ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「リア王」について Ⅱ

2022-05-28 22:36:17 | シェイクスピア論
<ヤン・コットのリア王論>

ヤン・コットは1914年にポーランドで生まれた学者・評論家で、ナチス占領下でレジスタンス運動に参加。第2次大戦後はマルクス主義者として
社会主義リアリズムを奉じて戦った。だが戦中にナチの暴虐を味わったように、今度はスターリン主義の圧迫を知ることとなり、教条的な立場とは
手を切る。演劇評論を始め、1964年に英語版が出版された「シェイクスピアはわれらの同時代人」という書物で一躍有名になった。
彼はその中で多くの注目すべきことを述べているが、特に「リア王」の解釈は有名だ。
彼はこの作品をベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」と呼応するものとして論じ、シェイクスピア劇を初めて不条理劇としてとらえ、世界中に大きな衝撃を与えた。
彼は「リア王」のグロテスク性に注目し、この劇をグロテスク劇と呼ぶ。以下はその引用。

  (ここでは)悲劇的な要素に代わってグロテスクの要素が正面に出てきている。グロテスクの劇は悲劇よりも残酷なものなのだ。

  悲劇とは人間の運命についての考察であり、「絶対」についての判断の表現である。
  それに対してグロテスク劇とは「はかない人間の経験の名においてなされる、絶対への批判である。

ここで彼が言う「絶対」とは神のことだ。
  そこでは主人公は絶対に対して戦いを挑んでは必ず敗れ去らなければならない。

  だから悲劇がカタルシスをもたらすのに対し、グロテスク劇は一切の慰めを与えない。

だが果たしてそう言い切れるだろうか。
我々は「リア王」を見終わった時、カタルシスを得られないだろうか。
ここでこの問いに答える前に、今しばらくコットの論に沿って、見て行こうと思う。

  悲劇においては、人間に逃れようのない状況を押しつける主体は、時代によって神々、運命、キリスト教の神、自然、理性と必然をそなえた歴史などだった。
  だが、グロテスク劇においては、人間の破滅を絶対の責任にすることはできない。
  絶対には究極の理性など備わってはいない。それはただ人間よりも強いというだけのことである。絶対は不条理なのだ。(だから)動き出したら止まらないメカニズム
  という概念がよく使われるのであろう、非人間的で冷酷なメカニズムが悲劇における神や自然や歴史にとって代わっている。・・・不条理なメカニズム・・・

 「リア王」の主題は(人間の)旅路の意味の探究、天国と地獄とが存在するかしないかという問題の探究なのである。

ここで彼は「リア王」を「第二のヨブ記」と呼ぶ。
旧約聖書のヨブ記では、義人ヨブが、突然苦難に襲われ、なぜ自分がそのような目に合うのか分からず、慰めに来た友人たちと長い問答を繰り広げる。
コットは、この戯曲で、冷酷な野心家や平気で人を殺すような悪い奴らだけでなく、善良な人々までが最後には死んでしまうことが、耐えられず、どうしても
受け入れられない。
   この戯曲には、キリスト教的な天国もなければ、ルネサンスのヒューマニストたちが存在するといい、また信じてもいた天国も、やはりない。地上に実現すると
   約束された天国も、死後に約束された天国も、――言い換えれば、キリスト教的・世俗的両方の神義論が、愚弄されている。さらには・・・神々も、神の姿に
   似せて造られた者としての人間も――すべてが愚弄されているのである。「リア王」」においては、中世的であれルネサンス的であれ、既成の価値体系が崩壊
   しているのだ。

つまりニヒリズムということだ。
なぜ善人も死ぬのか。ハッピーエンドでないのか。
それをコットは糾弾して止まない。
だが、そもそも文学作品や芸術作品において、ハッピーエンドであることがどうしても求められるのだろうか。

たとえばワーグナーの楽劇「タンホイザー」の場合を見てみよう。
騎士タンホイザーは、女神ヴェーヌスのいるヴェヌスベルクで享楽の愛に溺れていたが、故郷に戻ってくる。
「愛の本質」という題の歌合戦で、別の騎士が清らかな愛の理想を歌い、皆がそれに賛同すると、彼はつい立ち上がって、
それは間違いで、享楽の愛こそ本当の愛なのだと歌う。みな怒り出すが、彼は夢中になり、ついにヴェーヌスを讃え、ヴェヌスベルクにいたことが露見してしまう。
女たちは逃げ去り、男たちは剣を抜いてタンホイザーに迫る。だがエリーザベトが必死で彼をかばい、彼に信仰への機会を与えるよう説く。
タンホイザーはこの時悔悟し、罪の許しを乞うためローマへの巡礼に出発する。
エリーザベトは聖母マリアに祈りを捧げる。彼女は巡礼の列に恋人の姿を探すが見つからない。
タンホイザーは法王から、杖に葉が生え花が咲くことがないように、ヴェヌスベルクへ行った者に救いはない、と言われて絶望し、再びヴェヌスベルクの歓楽を
求めようとする。
だがその時エリーザベトの遺骸を運ぶ葬列が近づき、彼はついに迷いから覚める。
彼女の亡骸に身を伏し、タンホイザーは息絶える。
だが、そこに現れた若い巡礼の手には、葉が生え花が咲いた杖が掲げられていた。彼の魂は救われたのだ。
ここで女は男のために自分の命を犠牲にして死ぬが、せっかくそうまでしたのに救われた男も死んでしまう。
だが、見ている我々は、その時、すべてが虚しい、と暗澹たる気分に陥ったりはしない。
そこに不条理を感じることはない。
かえって、そこに救いを、正義の成就を、愛の勝利といったものを実感して心が満たされるのを感じる。
それは一つの解決、完成ということを意味している。

・・・だがこのたとえは適切ではなかったかも知れない。
ここにはキリスト教の神と救いと天国とが厳然としてあるからだ。
「リア王」の世界はキリスト教以前の世界であり、多神教であり、天国も何もない。
だからグロテスクと言いたくなるコットの気持ちもわかる。
リアは最愛のコーディーリアを失い、高齢ゆえ自分もまもなく後を追うとわかっているが、死後天国で再会できるという希望はない。
だが、それを見ている我々にカタルシスがないというのは違う。
悪は滅び、よこしまな企みは露見し、悪人どもはみな死んだではないか。
リアは超高齢で、もっと早く死んでいてもおかしくはなかった。
老グロスターは善良な人だから痛めつけられて気の毒ではあるが、少しばかり知恵が足りなかった。
彼の次男は愛人が産んだ子だが、彼は「こいつが出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ」( there was good sport at his making )と臆面もなく回想している。
若い頃のそういう遊び半分の行動と、人を見る目がなかったこととが、人生の最後になって思わぬ災厄をもたらした。
自らまいた種と言えなくもない。
リアも同様。
コーディーリアは親孝行な娘の代名詞のようになっているが、自分の信条に忠実なあまり、かたくなで融通が利かない。
彼女の死はもちろん衝撃的だが、そもそも彼女の存在自体、この作品においては記号のようなものとも言える。
リアの老いによるわがままと奇妙な思いつき、そして彼女の頑固さが、そもそもこの物語の発端であり、それらがなければ、この作品は誕生しなかった。

   良い娘が殺され、悪い娘たちも死ぬ。二人は姦通した女になっている。一人は夫を殺し、妹に毒を盛る・・・。ここではあらゆるきずなは断たれ、あらゆる
   掟は―神の掟、自然の掟、人間の掟のどれも―破られる。王国から家庭に至るあらゆる社会の秩序はこなごなになってしまう。もはや君臣、親子、夫婦などという
   関係は存在しないのだ。ただ、洞穴の中の怪物のように互いに食い合う、ルネサンスの動物譚に現れるような巨大な野獣がいるだけである・・・

ここで我々はコットのレトリックの迫力に圧倒され、飲み込まれそうになるが、流れに逆らって、ちょっと待て!と言わなければならない。
ゴネリルもリーガンもまだ「姦通」してはいない。ゴネリルはエドマンドに夫を殺させたいと思ってはいるが、まだ「夫を殺し」てはいないのだ。
「あらゆるきずなが断たれ」てしまったわけではないし、「あらゆる社会の秩序がこなごなになって」しまったわけではない。
若きエドガーが老父グロスターの命を助けるためにどれほど苦心していることか。
さらに自殺を思いとどまらせるため、父の弱った心に衝撃を与えないように、どれほど心を砕いていることか。
彼が父を深く愛していることは誰の目にも明らかだ。
また、コーディーリアの父リアへの愛を疑う者はいないだろう。
「もはや君臣、親子、夫婦などという関係は存在しない」というのも暴論である。
主君リアに対するケントの敬愛と無私の献身を見よ。
「良い娘」であるコーディーリアが非業の死を遂げる、というショッキングな結末ゆえに、コットはこうした極端な論を展開するが、
この時彼は、作品世界の半分しか見ていない。
残りの半分を忘れている。いやあるいは、あえて見えないふりをしているのかも知れない。
吉田健一の言葉を借りれば「コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、
人間の世界を問題とするならば、そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。」

木下順二も言っていることだが、コットはこの戯曲をあまりにも主観的に、自分の苛酷な体験からとらえてしまっている。
シェイクスピアは、決してコットが見ているようには世界を見てはいない(16世紀から17世紀の人だから当然のことだが)。
彼の作った「リア王」の世界は、ちゃんと善悪の、そして明暗の、バランスが取れているのである。
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「真理の勇気 ― 戸坂潤と唯物論研究会」

2022-05-25 10:34:16 | 芝居
5月17日紀伊國屋サザンシアターで、古川健作「真理の勇気 ― 戸坂潤と唯物論研究会」を見た(演出:鵜山仁、青年劇場公演)。



1945年8月9日、戸坂潤は獄死した。戦争が終わるわずか数日前のこと。
時は遡ること12年前、「野蛮で反知性的なファシズムに対し、我々はあくまでも知性を武器にして闘い抜く」と、戸坂潤は岡邦雄、三枝博音と共に
唯物論研究会を立ち上げた。しかし「危険思想を広める恐れがある」と特高警察の監視が始まり、やがて集会禁止から執筆禁止に。
しかし彼は常に前を向き、誰よりも貪欲に生きることを求めた(チラシより)。

戸坂潤のことは名前しか知らなかったが、今回も古川健のおかげでいろいろ勉強になった。
話は彼の仲間との社会的活動と、家庭生活、及び女性関係とを行き来して進行する。
私生児として母一人子一人で育ったというから、さぞ苦労したことだろう。
当時はまだシングルマザーなどという言葉もなかった。
そもそも「私生児」という言葉自体、ありがたいことに、今ではほとんど死語だし。
母親は立派な人と評判で、しっかり者だったらしいが、母子ともに相当差別されたに違いない。
そんな彼は非科学的な考えを憎み、理不尽な世の中に対する怒りを抱いているが、それでも感情的になることなく、冷静に理論的に戦おうとする。
彼は唯物論研究会(略称:唯研)を立ち上げ、その有力メンバーとして機関紙を発行するなど旺盛な言論活動を展開する。
評者は情けないことに、彼らの言う唯物論とマルクス主義の違いもよくわからないのですが・・。
マルクス主義の方は、NHKの「百分で名著」のおかげでだいぶ分かったような気になったけど。

生い立ちゆえか、彼は旧来の道徳には縛られない自由思想の持ち主でもあった。
再婚した妻がありながら、同じくバツイチの同志・光成秀子と時々会っている。
彼女は同志とは言え、戸坂を尊敬し、多くの疑問を抱えて積極的に彼に会いたがり、教えを乞う良き生徒のような存在。
彼は一線を越え、彼女を妊娠させてしまう。
だが彼女は実家が裕福だからか焦ることもなく、男に頼る気もない。
子供は産んで自分で育てます、あなたに迷惑はかけません、と言う。
彼女を見ていると清々しい(時代を考えると驚くべきことだ)が、男の態度を考えると腹立たしい。
女の独立精神と、自分に対する敬愛の気持ちを利用しているとしか思えない。
一方、彼の妻は賢く、夫のしたことに気づいている。
女が彼らの家を訪ねると、妻は「ご迷惑を・・」とか言って彼女に頭を下げる。
不意をつかれた男は驚いて「そういう言い方は・・」と止めようとするが、女は落ち着いて「いえ、こちらこそ・・」と返礼するのだった。
男はでくの坊よろしくそばに突っ立って見ている。
ここでは思想家・雄弁家たる戸坂潤も、女癖の悪い、ただのだらしない男に過ぎない。
二人の女は自立した大人、それに対して男は二人に世話を焼いてもらう子供のようだ。

構成はさすがにうまい。
官憲の目は厳しさを増し、彼らの事務所に警官が常駐するようになる。
警官は職務上、仲間内の会話を逐一メモするが、内容が難し過ぎて難儀する、というのがおかしい。さもありなん。
集会は禁止され、執筆も禁止され、唯研は解散。
戦争末期、ついに戸坂は逮捕され、敗戦直前に獄死する。
家族は戦後、彼が獄中で聖書を熱心に読んでいたと聞かされる。
家を訪ねてきた同志に、母と妻は聖書に彼の写真を貼ったものを差し出す。
戸坂は無神論者だったので、「位牌は違うかな、と思って」と母。
母「潤は生きていると思います。戸坂ならこう考えるのではないだろうか、と考えてくれる人がいる限り、潤はその人の中で生きていると思うのです。」

