

兄は信心深く、折に触れて弟の幸せを神に祈る。彼はそばでそれを聞いている。(どんな気持ちなのだろう。)
「誰かさん」が弟の「肩を持つ」のは、この兄の取りなしの祈りあってこそだろう。

我々から見ると、兄は不潔だし子供のようにわがままだし、その兄を助けて黙々と部屋を片付けたり、嫌がりもせず世話を焼く弟の方が
ずっといい奴のように見えるので、実は弟は悪い奴で・・・と言われてもなかなかすぐにはイメージが湧かない。

弟は兄の愛に包まれている。兄も弟に甘え、細々と世話を焼いてもらっている。
二人は見たところ惨めな男所帯だが、愛によって結ばれている。
だから観終わった後こちらの心も温かくなるのだろう。

これが今年最後の芝居だったらよかったのに、と思ってしまった。
実際にはこの後私の苦手な現代ドイツの作家の芝居を一つ観る予定なので・・・。
芝居は英語圏のものに限る、と最近つくづく思う。
ただの個人的な好みだけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「ブロウチェク氏の旅行」

2009-12-15 23:54:52 | オペラ
12月6日サントリーホールで、ヤナーチェクのオペラ「ブロウチェク氏の旅行」を観た(セミ・ステージ形式、東京交響楽団定期、M.オタヴァ演出)。

またも日本初演!オケの奥に歌手たちの演技のための空間を設けてある。

チェコから招聘された6人の歌手が皆うまい。特に主役のヤン・ヴァツィークと、マーリンカ役のマリア・ハーンが素晴しい。
チェコ語上演ゆえ字幕が出るが、それと共に映し出されるチェコの街並みや地下室の映像がイメージを喚起してくれて効果的。

第1部で主人公は月の世界へ、第2部では15世紀のフスの反乱の時代へと旅する。その頃の歴史をもっとよく知っていたら・・・と残念だった。

字幕の日本語が時々分からない。「反キリスト教徒と聖職者たちをやっつけろ」(だったか?)とか・・・一体どういう意味なのか。解説がないとフツーの日本人には理解不能だ。それともこれもやっぱり歴史を知らないからなのだろうか。

音楽は叙情的で多彩。その描写力に圧倒される。

歌手たちの水準の高さに比べると、演出がイマイチだった。

ヤナーチェクのオペラを観るのは「利口な女狐の物語」「マクロプロス家の事」に続いて3作目。どれも題材、ストーリー、音楽がみな素晴しく、見応え聴き応えのある作品だった。彼のオペラは全部で9作あるとか。今後の楽しみだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木下牧子作曲のオペラ「不思議の国のアリス」

2009-12-09 18:26:25 | オペラ
12月5日ル テアトル銀座で、ルイス・キャロル原作木下牧子作曲のオペラ「不思議の国のアリス」を観た(東京室内歌劇場定期公演、鵜山仁演出)。

アリス役の里中トヨコが歌もうまく演技も素晴しい。
姉とユリの花役の吉村美樹の声もいい。

上から降ろされる幕と左右から引かれる幕とをうまく使ってウサギの穴を表わしたり場面転換したりする演出はさすがに流れるようだ。

笑い猫のテーマがいい。
公爵夫人のお茶会で帽子屋が歌うメチャメチャ変な歌、アリスが歌う思いっきり俗で滑稽な歌、公爵夫人自ら歌う妙な歌・・・どれも面白い。

挿絵から抜け出てきたような正統的な衣裳(伊藤早苗)がいい。公爵夫人の古風な帽子も原作の挿絵通りなので、堪らなく嬉しかった。
コミカルなシーンでは音楽も歌手たちの演技も実におかしい。

「鱈とカタツムリの話」という歌が白眉。

ルイス・キャロルの原作が素晴しいことを改めて感じた。そのユーモアは独特で堪らないおかしさだ。
しかもただおかしいばかりでなく、子供の質問という形をとって哲学的な深みのある問いかけ----世界の果ての先には?とか神様は戦争の間どこに隠れているの?とか----がなされる。本当に味わい深い、名作の名に値する作品だ。

原作は長くて盛り沢山な内容なので、だいぶ削ってある、というより原作のエピソードを半分くらい選び出して作曲したという感じか。

木下牧子という作曲家は全く知らなかった。こういう優れた日本人女性がいるとは本当に驚きだ。オペラ作りは非常に疲れるらしいが、これからも是非作ってほしいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「ヴォツェック」

2009-12-04 18:26:16 | オペラ
1月18日新国立劇場オペラパレスで、アルバン・ベルク作曲のオペラ「ヴォツェック」を観た(H.ヘンヒェン指揮、A.クリーゲンブルク演出)。

今まで避けてきたベルクのオペラ。しかし20世紀オペラの金字塔としてもはや古典とさえ言われる作品を、いつまでも避けている訳にはいかない。あらすじは、ただもう悲惨、陰惨なだけだが。

幕が開くと、白っぽい汚れた壁に囲まれた四角い部屋。
大尉は肉じゅばんで醜くデフォルメされた姿。

兵士ヴォツェックは貧しく、上司にも虐げられ仲間にも無視され、妻マリーの浮気をきっかけに精神を病んでゆく。

第1場の後、その部屋が少しずつ後方に退いて行ったと思ったら、何とステージ全面に水が張ってある!そこを人々はバシャバシャ音を立てて歩く。
医者も何やら気味の悪い格好。
台本では、医者はヴォツェックが往来で「咳」をしたと言って怒る。何と理不尽な、と思ったが、ここでは咳が「立ち小便」に代わっていた。咳と立ち小便では全然違う。やはりあまりに横暴なので分かり易く変えたのだろうか。

男の子が台本より大きいのに合わせたらしく、マリーは夫に「知り合って6年になる」と言う(台本では3年)。

子供は父が壁際の椅子に座っていると、そばの壁に黒いペンキでpapaと書く。なぜか後ろから、つまり右から左へと書いてゆく。その後もGeld(金)、そしてHure(売女)と後ろから書く。

マリーは鼓手長に迫られ、身を任せてしまう。夫に疑われ、責められると、ふてぶてしく開き直って見せるが、その後第3幕第1場では、夜自分の部屋に一人座リ、聖書の中の姦淫した女の箇所を読んで祈り、神に救いを願う。胸を打つ場面だ。

錯乱したヴォツェックはついに妻を殺し、自らも沼で溺死する。

曲は無調の所と調のある所が混ざっていて叙情的なところもあり、変化に富んでいる。そして迫力がある。

今回の演出は非常に大胆で変わっていた。と言っても私は初めてなので他と比較はできないが、何しろ主人公の息子が本来は2歳くらいで少ししか登場しないはずが、小学生くらいになっていて、その子が常に舞台上にいてちょろちょろ動き回る。この子の目から見た世界という視点が画期的だ。しかしその世界というのはどこまでも冷酷で悲惨で醜悪な世界だ。
この子を演じたのはてっきりドイツ人だと思ったら、何と日本人だという。その舞台度胸は並外れている。

何より、台本をここまで変えてもいいのか、と驚かされた。初めて観る者にとっては玄人向きで、少し刺激的過ぎた。次回はもっとオーソドックスなのを観たい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする