11月23日東京文化会館で、黛敏郎作曲のオペラ「古事記」をみた(東京都交響楽団、指揮:大友直人、演出:岩田達宗)。
この作品は「オーストリアのリンツ州立劇場の委嘱により1996年に初演された黛敏郎最後の傑作」で、舞台版は日本初演の由。
歌詞はドイツ語。全4幕。
1幕:太古の昔、夫婦神イザナギ・イザナミによる国生み、神々の誕生、黄泉の国のエピソード、アマテラス・ツキヨミ・スサノヲの誕生。
2幕:スサノヲの乱暴と怒ったアマテラスの岩戸隠れ、アメノウズメの踊り、岩戸から出てくるアマテラス、天界から放逐されるスサノヲ。
3幕:天界を追われたスサノヲは出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、クシナダと結婚。
4幕とエピローグ:スサノヲとアマテラスの和解、ニニギノミコトによる天孫降臨。
このように盛り沢山の内容だが、進行が速く、先へ先へとせかされるように話が進んでゆく。
天の岩戸の前の大騒ぎはおとなし過ぎるのでは?ここでは、アメノウズメが滑稽でちょっと卑猥な踊りを踊るのでみんな大喜びして
笑い転げ、大騒ぎになるはずだが、このシーンに笑いがまったくないのが物足りないし理解できない。
黄泉の国からイザナギが逃げる途中、髪飾りを投げるとそれがブドウに変わり、追っ手の者たちはそれをむさぼり食う。また少し
して櫛を投げると今度はそれが竹の子に変わり、またも彼らはむさぼり食う。こうして時間を稼ぎながら逃げるという面白いシーン
があるのに、ここはすべて合唱によって歌われるのみで、演技も映像もないのがつまらない。
ヤマタノオロチとの戦闘シーンも同様。CGを使って視覚的に表現してほしい。
字幕作成者に一言。「弟は真価を発したのだ」は誤り。真価は「発する」ものではなく「発揮する」ものだ。
ついでにもう一つ。「あの大蛇」だとスサノヲが既にオロチを見たことがあることになってしまう。彼は話を聞いただけで、まだ
見たことがないのだから「その大蛇」と言うべきだ。
アリアが少ない。泣けるシーンがない。この二つはオペラとしては致命的だ。
例えばモーツアルトの「フィガロの結婚」で、スザンナが無くしたピンを探して歌うアリアを見よ。この胸締め付けられる歌は
まるで愛児を亡くした女が悲しみのあまり気が狂って、子供の死を信じられずにいつまでも子を探し続けているかのような、
そんな歌だ。実はたかがピンが無くなっただけの場面だとは思えない。しかもストーリーとは関係ないのだが、この曲がここに
あることで、どれほどこのオペラの魅力が増すことか。ここで我々観客は無条件で音楽に酔いしれる。筋と多少関係なくとも
音楽に酔いしれたいという観客の欲求を、モーツアルトは熟知していたのだった。
まあ黛さんはそういうオペラを書く気はハナからなかったのだろうけど。
25分の休憩を含めても2時間15分とはあまりに短い。すべてがさらりと流れてゆく。イザナギとイザナミの二人も、
結ばれたかと思うとあっと言う間に片方が死んでしまう。消化不良を起こしそうだし、まだまだ続いてほしい気持ちが消えずに
どんどんたまってゆく。やはり二人のアリアがほしい。アマテラスとスサノオ姉弟だってそうだ。アリアの材料はあるのだから
誰か書いてくれないだろうか。
この作品は「オーストリアのリンツ州立劇場の委嘱により1996年に初演された黛敏郎最後の傑作」で、舞台版は日本初演の由。
歌詞はドイツ語。全4幕。
1幕:太古の昔、夫婦神イザナギ・イザナミによる国生み、神々の誕生、黄泉の国のエピソード、アマテラス・ツキヨミ・スサノヲの誕生。
2幕:スサノヲの乱暴と怒ったアマテラスの岩戸隠れ、アメノウズメの踊り、岩戸から出てくるアマテラス、天界から放逐されるスサノヲ。
3幕:天界を追われたスサノヲは出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、クシナダと結婚。
4幕とエピローグ:スサノヲとアマテラスの和解、ニニギノミコトによる天孫降臨。
このように盛り沢山の内容だが、進行が速く、先へ先へとせかされるように話が進んでゆく。
天の岩戸の前の大騒ぎはおとなし過ぎるのでは?ここでは、アメノウズメが滑稽でちょっと卑猥な踊りを踊るのでみんな大喜びして
笑い転げ、大騒ぎになるはずだが、このシーンに笑いがまったくないのが物足りないし理解できない。
黄泉の国からイザナギが逃げる途中、髪飾りを投げるとそれがブドウに変わり、追っ手の者たちはそれをむさぼり食う。また少し
して櫛を投げると今度はそれが竹の子に変わり、またも彼らはむさぼり食う。こうして時間を稼ぎながら逃げるという面白いシーン
があるのに、ここはすべて合唱によって歌われるのみで、演技も映像もないのがつまらない。
ヤマタノオロチとの戦闘シーンも同様。CGを使って視覚的に表現してほしい。
字幕作成者に一言。「弟は真価を発したのだ」は誤り。真価は「発する」ものではなく「発揮する」ものだ。
ついでにもう一つ。「あの大蛇」だとスサノヲが既にオロチを見たことがあることになってしまう。彼は話を聞いただけで、まだ
見たことがないのだから「その大蛇」と言うべきだ。
アリアが少ない。泣けるシーンがない。この二つはオペラとしては致命的だ。
例えばモーツアルトの「フィガロの結婚」で、スザンナが無くしたピンを探して歌うアリアを見よ。この胸締め付けられる歌は
まるで愛児を亡くした女が悲しみのあまり気が狂って、子供の死を信じられずにいつまでも子を探し続けているかのような、
そんな歌だ。実はたかがピンが無くなっただけの場面だとは思えない。しかもストーリーとは関係ないのだが、この曲がここに
あることで、どれほどこのオペラの魅力が増すことか。ここで我々観客は無条件で音楽に酔いしれる。筋と多少関係なくとも
音楽に酔いしれたいという観客の欲求を、モーツアルトは熟知していたのだった。
まあ黛さんはそういうオペラを書く気はハナからなかったのだろうけど。
25分の休憩を含めても2時間15分とはあまりに短い。すべてがさらりと流れてゆく。イザナギとイザナミの二人も、
結ばれたかと思うとあっと言う間に片方が死んでしまう。消化不良を起こしそうだし、まだまだ続いてほしい気持ちが消えずに
どんどんたまってゆく。やはり二人のアリアがほしい。アマテラスとスサノオ姉弟だってそうだ。アリアの材料はあるのだから
誰か書いてくれないだろうか。