戸坂潤役の清原達之が素晴らしい。
その他の役者たちもみな好演。

音楽の使い方もいい。
序盤はショパンの激しいピアノ曲。次いでアルビノーニのアダージョ。ラストは、またショパンか何かの静かなピアノ曲。

彼は、私生活においては、理解ある(あり過ぎる)妻と愛人に甘えた無責任な男と言ってもいいだろう。
だが、愛人との間に生まれた私生児を可愛がり、時には寝かしつけてやるという一面もあった。
そう、彼は自分と同じ私生児をこの世に誕生させてしまった。
そのことを自分でもはっきり自覚している。

「神はいない」と演説でも言っていた彼が、最後に聖書を読んでいたということが驚きだった。
どういうことだろうか。
彼は、それまで聖書を読んだことがなかったのだろう。
宗教というものを、ただ観念的に一律にとらえて嫌悪し、否定していたのだろう。
だが、刑務所で実際に聖書を読んでみると、意外にも面白くて引き込まれてしまった。
そこに救いを感じる。
その頃の彼と話がしてみたい。

古川健という作家は、興味深い。
劇団チョコレートケーキでいくつか彼の作品を見てきたが、彼の描く女性は、気丈な人か、ステレオタイプか、のどちらかだと言えるのではないだろうか。
いや前者だって後者の一類型だから、結局、全部ワンパターンってことじゃないか。
むろん、ミソジニーではなく、その対極にあるわけだが。
あんなに多くの男性を個性豊かに描き分けることができるのに(「帰還不能点」の面白さを見よ!)、どうして女性はワンパターンなのか。
言いにくいが、想像力が足りないとしか考えられない。
こんなにも才能がありながら、バランスを欠いているとは、劇作家として致命的ではないだろうか。
実に惜しい。
彼がこれまで出会ってきた女性たちは、みな、立派な人たちだったのだろうと推測できる。
それはもちろん素晴らしいことだが、できればいつか、一度でいいから、だらしない女性、ダメな女性、腹黒い女・・とかを書いてみせてほしい。
「三銃士」のミレディみたいな、とまでは言わないけど(笑)。


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「黒塚~一ッ家の闇」

2022-05-20 22:08:10 | 芝居
5月16日下北沢ザ・スズナリで、「黒塚~一ツ家の闇」を見た(脚本・演出:わかぎゑふ、流山児事務所公演、5月22日まで)。



「拾遺和歌集」でうたわれ、民間伝承として語り継がれてきた鬼婆伝説、能では「黒塚」、歌舞伎・浄瑠璃では「奥州安達原」として有名な母子の因縁物を
ベースにした戦国時代劇。
新庄という在所に「笛吹峠」と呼ばれている場所があった。そこを超えると京の都への近道のため、長い間土地をめぐる争いごとが絶えない。しかし
20年前に起きた事件をきっかけに峠は封印。みすぼらしい一ツ家があるばかりなのだが、そこに近づいた者は誰一人帰らず、いつしか「鬼が住む」と
怖がられている有様である。
見かねた領主、堀兵右衛門は、嫡男月之介に鬼退治を命じる。意気揚々と笛吹峠の一ツ家に住む「鬼」と対面するのだが、そこに待っていたのは
過去の大きな因縁だった(チラシより)。
ネタバレあります注意!

冒頭、月之介と家来の史郎が何やらテニスのような球技をするシーンはいささか冗長。
小さな舞台だが、転換をうまく使い、謎解きの要素もあって、話は先へ先へと進んでゆく。
殺陣は実に見応えがある。
月之介一行は嵐に合い、峠に住む3人兄妹の家に泊まることになるが、娘が彼らに振る舞った酒にしびれ薬が入っていた。
だが、慎重な史郎はその娘に毒味をさせていた。彼女はその酒を飲んだのになぜか平気だった・・・。
一行は、この恐ろしい家におびき寄せられたのだった。
彼らは一人また一人と命を奪われる。
そこに偶然通りかかった陰陽師キリタ(小林七緒)が何とか史郎だけは助け出して介抱するので、もう大丈夫か、と思ったが、安心するのは早かった。
何しろ、彼らにまつわる因縁は20年前の事件にさかのぼるのだ。
恨みを抱き復讐の鬼と化した女(塩野谷正幸)がついに正体を現わす。
残りの人々も絶体絶命というまさにその時、陰陽師キリタの師匠・延元(流山児祥)が登場し、復讐鬼はついに倒れる。
キリタ「師匠、遅い!」延元「すまん・・」(笑)。

