<ヤン・コットのリア王論>
ヤン・コットは1914年にポーランドで生まれた学者・評論家で、ナチス占領下でレジスタンス運動に参加。第2次大戦後はマルクス主義者として
社会主義リアリズムを奉じて戦った。だが戦中にナチの暴虐を味わったように、今度はスターリン主義の圧迫を知ることとなり、教条的な立場とは
手を切る。演劇評論を始め、1964年に英語版が出版された「シェイクスピアはわれらの同時代人」という書物で一躍有名になった。
彼はその中で多くの注目すべきことを述べているが、特に「リア王」の解釈は有名だ。
彼はこの作品をベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」と呼応するものとして論じ、シェイクスピア劇を初めて不条理劇としてとらえ、世界中に大きな衝撃を与えた。
彼は「リア王」のグロテスク性に注目し、この劇をグロテスク劇と呼ぶ。以下はその引用。
(ここでは)悲劇的な要素に代わってグロテスクの要素が正面に出てきている。グロテスクの劇は悲劇よりも残酷なものなのだ。
悲劇とは人間の運命についての考察であり、「絶対」についての判断の表現である。
それに対してグロテスク劇とは「はかない人間の経験の名においてなされる、絶対への批判である。
ここで彼が言う「絶対」とは神のことだ。
そこでは主人公は絶対に対して戦いを挑んでは必ず敗れ去らなければならない。
だから悲劇がカタルシスをもたらすのに対し、グロテスク劇は一切の慰めを与えない。
だが果たしてそう言い切れるだろうか。
我々は「リア王」を見終わった時、カタルシスを得られないだろうか。
ここでこの問いに答える前に、今しばらくコットの論に沿って、見て行こうと思う。
悲劇においては、人間に逃れようのない状況を押しつける主体は、時代によって神々、運命、キリスト教の神、自然、理性と必然をそなえた歴史などだった。
だが、グロテスク劇においては、人間の破滅を絶対の責任にすることはできない。
絶対には究極の理性など備わってはいない。それはただ人間よりも強いというだけのことである。絶対は不条理なのだ。(だから)動き出したら止まらないメカニズム
という概念がよく使われるのであろう、非人間的で冷酷なメカニズムが悲劇における神や自然や歴史にとって代わっている。・・・不条理なメカニズム・・・
「リア王」の主題は(人間の)旅路の意味の探究、天国と地獄とが存在するかしないかという問題の探究なのである。
ここで彼は「リア王」を「第二のヨブ記」と呼ぶ。
旧約聖書のヨブ記では、義人ヨブが、突然苦難に襲われ、なぜ自分がそのような目に合うのか分からず、慰めに来た友人たちと長い問答を繰り広げる。
コットは、この戯曲で、冷酷な野心家や平気で人を殺すような悪い奴らだけでなく、善良な人々までが最後には死んでしまうことが、耐えられず、どうしても
受け入れられない。
この戯曲には、キリスト教的な天国もなければ、ルネサンスのヒューマニストたちが存在するといい、また信じてもいた天国も、やはりない。地上に実現すると
約束された天国も、死後に約束された天国も、――言い換えれば、キリスト教的・世俗的両方の神義論が、愚弄されている。さらには・・・神々も、神の姿に
似せて造られた者としての人間も――すべてが愚弄されているのである。「リア王」」においては、中世的であれルネサンス的であれ、既成の価値体系が崩壊
しているのだ。
つまりニヒリズムということだ。
なぜ善人も死ぬのか。ハッピーエンドでないのか。
それをコットは糾弾して止まない。
だが、そもそも文学作品や芸術作品において、ハッピーエンドであることがどうしても求められるのだろうか。
たとえばワーグナーの楽劇「タンホイザー」の場合を見てみよう。
騎士タンホイザーは、女神ヴェーヌスのいるヴェヌスベルクで享楽の愛に溺れていたが、故郷に戻ってくる。
「愛の本質」という題の歌合戦で、別の騎士が清らかな愛の理想を歌い、皆がそれに賛同すると、彼はつい立ち上がって、
それは間違いで、享楽の愛こそ本当の愛なのだと歌う。みな怒り出すが、彼は夢中になり、ついにヴェーヌスを讃え、ヴェヌスベルクにいたことが露見してしまう。
女たちは逃げ去り、男たちは剣を抜いてタンホイザーに迫る。だがエリーザベトが必死で彼をかばい、彼に信仰への機会を与えるよう説く。
タンホイザーはこの時悔悟し、罪の許しを乞うためローマへの巡礼に出発する。
エリーザベトは聖母マリアに祈りを捧げる。彼女は巡礼の列に恋人の姿を探すが見つからない。
タンホイザーは法王から、杖に葉が生え花が咲くことがないように、ヴェヌスベルクへ行った者に救いはない、と言われて絶望し、再びヴェヌスベルクの歓楽を
求めようとする。
だがその時エリーザベトの遺骸を運ぶ葬列が近づき、彼はついに迷いから覚める。
彼女の亡骸に身を伏し、タンホイザーは息絶える。
だが、そこに現れた若い巡礼の手には、葉が生え花が咲いた杖が掲げられていた。彼の魂は救われたのだ。
ここで女は男のために自分の命を犠牲にして死ぬが、せっかくそうまでしたのに救われた男も死んでしまう。
だが、見ている我々は、その時、すべてが虚しい、と暗澹たる気分に陥ったりはしない。
そこに不条理を感じることはない。
かえって、そこに救いを、正義の成就を、愛の勝利といったものを実感して心が満たされるのを感じる。
それは一つの解決、完成ということを意味している。
・・・だがこのたとえは適切ではなかったかも知れない。
ここにはキリスト教の神と救いと天国とが厳然としてあるからだ。
「リア王」の世界はキリスト教以前の世界であり、多神教であり、天国も何もない。
だからグロテスクと言いたくなるコットの気持ちもわかる。
リアは最愛のコーディーリアを失い、高齢ゆえ自分もまもなく後を追うとわかっているが、死後天国で再会できるという希望はない。
だが、それを見ている我々にカタルシスがないというのは違う。
悪は滅び、よこしまな企みは露見し、悪人どもはみな死んだではないか。
リアは超高齢で、もっと早く死んでいてもおかしくはなかった。
老グロスターは善良な人だから痛めつけられて気の毒ではあるが、少しばかり知恵が足りなかった。
彼の次男は愛人が産んだ子だが、彼は「こいつが出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ」( there was good sport at his making )と臆面もなく回想している。
若い頃のそういう遊び半分の行動と、人を見る目がなかったこととが、人生の最後になって思わぬ災厄をもたらした。
自らまいた種と言えなくもない。
リアも同様。
コーディーリアは親孝行な娘の代名詞のようになっているが、自分の信条に忠実なあまり、かたくなで融通が利かない。
彼女の死はもちろん衝撃的だが、そもそも彼女の存在自体、この作品においては記号のようなものとも言える。
リアの老いによるわがままと奇妙な思いつき、そして彼女の頑固さが、そもそもこの物語の発端であり、それらがなければ、この作品は誕生しなかった。
良い娘が殺され、悪い娘たちも死ぬ。二人は姦通した女になっている。一人は夫を殺し、妹に毒を盛る・・・。ここではあらゆるきずなは断たれ、あらゆる
掟は―神の掟、自然の掟、人間の掟のどれも―破られる。王国から家庭に至るあらゆる社会の秩序はこなごなになってしまう。もはや君臣、親子、夫婦などという
関係は存在しないのだ。ただ、洞穴の中の怪物のように互いに食い合う、ルネサンスの動物譚に現れるような巨大な野獣がいるだけである・・・
ここで我々はコットのレトリックの迫力に圧倒され、飲み込まれそうになるが、流れに逆らって、ちょっと待て!と言わなければならない。
ゴネリルもリーガンもまだ「姦通」してはいない。ゴネリルはエドマンドに夫を殺させたいと思ってはいるが、まだ「夫を殺し」てはいないのだ。
「あらゆるきずなが断たれ」てしまったわけではないし、「あらゆる社会の秩序がこなごなになって」しまったわけではない。
若きエドガーが老父グロスターの命を助けるためにどれほど苦心していることか。
さらに自殺を思いとどまらせるため、父の弱った心に衝撃を与えないように、どれほど心を砕いていることか。
彼が父を深く愛していることは誰の目にも明らかだ。
また、コーディーリアの父リアへの愛を疑う者はいないだろう。
「もはや君臣、親子、夫婦などという関係は存在しない」というのも暴論である。
主君リアに対するケントの敬愛と無私の献身を見よ。
「良い娘」であるコーディーリアが非業の死を遂げる、というショッキングな結末ゆえに、コットはこうした極端な論を展開するが、
この時彼は、作品世界の半分しか見ていない。
残りの半分を忘れている。いやあるいは、あえて見えないふりをしているのかも知れない。
吉田健一の言葉を借りれば「コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、
人間の世界を問題とするならば、そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。」
木下順二も言っていることだが、コットはこの戯曲をあまりにも主観的に、自分の苛酷な体験からとらえてしまっている。
シェイクスピアは、決してコットが見ているようには世界を見てはいない(16世紀から17世紀の人だから当然のことだが)。
彼の作った「リア王」の世界は、ちゃんと善悪の、そして明暗の、バランスが取れているのである。
ヤン・コットは1914年にポーランドで生まれた学者・評論家で、ナチス占領下でレジスタンス運動に参加。第2次大戦後はマルクス主義者として
社会主義リアリズムを奉じて戦った。だが戦中にナチの暴虐を味わったように、今度はスターリン主義の圧迫を知ることとなり、教条的な立場とは
手を切る。演劇評論を始め、1964年に英語版が出版された「シェイクスピアはわれらの同時代人」という書物で一躍有名になった。
彼はその中で多くの注目すべきことを述べているが、特に「リア王」の解釈は有名だ。
彼はこの作品をベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」と呼応するものとして論じ、シェイクスピア劇を初めて不条理劇としてとらえ、世界中に大きな衝撃を与えた。
彼は「リア王」のグロテスク性に注目し、この劇をグロテスク劇と呼ぶ。以下はその引用。
(ここでは)悲劇的な要素に代わってグロテスクの要素が正面に出てきている。グロテスクの劇は悲劇よりも残酷なものなのだ。
悲劇とは人間の運命についての考察であり、「絶対」についての判断の表現である。
それに対してグロテスク劇とは「はかない人間の経験の名においてなされる、絶対への批判である。
ここで彼が言う「絶対」とは神のことだ。
そこでは主人公は絶対に対して戦いを挑んでは必ず敗れ去らなければならない。
だから悲劇がカタルシスをもたらすのに対し、グロテスク劇は一切の慰めを与えない。
だが果たしてそう言い切れるだろうか。
我々は「リア王」を見終わった時、カタルシスを得られないだろうか。
ここでこの問いに答える前に、今しばらくコットの論に沿って、見て行こうと思う。
悲劇においては、人間に逃れようのない状況を押しつける主体は、時代によって神々、運命、キリスト教の神、自然、理性と必然をそなえた歴史などだった。
だが、グロテスク劇においては、人間の破滅を絶対の責任にすることはできない。
絶対には究極の理性など備わってはいない。それはただ人間よりも強いというだけのことである。絶対は不条理なのだ。(だから)動き出したら止まらないメカニズム
という概念がよく使われるのであろう、非人間的で冷酷なメカニズムが悲劇における神や自然や歴史にとって代わっている。・・・不条理なメカニズム・・・
「リア王」の主題は(人間の)旅路の意味の探究、天国と地獄とが存在するかしないかという問題の探究なのである。
ここで彼は「リア王」を「第二のヨブ記」と呼ぶ。
旧約聖書のヨブ記では、義人ヨブが、突然苦難に襲われ、なぜ自分がそのような目に合うのか分からず、慰めに来た友人たちと長い問答を繰り広げる。
コットは、この戯曲で、冷酷な野心家や平気で人を殺すような悪い奴らだけでなく、善良な人々までが最後には死んでしまうことが、耐えられず、どうしても
受け入れられない。
この戯曲には、キリスト教的な天国もなければ、ルネサンスのヒューマニストたちが存在するといい、また信じてもいた天国も、やはりない。地上に実現すると
約束された天国も、死後に約束された天国も、――言い換えれば、キリスト教的・世俗的両方の神義論が、愚弄されている。さらには・・・神々も、神の姿に
似せて造られた者としての人間も――すべてが愚弄されているのである。「リア王」」においては、中世的であれルネサンス的であれ、既成の価値体系が崩壊
しているのだ。
つまりニヒリズムということだ。
なぜ善人も死ぬのか。ハッピーエンドでないのか。
それをコットは糾弾して止まない。
だが、そもそも文学作品や芸術作品において、ハッピーエンドであることがどうしても求められるのだろうか。
たとえばワーグナーの楽劇「タンホイザー」の場合を見てみよう。
騎士タンホイザーは、女神ヴェーヌスのいるヴェヌスベルクで享楽の愛に溺れていたが、故郷に戻ってくる。
「愛の本質」という題の歌合戦で、別の騎士が清らかな愛の理想を歌い、皆がそれに賛同すると、彼はつい立ち上がって、
それは間違いで、享楽の愛こそ本当の愛なのだと歌う。みな怒り出すが、彼は夢中になり、ついにヴェーヌスを讃え、ヴェヌスベルクにいたことが露見してしまう。
女たちは逃げ去り、男たちは剣を抜いてタンホイザーに迫る。だがエリーザベトが必死で彼をかばい、彼に信仰への機会を与えるよう説く。
タンホイザーはこの時悔悟し、罪の許しを乞うためローマへの巡礼に出発する。
エリーザベトは聖母マリアに祈りを捧げる。彼女は巡礼の列に恋人の姿を探すが見つからない。
タンホイザーは法王から、杖に葉が生え花が咲くことがないように、ヴェヌスベルクへ行った者に救いはない、と言われて絶望し、再びヴェヌスベルクの歓楽を
求めようとする。
だがその時エリーザベトの遺骸を運ぶ葬列が近づき、彼はついに迷いから覚める。
