ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「夏の夜の夢」について

2024-08-21 10:32:46 | シェイクスピア論
<女たちの友情を男が壊す話>

ちくま文庫版「夏の夜の夢」の翻訳者・松岡和子氏が「訳者あとがき」で書いていることが面白い。
すでに多くの人が指摘していることかも知れないけれど、以下に引用します。

  この戯曲は、一言で言えば「愛の回復」がテーマになっていると言える。だが、その裏には
  女同士の蜜月的とも言える親密な関係が、男性の侵入によって壊される(あるいは、壊されかける)という
  一面が隠れていると思う。
  まずヒポリタ。シーシアスと結婚する彼女はかつてアマゾンの女王だった。アマゾンは女性だけの国だ。
  それがシーシアスという男性とその軍隊によって滅ぼされ、ヒポリタはアテネに連れてこられたのだ。
  「私は剣をかざしてあなたを口説き / 害を加えて愛を勝ち得た」

  ティターニアはインドの子供を可愛がっていて、その子を小姓にしたいというオーベロンの要求をはねつける。
  子供の母親はティターニアの信者で、二人がどんなに親しかったかは、彼女の口から語られる。
  お産がもとで死んでしまった「あの女のためにあの子を育てているのよ。/ あの女のためにもあの子を
  手放すわけにはいきません」

  そして、言うまでもなくハーミアとヘレナ。「ちょうど双子のサクランボ、見かけは二つ別々でも / もとはひとつに
  つながっている。/ ひとつの茎になった可愛い二つの実」だった二人が、ライサンダーとディミートリアスの出現によって、
  いっときとは言え敵対するはめに陥る。

ハーミアとヘレナの関係が男たちによって壊されかける、というのは分かりやすいので、芝居を見ればすぐに気がつくことだ。
だが、その前に、そもそもこの物語の枠構造であるアテネの公爵シーシアスとアマゾンの女王ヒポリタの関係もそうだと言われると、確かにそうだ。
そして、妖精の女王ティターニアと王オーベロンの関係にもまた、同じことが言えるという。なるほど確かに。
これはどういうことなのだろうか。

シェイクスピアの戯曲にはたいてい元ネタがあるのだが、この作品にはない。
劇中劇の「ピラマスとシスビー」の物語と、シーシアスとヒポリタの物語とを、他の作品から借りてきてはいるが、
主筋は彼のオリジナルだ。
彼がその中に、こんな風に女たちと男との独特の関係を持ち込んでいるというのがちょっと不思議だし、興味深い。
男女が逆の場合(つまり男たちの友情が女によって壊れる)は、シェイクスピアに限らず古今東西多いけれど。

<シェイクスピアで遊ぶということ>
 
2009年に英国の劇団プロペラが来日した時のこと。
「夏の夜の夢」1幕2場で、公爵の御前で上演する芝居の稽古のために、大工クインスが村の職人たちを集めて一人一人に芝居の役を割り振るシーンで、
ふいご直しのフルートという男に「お前はシスビー(役)だ」と言うと、フルートがニヤニヤ笑いながら「シスビー?オア・ノット・シスビー」と言うので吹き出した。
こう言われたクインスは、相手の顔をじっと見て ”That is the question ?” と応答。
もちろんこれはハムレットの最も有名なセリフ、“To be or not to be ・・・“のパロディだが、こんなしょうもない駄洒落を言ってのける
この若い連中がいっぺんで好きになった。

その後ラスト近くでは、公爵役の俳優がなぜかヴァイオリンを抱えて登場し、やおらブルッフの協奏曲をひとくさり弾いてみせた。
芝居の内容にはまったく関係ないが、実に見事な腕前だったので、我々観客は大いに楽しませてもらった。
これもまた公爵の結婚式の余興の一環と思えば、ごく自然に受け入れられる。
もちろん深刻な悲劇ならこういうことは無理だが、ハッピーエンドで祝祭的な喜劇ならここまで遊んだっていいのだ。
そういう自由さがシェイクスピアにはある。

<妖精をどう演じるか>

森の妖精は、背中に羽根が生えている時もあり、妖精の王様の命令で素早くどこへでも飛んでゆく。
だが生身の人間は、そんなに簡単に空中を飛び回ってみせることは難しい。
かつて見た英国の劇団では、妖精を太った役者が演じ、しかも驚くほど超スローに動いていた。
ちょうど太極拳の動きのように。
一種の開き直りだろう。
意外性を狙ったのだろうが、わざとらしくもあり、違和感があった。
妖精は妖精らしく、やはりスリムで機敏であってほしい。
その点、2007年ジョン・ケアード演出の「夏の夜の夢」(新国立劇場、麻実れい、村井国夫出演)でパックを演じた成河(当時の名前はチョウソンハ)はピッタリだった。