十分楽しかったが、原典を知っていたらもっと面白かっただろうと思うと、それが残念だ。
役者はみなうまい。
ただ、ラストの歌は余計だった。

わかぎゑふの作品を見たのはこれが初めて。原作の能も知らなかった。
そんな評者がこの日一番驚いたのは、昔、学校で習った懐かしい「デウス・エクス・マキーナ」を初めて目の前で、なまで見たこと。
これはラテン語で、英訳すると god from the machinery 。普通「機械仕掛けの神」と訳される。
古代ギリシアの演劇技法で、劇の終幕で突然、上方から機械仕掛けの神が舞台に降りて来て、それまでのごたごたや困難をスパッと解決し、めでたしめでたしという便利な、
言わばドラえもんの「ご都合春菊」みたいな存在のこと。
それをこの日、思いがけず、この能を原作とする芝居で見た。
演出家はパンフに「結局陰陽師を出して収めた、それしか手はなかった、鬼を治めるために魔法に頼った」という趣旨のことを書いている。
ということは、原作は、ただ人間たちが恐ろしい鬼に次々にやられてゆくという話なのだろうか。
だが、人の心は解決を求め、救いを求めるものだ。
それは、水が低い方に流れるのと同じくらい自然なことだ。
現実世界でそれが得られないのだから、せめてフィクションの世界では、苦しみの果てに救いが欲しいと願うのは無理もないではないか。
それは自然なことだし、決して悪いことではないと思う。
もっと言えば、人間はそういう風に作られているとも思うのだ。




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「ロビー・ヒーロー」

2022-05-15 19:07:49 | 芝居
5月9日新国立劇場小劇場で、ケネス・ロナーガン作「ロビー・ヒーロー」を見た(演出:桑原裕子、5月22日まで)。



映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の脚本でアカデミー賞を受賞したケネス・ロナーガンの作品。2001年初演。
日本初演。
マンハッタンにある高層マンションのロビー。警備員ジェフは、人生の目的もなく働いている。見回りに来る警察官ビルは、相棒である見習いのドーンと
いい仲のようだ。殺人嫌疑を受けた弟のアリバイを偽証した、ジェフの上司ウィリアム。それに対して、何をすべきか悩むジェフがとった行動とは・・・(チラシより)。
ネタバレあります。注意!

舞台はマンションのロビーと、その正面玄関のドアの外。回り舞台の使い方がいい。
冒頭のジェフ(中村蒼)とウィリアム(板橋駿谷)の会話が、見事な導入となっていて、二人の性格と互いの関係がくっきりと描かれる。
見習い警官である若い女性ドーン(岡本玲)は、経験豊富で頼もしいビル(瑞木健太郎)を尊敬し慕っているが、彼は妻子持ちで、しかもある意味、危険人物だった。
ドーン自身も問題がないとは言えない。
と言うか、この芝居に登場する4人はみな、それぞれ問題を抱えている。
一番まともなのはウィリアムだが、彼にしたって、人を見る目がなかったために、ひどい目に合うことになる。
ジェフは善良だが、おしゃべりで軽薄。

ドーンは個人的な恨みを晴らすチャンスとばかりに、ジェフから聞いたことを利用する。
だがこの一件で、ジェフは初めて人生について、少し真面目に考えるようになったとも言える。
彼にとって、上司のウィリアムは自分に目をかけてくれる数少ない大事な人だったのに、その人を苦しめ困らせるようなことをしてしまった、と後悔の念に駆られる。

ラストでジェフは考える、自分の父なら必ず真実を話すだろうと。だがもう一つ別の光景も浮かぶ。父なら力を尽くして友人をかばって偽証するだろう、と。
米国の若者は父親への尊敬の念が強い。それはもう半端ない。日本とは比べものにならない。
そのことを考慮する必要がある。
だから米国の若者は、人生で道に迷った時に、自分の父ならどうするだろうか、とすぐに考えるのかも知れない。

ウィリアムと弟はどうも黒人らしい。
だから、ニューヨークに実際にある黒人への偏見と差別を考えると、弟をできる限りかばってやった方がいいのかも知れない。
同じ罪を犯しても、黒人だと簡単に死刑にされるかも知れないのだから。しかも時代は今から20年前だし。

米国での上演の際には、ウィリアム役は当然黒人俳優が演じるのだろう。
だから観客にはその辺のところがすぐにわかるはずだが、日本で上演する場合、まさか昔の「オセロー」上演時のように顔を黒塗りするわけにもいかない。
しかも困ったことに、セリフには彼ら兄弟が黒人だということについて、ほんの一か所、ほのめかす程度にしか出てこない。
だから、その点が、観客にはっきり伝わらない。
現に、同行した私の連れ合いは、わかっていなかった。
セリフを変えるわけにもいかないし、黒塗りするわけにもいかないし、難しい問題だ。
いや、ひょっとしたら今回、演出家は黒塗りさせようかと迷ったのかも知れない。

