ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

三島由紀夫原作「豊饒の海」

2018-12-25 23:56:07 | 芝居
11月27日紀伊国屋サザンシアターで、三島由紀夫原作「豊饒の海」を見た(脚本:長田育恵、演出:マックス・ウェブスター)。

三島由紀夫畢生の大作「豊饒の海」初の舞台化。

松枝(まつがえ)清顕は貴族の生まれ。綾倉聡子は彼の幼馴染。二人は姉弟のように育てられた特別な存在であった。聡子はいつからか清顕を
恋い慕うようになっていたが、洞院宮治典王殿下と婚約する。それによって聡子への恋情に気づいた清顕は勅許が発せられた後にも関わらず
親友本多繁邦の協力の元、聡子との逢瀬を重ね、やがて聡子は妊娠してしまう。清顕と聡子の関係が両家に知れ、聡子は清顕の子を堕胎する。
聡子は失意の中、門跡寺院「月修寺」で自ら髪を下ろし出家する。清顕は聡子に一目会おうと雪の降る中、月修寺に行くが門前払いされてしまう。
雪の中、肺炎をこじらせ、20歳の若さで亡くなる直前に、清顕は親友・本多繁邦に「又会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と言い、転生しての
再会を約束する。ともに過ごした青春の、輝かしい煌めきの記憶を追い続ける本多の人生に松枝清顕の生まれ変わりとして登場する三つの黒子の
人々、飯沼勲、ジン・ジャン、安永透・・・。夢と転生・・・。「清顕」を追い求めた本多にとって、彼の存在は一体なんだったのか。そして
なぜそこまで清顕に執着したのか・・・。
存在とは、世界とは、そして「わたし」とは・・・。生きて、死ぬ。そして生まれる。(チラシより)

親友・松枝(東出昌大)に死なれた本多(大鶴佐助)は、その後の人生を、松枝の幻を追い求めるようにして生きる。
老年に達した本多(笈田ヨシ)は灯台で働く18歳の青年、安永透(宮沢氷魚)と出会い、松枝と同じく左脇腹に3つ並んだほくろを見て
衝撃を受ける。この若者は松枝の生まれ変わりだと確信した彼は、天涯孤独な彼を養子にして高校に通わせるが・・・。
中年の本多(首藤康之)は剣道をやる憂国の青年、飯沼勲(上杉柊平)と出会い、例のほくろを見て、何とかして彼の命を助けたいと画策
するが・・・。
その後、彼はタイの王女、ジン・ジャン(田中美甫)の体にも同じほくろを発見して驚愕し・・・。

夢と現実が交錯し、時間も激しく前後するが、演出が巧みなのでさほど戸惑うことなく、原作を読んでいない評者も何とかついて行けた。

舞台も俳優たちの所作も美しい(美術:松井るみ)。
松枝清顕役の東出昌大と飯沼勲役の上杉柊平は声がいい。
老年の本多の妻役の神野三鈴が輝いている。これまでこの人を何度か見た中で、一番よかった。甘い張りのある声も魅力的(鈴木京香に
似ている)。
聡子付きの女中・蓼科役の大西多摩恵も好演。

男女の仲というのは難しい。松枝清顕と聡子の場合も、微妙なすれ違い、間の悪さ、誤解のために、運の悪いことになってしまった。悲運。
だが二人には妙な厚かましさ、ふてぶてしさがあるのも確かだ。
いやしかし、こんなことを考えるのはたぶん無意味だ。
三島はただ、死に向かう愛と性を描きたくて、この設定とストーリーを作り上げたのだろうから。
これが三島の絶筆だという。
美しく死ぬことへの渇望・・・。

三島の死は多くの人に衝撃を与えた。それまで書き溜めていた詩や小説を焼き捨てて、神学研究の道に方向転換した人もいるし、
作家の浅田次郎に至っては、あの事件がきっかけで自衛隊に入隊したというから驚く。

スタイリッシュな演出がいい。
音楽(音響)もいい。
久々にずっしりとした手応えのある芝居に出会えた。

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オケイシー作「銀杯」

2018-12-17 23:21:41 | 芝居
11月13日世田谷パブリックシアターで、ショーン・オケイシー作「銀杯」を見た(翻訳:フジノサツコ、演出:森新太郎)。
日本初演。
第1次世界大戦中のアイルランド、ダブリン。軍からの短い休暇をもらって帰郷していたフットボール選手のハリー(中山優馬)は、
銀杯(優勝カップ)を抱え、歓喜に沸く人々の輪の中にいた。だが戦地へ戻る船の出航時刻は刻一刻と迫っていた。家族や友人たちに見送られ、
彼は仲間のバーニー(矢田悠祐)やテディ(横田栄司)らと再び出征する。ハリーの母(三田和代)は3人の無事を神に祈るのだが・・・。