「夏の夜の夢」にはパックの他にも妖精たちが大勢登場するが、ちょっと面白い趣向の演出を見たことがある。
1999年東京グローブ座でのペーター・ストルマーレ演出の公演でのこと。
上杉祥三演じるパックが、手の中に入るくらいの小さな妖精(つまり観客からは見えない)と出会い、彼女?を耳元に持って行って、
そのセリフを代弁し、それに答えていた。
つまり二人分しゃべっていた(相手のセリフの時は高い声を使っていた)。
そういうやり方もあるのか、と驚いた記憶がある。
演出家はここで、言わば役者に丸投げしたわけだ。
ちなみに、この時の演出は徹底して日本趣味だった。
舞台装置、衣装、音楽もすべて。



加納幸和がヒッポリタ役で、ラストは白無垢の打掛姿で登場。これが実に美しかった。
クインス役は間宮啓行。これがまた紋付姿で、しゃべり方はまるで落語家(笑)。
パックとオーベロンの会話も原作から大胆に逸脱してゆくが、まあ面白いので楽しめた。
総じて、ここまでアドリブを入れても大丈夫、という見本のような演出だった。

丸投げと言えば思い出すのは、2010年3月、蜷川幸雄演出の「ヘンリー六世」第一部でのこと(彩の国さいたま芸術劇場)。



5幕3場には、乙女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)が悪霊たちを呼び出して会話するというびっくりなシーンがある。
ところが舞台にはジャンヌ役の大竹しのぶ一人。
彼女は照明のわずかな変化の中、悪霊たちとのやり取りを一人でやってのけた。
悪霊たちにセリフはないが、ト書きに指定された動きがいろいろある。
だが、それらは全部、大竹ジャンヌがセリフと演技でカバーしていた。
こんなことは普通しないが、彼女は演出家の無理な要求に立派に応えたわけだ。
役者の力量次第では、こんなこともできる。

ジャンヌ・ダルクと言えば、フランス人にとっては救国の聖女だが、当時の敵国イギリス人から見れば、当然ながら憎むべき魔女であり、
シェイクスピアも、下品で淫売で親不孝な女として描いている。
「夏の夜の夢」から話がそれてしまった。


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「オーランド」

2024-08-06 22:42:10 | 芝居
7月27日パルコ劇場で、ヴァージニア・ウルフ作「オーランド」を見た(翻案:岩切正一郎、演出:栗山民也)。





16世紀の英国貴族の男性オーランドは、ある日突然、女性に変わる。
そればかりか、さらにその後何百年も生き続ける、という途方もない物語。
チラシにある通り、彼は「時代も国境もジェンダーも飛び越えて、数奇な運命に立ち向かい、真実の私を探究する」。
宮沢りえ主演。ヴァイオリンの生演奏つき。
ネタバレあります。注意!

男として黒い衣装で登場するオーランド(宮沢りえ)。
ある日、父の屋敷をエリザベス女王(河内大和)が訪問する。
オーランドは指を洗う水の入った鉢を捧げ持つ重要な役目。
女王は彼の美しさに目をとめ、彼のほっそりした足や「すみれ色の目」が美しい、と言って、彼を財務大臣に任命する。
彼はその後も女王に追い回されるが、何とか愛撫を避けるうちに女王は死ぬ。

オーランドは樫の木が好きで、詩を書き、詩人ニック(山崎一)に見せるが、あまり評価されない。

ルーマニアの皇女・ハリエット(ウエンツ瑛士)が突然、彼の部屋を訪問する。
宿にオーランドの肖像画が掛けてあり、それが亡き妹にそっくりなので、たまらずやって来たと言う。
彼女は彼に、愛しています、と迫るが、オーランドはまたも必死になって避ける。