戯曲は丁寧で自然な流れで、観客の集中力を途切れさせない。
役者では中村蒼という人に、とにかく驚いた。初めて見た人だが、メチャメチャうまい。一体何者?
ただ、知らないのは評者だけで、映像の世界では結構知られているらしい。
この役が、特に彼に向いているのかも知れない。
全然違った役をやるところも見てみたい。


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「リア王」について

2022-05-07 16:15:33 | シェイクスピア論
シェイクスピアの作品について折に触れて書いてきたものを、これから時々ここに発表しようと思います。
まずは悲劇の極北、「リア王」から。
<リア王>
① 誰の召使いか
 ブリテンの老王リアは三人の娘たちに領土を分配して隠居することにし、どの娘が一番の孝行者であるかを判断するため、それぞれに自分への情愛の深さを
述べさせることにする。すでに結婚している長女ゴネリルと次女リーガンは父への孝養を大げさに誓うが、リアが一番気に入っていた未婚の末娘コーディーリアは
美辞麗句を好まず、素っ気ない言葉を口にしただけだった。リアは怒って彼女を勘当し、二人の姉娘にすべての権力、財産を譲ってしまう。
末娘に求婚に来ていたフランス王は、持参金無しで彼女を王妃として連れ帰る。
 リアはゴネリルの城に一ヶ月滞在するが、百人の騎士たちをお供にしていたこともあり、次第に彼女から疎んじられるようになる。ついに二人は激しく衝突し、
リアはリーガンの城に向かうが、リーガンはゴネリル以上に冷たかった。リアはコーディーリアを勘当したことを後悔し、半ば狂って嵐の夜に荒野をさまようのだった・・・。

これが「リア王」の主筋(の前半)だが、この芝居にはそれと並行して副筋がある。
リアの家臣グロスター伯爵には嫡出子である兄エドガーと庶子である弟エドマンドがいた。兄はのんびり屋だが弟は腹黒く陰謀を企み、兄が父の暗殺を企んでいると
父に告げ、信じ易い父をまんまと騙して兄を城から追い出すことに成功する。
父グロスターは、コーディーリアが姉たちの父への仕打ちを伝え聞きフランスから軍を率いて攻めて来るという情報を得、雨のなか城を追い出されたリアを助けて
ドーヴァーまで送るべくひそかに城を出るが、その前に、孝行息子と信じているエドマンドにこれを漏らしてしまう。
エドマンドは出世の機会とばかりにすぐさまコーンウォール公爵に知らせる。
リーガンと夫コーンウォール公爵は帰って来たグロスターを裏切り者として拷問する。

場所はグロスター伯爵の城である。
ここに客として来ていた新国王夫妻、すなわちコーンウォール公爵とリーガンは、グロスターが敵と通じていると知って怒り狂い、連れて来た家来たちに向かって、
彼を縛り上げろと命じる。この城に元からいる伯爵の家来たちは、何もできずに遠巻きにして震えながら見ているのだろう。
「火のようなご気性」と言われるコーンウォール公爵は、グロスターの片目をえぐり出す。
もう一つの目もそうしようとすると、あまりの残酷さに耐えられなくなった召使いの一人が止めに入る。
 召使いⅠ:お控え下さい。
      子供のころからお仕えして参りましたが、
      こうしてお留めするのが、これまでで
      一番のご奉公です。    (松岡和子訳)
さて、ではこの男は誰の召使だろうか?
松岡訳では、目的語が訳されていないのではっきりしない。
つまり、この男が誰にお仕えしてきたのか、誰を留めようとしているのか、誰に対して一番のご奉公だと主張しているのかが分からない。
他の翻訳家の訳もほとんど同様。
たとえば小田島雄志訳ではこうだ。
 召使い1:子供のころよりご奉公してまいりました私ですが、
      これまでのなによりも、いまお控えを願うことが
      最上のご奉公と心得ます。
日本語の特性から、「あなた」という目的語を使わなくても済むし、むしろ使わない方が自然なのだ。 
そのため、彼をグロスター伯爵の召使だとする誤解が生じる。
残りの目をもえぐり出されようとするグロスター伯爵を救うためにコーンウォール公爵を止めるという行為は、身分の違いから考えて、当然死を覚悟してのことだ。
これはグロスターの家来にとって最高の忠義の行為であり、命懸けの行為であるゆえに「これまでで一番のご奉公」に違いない。
やられるのが片目だけで済めば、完全に盲目にはならずに済むのだから。
だが果たしてそうだろうか。
原文は、こうだ。
 servant :     Hold your hand,my lord.
   I have served you ever since I was a child ,
   But better service have I never done you
  Than now to bid you hold
これを見れば明らかなように、彼は公爵に向かって「あなたにお仕えしてきた」と言っている。
ここで公爵を止めたのは拷問されている伯爵の家来ではなく、拷問している公爵自身の家来だった。
公爵自身の召使いが、恐れ多くも主人である公爵を止め、その行為が「あなたさまに対する最高のご奉公です」と言うのだ。
一体どういうことだろうか。
それは、残虐な行為を止めることによって、自分の主人が大きな罪を犯すのを防いで差し上げることになるからだ。
そこには、罪を犯せばそのままでは済まない、相応の罰が下される、という共通認識がある。
それを防ぐことは、(片目が助かるグロスター以上に)むしろコーンウォールの方にこそ「ためになる」ことなのだ。
召使が主人のためにできる最大のこととは何か。
それは主人が最悪の状態に陥るのを防ぐこと、すなわち大罪を犯す(その結果恐ろしい罰を受ける)のを未然に防ぐことに他ならない。
このことはキリスト教圏では当然の認識だろう。
だから特別な知識がなくても、どんな観客でもすんなり理解できるはずだ。
この男が誰の召使いかということが、どの注解書にも載っていないのは、わざわざ載せる必要がないからだ。
調査したわけではないが、この点を誤解してしまうのは、キリスト教にうとい日本人だけなのかも知れない。