彼女の亡骸に身を伏し、タンホイザーは息絶える。
だが、そこに現れた若い巡礼の手には、葉が生え花が咲いた杖が掲げられていた。彼の魂は救われたのだ。
ここで女は男のために自分の命を犠牲にして死ぬが、せっかくそうまでしたのに救われた男も死んでしまう。
だが、見ている我々は、その時、すべてが虚しい、と暗澹たる気分に陥ったりはしない。
そこに不条理を感じることはない。
かえって、そこに救いを、正義の成就を、愛の勝利といったものを実感して心が満たされるのを感じる。
それは一つの解決、完成ということを意味している。
・・・だがこのたとえは適切ではなかったかも知れない。
ここにはキリスト教の神と救いと天国とが厳然としてあるからだ。
「リア王」の世界はキリスト教以前の世界であり、多神教であり、天国も何もない。
だからグロテスクと言いたくなるコットの気持ちもわかる。
リアは最愛のコーディーリアを失い、高齢ゆえ自分もまもなく後を追うとわかっているが、死後天国で再会できるという希望はない。
だが、それを見ている我々にカタルシスがないというのは違う。
悪は滅び、よこしまな企みは露見し、悪人どもはみな死んだではないか。
リアは超高齢で、もっと早く死んでいてもおかしくはなかった。
老グロスターは善良な人だから痛めつけられて気の毒ではあるが、少しばかり知恵が足りなかった。
彼の次男は愛人が産んだ子だが、彼は「こいつが出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ」( there was good sport at his making )と臆面もなく回想している。
若い頃のそういう遊び半分の行動と、人を見る目がなかったこととが、人生の最後になって思わぬ災厄をもたらした。
自らまいた種と言えなくもない。
リアも同様。
コーディーリアは親孝行な娘の代名詞のようになっているが、自分の信条に忠実なあまり、かたくなで融通が利かない。
彼女の死はもちろん衝撃的だが、そもそも彼女の存在自体、この作品においては記号のようなものとも言える。
リアの老いによるわがままと奇妙な思いつき、そして彼女の頑固さが、そもそもこの物語の発端であり、それらがなければ、この作品は誕生しなかった。
良い娘が殺され、悪い娘たちも死ぬ。二人は姦通した女になっている。一人は夫を殺し、妹に毒を盛る・・・。ここではあらゆるきずなは断たれ、あらゆる
掟は―神の掟、自然の掟、人間の掟のどれも―破られる。王国から家庭に至るあらゆる社会の秩序はこなごなになってしまう。もはや君臣、親子、夫婦などという
関係は存在しないのだ。ただ、洞穴の中の怪物のように互いに食い合う、ルネサンスの動物譚に現れるような巨大な野獣がいるだけである・・・
ここで我々はコットのレトリックの迫力に圧倒され、飲み込まれそうになるが、流れに逆らって、ちょっと待て!と言わなければならない。
ゴネリルもリーガンもまだ「姦通」してはいない。ゴネリルはエドマンドに夫を殺させたいと思ってはいるが、まだ「夫を殺し」てはいないのだ。
「あらゆるきずなが断たれ」てしまったわけではないし、「あらゆる社会の秩序がこなごなになって」しまったわけではない。
若きエドガーが老父グロスターの命を助けるためにどれほど苦心していることか。
さらに自殺を思いとどまらせるため、父の弱った心に衝撃を与えないように、どれほど心を砕いていることか。
彼が父を深く愛していることは誰の目にも明らかだ。
また、コーディーリアの父リアへの愛を疑う者はいないだろう。
「もはや君臣、親子、夫婦などという関係は存在しない」というのも暴論である。
主君リアに対するケントの敬愛と無私の献身を見よ。
「良い娘」であるコーディーリアが非業の死を遂げる、というショッキングな結末ゆえに、コットはこうした極端な論を展開するが、
この時彼は、作品世界の半分しか見ていない。
残りの半分を忘れている。いやあるいは、あえて見えないふりをしているのかも知れない。
吉田健一の言葉を借りれば「コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、
人間の世界を問題とするならば、そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。」
木下順二も言っていることだが、コットはこの戯曲をあまりにも主観的に、自分の苛酷な体験からとらえてしまっている。
シェイクスピアは、決してコットが見ているようには世界を見てはいない(16世紀から17世紀の人だから当然のことだが)。
彼の作った「リア王」の世界は、ちゃんと善悪の、そして明暗の、バランスが取れているのである。