その後、オーランドは英国を離れ、トルコのコンスタンチノープルに行く。
彼の家は代々貴族だが、ひいおばあさんは羊飼いだったという。
彼は、その血が自分の中にも流れているのを感じる。
ここには樫の木はないが、草原がある。
4人の男たち(羊飼い?)がオーランドの噂をする。
 あの男は俺たちと違うものを見ている。
 乳しぼりや羊の世話に身が入らず、座り込んで何か書いている。
 文字というものを。
 若い奴が「あいつを殺してやる」と言っている・・。
その後、彼は英国に戻る。
その途中、眠っていて目覚めると、女になっていた。
「わけがわからない」
「またすぐ男に戻るのかなあ」
彼、いや彼女は自分の屋敷に戻る。
記者(山﨑一)がやって来て召使いたちに取材する。
召使い「旦那様は旦那様として出かけられ、奥方様としてお帰りになられました」
記者「あっちで性転換したのでは?もともと男であることに違和感があって・・?」
召使い「いえ、そんな風には見えませんでした。男性だった時はとても勇敢な方でした」
記者「でもどうして名前がオーランドのままなんでしょう?ロザリンドとか(に変えればいいのに)?シェイクスピアの『お気に召すまま』みたいな?」
召使い「女性には相続権がないんです。女になった途端に生活するのも困難になってしまいますから。名前くらいはそのままにしておかないと」
記者「ハリエット皇女が睡眠薬を飲ませて無理やり性転換させた、という噂もありますが?」
召使い「いや、それもないでしょう」

男装のハリエット(ウエンツ瑛士)来訪。
オーランドは驚いて「あなた誰?!」
ハリエット「実はルーマニア大公ハリーです。女装していました。男なんです」
彼は、オーランドが同性愛者を嫌がるかと恐れて、敢えて女のふりをして近づいた、と言う。
だが、オーランドが女性になったので、本来の姿に戻ってやって来たのだった。
つまり、彼にとってオーランドが男か女かということは、どうでもいいことらしい。
こうしてハリーはまたしてもオーランドに迫るが、オーランドは「ゲームしましょう」と彼を誘う。
ハエが3つの角砂糖のどれにとまるか賭けるという奇妙なゲーム。
召使いがポケットからハエを出して放つ。
ヴァイオリンが羽音を奏でる。
オーランドと召使いは、ズルをしてハリーを負かす。
2度目にズルするところを目撃して、ハリーは泣き出す。
そんな彼の背中にオーランドがヒキガエルを入れると、さすがにハリーは逃げて行く。

オーランドは独白する。「私は処女だ。でも童貞じゃない。何人もの女性と・・」
「女と男って、どう違うんだろう。どっちが・・・」
オーランドは女郎屋へ行く。
「実は女なの」・・

<休憩>
死んだ男(ウエンツ瑛士)がゆっくり歩いて来る。
腰に白布を巻いただけでほぼ全裸・・。
時代は先へ先へと進む。
イギリス人はマフィンを食べるようになり、食後にはポートワインでなくコーヒーを飲むようになった。
オーランドは一人の船乗り(谷田歩)と出会い、恋に落ちるが、彼は太平洋に向けて出航する。
オーランドは詩人ニック(山﨑一)と再会。
いつも持ち歩いている小さなノートを見られ、これは売れるかも、と言われる。
「美魔女だし」
「男から女になったという・・話題性もあるし」
こうして出版された彼の詩の本が文学賞を取り、彼は「ちょっとした有名人」になる。

ラスト、瓦礫のようなもの(紙)が上から大量に落ちて来て舞台を埋める。
男4人は倒れる。
オーランドも倒れるが、起き上がり、瓦礫の中から何か拾い上げる。
ぬいぐるみかと思ったら、何と人間の赤ん坊(の人形)!
素っ裸。
オーランドはそれを抱きしめて、奥に歩み去る。

~~~~~~~ ~~~~~~~

途中、主役の長いモノローグがはさまれる。
原作を読んでおけばよかったと後悔した。
特に今回のような翻案ものは、どこをどう変えたのか知りたいので。
ラストもだいぶ変えたらしい。
原作では船乗りの夫が無事に帰還するシーンで終わるらしいが、それでは今風でないと思ったのだろう。

「人は女に生まれない。女になるのだ」というオーランドの独白が響き渡る。
これってボーヴォワールの「第二の性」でしょ?!
ボーヴォワールがウルフの小説から取った言葉だったのか??
それとも翻案の岩切正一郎氏が遊び心で挿入したのか??
たぶん後者だね、きっと。

ヴァージニア・ウルフの原作の、時代を超えた新しさに驚いた。

宮沢りえが圧巻。
男装の時のスリムで凛々しい美しさ!(女装になった時ももちろんだが)
前半はずっと、少し低めの声で、後半、女性になってからは(心は男のままなので)意識的に女らしい高い声にする。
いずれも美声なので、聴いていて非常に心地良い。
セリフ回しも演技も素晴らしい。
この人と同時代に生きていることが嬉しい。
衣裳(前田文子)もいい。
共演の山崎一らのキャスティングもよかった。



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