吉田健一という作家がいる。この人は翻訳家ではないが、『シェイクスピア』という評論の中で「リヤ王」のこの部分をこう訳している。

召使の一人:お控えなさい。
      私はまだ子供の頃から貴方にお仕えしていますが、
      お控えなさいと今、貴方に言う程、今までに
      貴方に尽したことはないのです。
ここではすべてが明らかだ。
他の翻訳家たちが誰も使っていない「貴方」という言葉を、彼は三度とも使ってくれている。
吉田健一は十代の頃から英国で教育を受けたので、英語がネイティヴ同様にできたらしいが、その代わり残念ながら日本語がイマイチで、
読んでいて何を言っているのか理解するのに苦労する時がある。
ここの訳も日本語としてこなれているとはとても言えないので上演に使うのは無理だが、彼のお陰で原文に当たらなくても人間関係が一発で分かる。

ちなみに、ここで一人の名もない召使いが命懸けでコーンウォール公爵を止めようとしたことは、ストーリー展開上大きな意味を持つ。
この男は背後からリーガンに殺されてしまうが、公爵の方もこの時負った深手が元で、まもなく死ぬ。
            ↓ 
 未亡人となったリーガンは、かねて惹かれていたエドガー(父と兄を策を弄して蹴落とし、庶子でありながらまんまとグロスター伯爵となりおおせた)に急接近 
            ↓ 
 やはりエドガーに惚れている姉ゴネリルは(夫がまだ生きているので)気が気でなく、ついには妹に毒を盛って殺してしまう。

つまり、この後の一連の手に汗握る展開も、この無名の召使いの勇気ある行為あればこそ可能となったのである。







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ドラマ「黒井戸殺し」

2022-05-01 17:20:52 | テレビドラマ
先日、遅まきながら三谷幸喜脚本のドラマ「黒井戸殺し」を見た。



2018年4月14日放映なので、もう4年もたってしまった。
どうしてもっと早く、せめてその年の内に見なかったのか、と後悔しきりです・・。
でも、それでもやっぱり書かずにはいられないのです。三谷さんを賞賛したい点、ひと言言いたい点とかいっぱいあって。
どうぞ聞いてください。(なお、ネタバレありです。ミステリーですし、結末を知りたくない方は読まないでください)

以前書いたように、これはアガサ・クリスティー作の「アクロイド殺し」の翻案なので、まずそれを(ほとんど覚えていなかったので)読み直し、
さらに、その名作があまりに素晴らしかったので、その印象が薄れるのを待って、ようやく見たのだった。
(原作についての感想は、2021年8月30日のブログにあり)
結論から言うと、これはクリスティーの作品とは別の作品と言った方がいい。

