ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

マーラーの交響曲第8番

2020-04-12 16:26:09 | 音楽
音楽の話です。
昨年は、11月に或るアマチュアオケの演奏を聴いたのをきっかけに、年末までマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」をほぼ毎日聴いていた。
初めて聴いた時はうるさいなあと思ったのに、聴けば聴くほど虜になり、何回聴いても飽きることがなかった。
一体どうなっているのか、我ながら不思議だった。

8番は彼の交響曲の中で唯一、生に対して一貫してポジティブな姿勢が感じられるため、これは彼の本心ではない、と評されることもあるという。
だがこれを書いていた頃、彼は人生で最も暗く落ち込んでいたらしい。
当時、彼は苦難に立て続けに見舞われていた。
歌劇場監督の座を失い、長女に死なれ、妻は病気になり、さらに自分自身も心臓病と診断された。
そんな時、くずおれそうな自分を励まし、自分自身に生きてゆく力を与えるためにも、こういう曲を作る必要があったのだと思う。
そのために、150名近いオケとパイプオルガンに加えて8名のソリスト、さらに大人の合唱団と児童合唱団で数百名という大編成の演奏集団が必要だった。
彼がそうやって苦しみを乗り越えようとしてくれたおかげで、後世の我々は至福の時を持つことができるわけだが。

初めて聴いた時、その天国的な調べにもかかわらず思ったのは、「意味へのあがき」ということ。
彼は、次々に襲ってくる不幸の中で、この世界の混沌、この世の不条理を強く感じたことだろう。
そして、そこで生きることに一体意味があるのか、と途方に暮れたのではないだろうか。
我々人間の苦しみに果たして意味があるのか。
意味がないのなら、無理に生きる必要もないのではないか。
苦しみの中でも、死を選ばず、さらに前を向いて生きてゆくためには、どうしても、生きることに意味があると信じることが必要だった。
8番を聴いていると、彼のそういう渇き、「意味への渇き」がビンビンと伝わってくる。
それは私自身がそういうものを生来持っている(というか悩まされている)からだと思う。
個人的なことだが、意味への渇きは私の生涯変わらぬテーマ、伴走者、通奏低音には違いない。
哲学エッセイが人気の作家、池田晶子は、人生に意味を求めている限り、人は救われない、意味を求めてはいけない、人生については「意味がある」とか
「ない」とかではなく意味「ではない」という意味での「非意味」ということに気づくことが「救い」なのかも知れない、と言っているらしい。
だが私にはそういうアプローチは無理だ。したくてもこの先も到底できないと思う。

幸い、今年に入って別の曲を聴くようになり、マーラー8番熱?はようやく治まった。
まず、(やはり昨年演奏を聴いて感動したのがきっかけで)シューマンの弦楽四重奏3曲、それからブラームスの弦楽四重奏、スークなどの室内楽、
その後、唐突だが(やはり演奏を聴いたのがきっかけで)ドヴォルザークの交響曲第8番と9番を久し振りに懐かしく聴き、今は同じCDに入っている
第7番を毎日のように聴いている。
ドヴォルザークはいいです。とにかく元気が出ます。



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原裕子ヴィオラ演奏会・・・音楽の才能について

2020-02-04 22:42:39 | 音楽
1月17日東京文化会館小ホールで、原裕子のヴィオラ演奏会を聴いた(東京文化会館「上野 de クラシック」シリーズ)。
ギターのジェイコブ・ケラーマンとの合奏という珍しい組み合わせ。
曲目は前半に近現代の曲、メインがシューベルトのアルペジオーネ・ソナタ。
曲と曲の間に彼女自身が解説してくれて、会場は温かい空気で満たされた。

彼女のことは、彼女が高校生の時から知って(目をつけて)いる。
マスタークラス(公開レッスン)で仲間たちとカルテットをやり、大御所の今井信子などの指導を受けていた。
当時も光っていたが、久々に聴いたこの夜の彼女は、素晴らしい成長ぶりを見せてくれた。
解説も親切丁寧かつ的確で、知性を感じさせる。声も快く、温かい人柄が伝わってくる。
シューベルトの名曲では、期待通り大いに楽しませてくれたし、評者にはあまり馴染みのなかった近現代曲でも、彼女が非常に優れた演奏家
であることはよく分かった。
陶然と聞き惚れているうちに、思った。
どうしてこんなにうまいんだろう。うまい人と下手な人の違いって一体何だろう。
それって、もしかしたら技術的なことじゃないんじゃないか。

昨年、都内某所で行われた某ヴィオラ奏者の演奏会に行った時、あまりの下手さに耐え難く、途中退席するという初めての経験をした。
ただ、その時は、その人の演奏の、どこがどうよくないのか、言葉にすることが難しかった。
それが、この日、原さんの演奏を聴いているうちに分かってきた。

楽譜というのは、ただ適当に、意味もなく書かれているのではない。
一つ一つの音の動きにはすべて「意味」があるのだ。
音の上がり下がりにも、その長さにも。
だから、音程とリズムさえ合っていれば、後は何も考えず、ただやみくもに弾けばいいというものではない。
あの時、大好きなバッハの名曲がズタズタにされ、まるで知らない曲のようだった。
一体どうすればそんなことになるのか、まったく不思議と言う他なく、あっけに取られた。
だって、音程は、特に悪いというほどではなかったから。

楽譜に書かれた音楽には、それ自体が持つ自然な流れ、息遣いがある。
演奏家がそれを、言わば本能的に感受して、その通りに表現してくれると、聴いている人も、自然に、音楽と同じ息遣いができて
身体が心地良いのだ(従って、当然脳も心地良くなる)。
その時、生理的とも言うべき快感が味わえる。
逆に、その曲が持っている本来の流れ、息遣いが無視される、あるいは軽視されると、音楽はただもう不快な、意味の分からない
ものになってしまう。それはもはや音楽とも言えないだろう。
つまり、重要なのはフレージングということだ。
音楽が人間のものである限り、それは我々の呼吸と密接に関わっているのだ。

そして、弦楽器であっても歌と同じく「語りかけ」であることを忘れてはいけない。
音程が正しいとか左手の指がよく動くとかは、もちろん大事だが、実はもっとずっと本質的なことがあるのだ。

この日は音楽の歓びを心ゆくまで味わうことができた上に、このように頭の中を整理できたことは、まったくもって有難い。
素晴らしい成長を遂げつつある原裕子さん。
まるで親戚の子供の成長を目を細めて見ているようで、我ながらおかしい。
知的で美しい彼女は自分の進むべき道を知っている。そしてそのために何をすべきかを知っている。全く頼もしい限りだ。
彼女の更なる飛躍を確信し、期待する者です。
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