冒頭、若い女スージー(浦浜アリサ)が中年の男たち(山本亨と青山勝)に向かって噛みつくように非難攻撃する。よく耳をすまして聞いて
みると、もっと真面目に、神への信仰に生きろ、というのだが、やたらガミガミととんがってて激しい。2人は慣れっこらしく、彼女が去ると、
「どうしてあんなになっちゃったんだろう」「スージーはハリーが好きだがハリーはジェシーが好き、だから・・・」と言い合う。
この集合住宅の二階に住むテディとその妻(長野里美)との激しい夫婦げんか。ようやくフットボールの試合が終わって一行が帰って来る。
アコーディオンや太鼓など楽器をかき鳴らして勝利をにぎやかに祝う人々。
スージーとジェシー(安田聖愛)はハリーをめぐって少々さや当て。だがハリーはジェシーにキスし、戦場へ。

第2幕
戦場。下手に骸骨の扮装の男が座って語る。この場はハリー以外全員、顔のでかいハリボテで、それを操る黒衣たちがいる。音楽劇の様相。
皆、歌がうまいし声もいい。
ハリーは上官の女だか鶏だかに手を出したとかで両手をくくりつけられている。故郷から兵隊たちに荷物が届く。祈祷書とフットボール。
「主が与え、主が奪われる・・・」。
第3幕
病院。ハリーは車椅子姿。戦場で足をやられたらしい。スージーは赤と白の制服を着た看護婦姿。窓からスージーとマクスウェル医師(土屋佑壱)
がキスするのを誰かが目撃する。ハリーの老母、両目に包帯を巻いたテディとその妻が見舞いに来る。
ハリーはジェシーに会いたがるが、彼女はバーニーと外にいて、決して見舞いに来ようとしない。バーニーだけがやって来て、花束とウクレレを
置いて去る。バーニーは戦場でハリーの命を助けて勲章をもらっていた。
ハリーは明日手術するという。

次はパーティの場。ハリーは退院したらしい。ジェシーとバーニーが踊っている間、車椅子のハリーがずっと見ているので、2人は人けのない
部屋に逃げて来る。目をやられて失明したテディもやって来て、妻に手伝ってもらいながらワインを飲む。
ハリーは未練たらしく麻痺した両足を嘆き続け、過去の(フットボール選手としての)栄光にしがみつく。
皆は同情し、ウクレレを弾いて歌ってくれるようハリーに頼み、彼もやっとその気になって練習を始める。だがそこに、またジェシーとバーニーが
入って来てキスしたりするので、ハリーは2人の邪魔をし、ジェシーを「この売女」と罵倒・・・。

失恋男があまりに未練がましくて、日本人の美意識からすると見苦しい。そこがちょっとついていけない。

2幕のでかいハリボテを見ていて、2016年11月に見た演劇集団円の「景清」を思い出した(演出は今回と同じく森新太郎)。

翻訳で気になるところが2箇所あった。
まず冒頭、若い娘スージーが中年男2人に向かって「お前たち」と連呼するのが非常に耳障り。
この女、一体何者?エクソシストかオカルトか!?と客席はドン引きしてしまう。蓋を開けてみると、特に何ということもない、ただ片想いが
叶わず、悶々としている娘に過ぎない、と分かる。しかも彼女、結構男にモテるし、後半は一転して医師と楽しく踊り、ポジティブな人生観を
語り出すのだから。「あなたたち」の方がいいのでは?
それからラストのテディの妻のセリフ「・・・ほど私の愛するものはない」もどうだろうか。
「愛する」はここで使うにはあまりに翻訳調で、日本語としてまだこなれていない。ここでの対象は人でもないし、「好きな」の方が自然だと思う。

とにかく古い。残念ながら400年以上前のシェイクスピアよりもなぜか古さを感じてしまう。
たとえば障害者に対する感覚。戦争で両足麻痺になった男と両目を失明した男のことを、スージーたちは「あの人たちは別の世界に行って
しまったの」ととらえる。2人はひたすら絶望し、嘆き悲しむのみ。2人にはもう未来はないかのようだ。それじゃあ生まれた時から目の
見えない人や下半身麻痺の人はどうなる?当時だってそんな人たちはいただろうに。
初めての世界大戦というあまりに大きな衝撃を、ひいてはこの世の不条理を、すぐには受け止めることができなかったであろう当時の人々
の心情は想像できる。

反戦劇。ただ、作者が主張したいことを直接、ナマのセリフで役者に言わせているのが興ざめ。そこはセリフにせず、観客に感じ取らせてこそ
よい芝居と言えるのでは?









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