まず登場人物について。
ポアロ役の勝呂武尊(すぐろたける)を演じる野村萬斎 ⇒ 例によって過剰な作り込み。そんな必要があるのか。
ワトソン役となる医師役に大泉洋 ⇒ 最近すっかり「三谷組」。結末を知らない視聴者には、この配役はうまい。
医者の姉を斉藤由貴が演じている。これには驚いた。
可憐で美し過ぎる。
弟とは10歳くらい離れている設定だし、ゴシップ好きな中年女性なのだから、もっとふさわしい役者がいるだろう。と不可解だったが、
全部見終わって納得した。
なんと、彼女は脳腫瘍で余命半年なのだそうだ。
そしてそのことを知っているのは弟だけ。本人は知らない。
この処理がうまい。
と言うのも、原作では、どう考えても警察が村人たちに真相を明かさないでごまかし通すことなどできないと思われるからだ。
だから姉が病気で死んだ後(これから約半年後)に医者の手記が「発見される」という形に勝呂は持っていこうとしている。
これで原作の最大の欠陥がうまくカバーされたわけだ。

令嬢花子役の松岡茉優 ⇒ 暗い役なのに終始笑いをこらえているようで違和感を覚えた。
だってこの人は、一応名家の令嬢のはずだが、内実は伯父の黒井戸(遠藤憲一)がケチなため、金欠で身の回りのものを買うにも不自由な暮らしを強いられている。
挙句、伯父の部屋から金を盗んでしまう・・という惨めな境遇なのだ。
そんな彼女に一人の男性がアプローチして来て、罪に怯える彼女が次第に明るくなってゆくのが面白いのに。
この人はうまい役者だと思っていたが、演出がいけないのか。
彼女にアプローチして来るのは、原作では無骨な初老の探検家だが、ここでは女たらしの作家(今井朋彦)に変わっている。
この探検家は、原作中、評者から見て最も好感の持てる人物なのだが、それをまさかの女たらしのふざけた文士にするとは!
これでは二人の恋を応援する気が起きない。
クリスティーの作品には、よく若い男女が出会って惹かれ合い、最後に結ばれる、という副筋があり、それもまた魅力の一つなのだが。
ただ、時代設定を考えると、こうするのが自然だし仕方ないか、とは思う。(念のためにつけ加えると、今井朋彦さんは好きな役者さんです。)
黒井戸の義理の息子・春雄役を向井理・・苦労知らずのお坊ちゃん役。なかなか合ってる。
執事役を藤井隆・・これがいい。挙動不審で、いかにも怪しい(笑)。視聴者をミスリードするにはもってこいだ。
家政婦長を余貴美子・・・いかにもしっかり者らしく、かつ、どこか影のある女性がぴったり。
令嬢花子の母を草刈民代・・・この人は、娘に盗みをするよう指図するなど、かなり悪い人に変えられている。

三谷版の大きな特徴としては、冷血漢の医師が、より人間味ある人に変化していることが挙げられる。
原作では、ただ金が欲しくて「欲望が抑えられず、もっともっとと」未亡人をゆする下劣な奴だが、ここでは「病気の姉の治療費のため」という、はっきり言って
お涙頂戴的な動機(設定)になっていて啞然とさせられる。
だが前述のように原作の欠陥をカバーするためにはそうするしかなかっただろう。
それでもなお、何の罪もない、しかも自分を信じて疑わない黒井戸を殺し、やはり自分を信頼し切っている春雄にその罪をなすりつけようとした罪は重いが。

結論としては、これはクリスティーの小説とは別の話と考えた方がいい。
三谷氏が、あれを元に別の物語を創り出した、と考えるべきだろう。
それと、原作で重要なのは、佐奈子が自殺したのは犯人に脅されていたからではないこと。愛する黒井戸に過去の罪を告白した時、彼の心が彼女から
サーッと離れていったのを見たからだ。彼は彼女を愛し、プロポーズし続けていたが、彼女の告白を聞いて、それを許し、受け入れることができなかった。
彼の表情からそれを読み取った彼女は、絶望し、自分の罪は、やはり死ぬことでしかあがなえないのだ、と悟って死を選んだのだ。
たぶん話が複雑になるのを避けたのだろう。何と言ってもテレビドラマの尺に合わせないといけないのだから。
でもここは重要なポイントなので、忘れてはいけないと思う。

原作に登場する料理も、鍋焼きうどんとかカレーライス(もどき)とかになり、精神病患者のための療養所が、村のお寺になっている。
野村萬斎と大泉洋とは、2011年に三谷幸喜の「ベッジ・パードン」で共演しているので、息はぴったり。
その他、吉田羊や佐藤二朗、浅野和之など、三谷組がたくさん起用されていて楽しい。

今回も楽しませてもらいました。しばらくは録画を保存します。
名作「三谷版オリエント急行殺人事件」の方は、永久保存です。
あれはケネス・ブラナー監督・主演の映画を超えていると思います💖


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