<女たちの友情を男が壊す話>
ちくま文庫版「夏の夜の夢」の翻訳者・松岡和子氏が「訳者あとがき」で書いていることが面白い。
すでに多くの人が指摘していることかも知れないけれど、以下に引用します。
この戯曲は、一言で言えば「愛の回復」がテーマになっていると言える。だが、その裏には
女同士の蜜月的とも言える親密な関係が、男性の侵入によって壊される(あるいは、壊されかける)という
一面が隠れていると思う。
まずヒポリタ。シーシアスと結婚する彼女はかつてアマゾンの女王だった。アマゾンは女性だけの国だ。
それがシーシアスという男性とその軍隊によって滅ぼされ、ヒポリタはアテネに連れてこられたのだ。
「私は剣をかざしてあなたを口説き / 害を加えて愛を勝ち得た」
ティターニアはインドの子供を可愛がっていて、その子を小姓にしたいというオーベロンの要求をはねつける。
子供の母親はティターニアの信者で、二人がどんなに親しかったかは、彼女の口から語られる。
お産がもとで死んでしまった「あの女のためにあの子を育てているのよ。/ あの女のためにもあの子を
手放すわけにはいきません」
そして、言うまでもなくハーミアとヘレナ。「ちょうど双子のサクランボ、見かけは二つ別々でも / もとはひとつに
つながっている。/ ひとつの茎になった可愛い二つの実」だった二人が、ライサンダーとディミートリアスの出現によって、
いっときとは言え敵対するはめに陥る。
ハーミアとヘレナの関係が男たちによって壊されかける、というのは分かりやすいので、芝居を見ればすぐに気がつくことだ。
だが、その前に、そもそもこの物語の枠構造であるアテネの公爵シーシアスとアマゾンの女王ヒポリタの関係もそうだと言われると、確かにそうだ。
そして、妖精の女王ティターニアと王オーベロンの関係にもまた、同じことが言えるという。なるほど確かに。
これはどういうことなのだろうか。
シェイクスピアの戯曲にはたいてい元ネタがあるのだが、この作品にはない。
劇中劇の「ピラマスとシスビー」の物語と、シーシアスとヒポリタの物語とを、他の作品から借りてきてはいるが、
主筋は彼のオリジナルだ。
彼がその中に、こんな風に女たちと男との独特の関係を持ち込んでいるというのがちょっと不思議だし、興味深い。
男女が逆の場合(つまり男たちの友情が女によって壊れる)は、シェイクスピアに限らず古今東西多いけれど。
<シェイクスピアで遊ぶということ>
2009年に英国の劇団プロペラが来日した時のこと。
「夏の夜の夢」1幕2場で、公爵の御前で上演する芝居の稽古のために、大工クインスが村の職人たちを集めて一人一人に芝居の役を割り振るシーンで、
ふいご直しのフルートという男に「お前はシスビー(役)だ」と言うと、フルートがニヤニヤ笑いながら「シスビー?オア・ノット・シスビー」と言うので吹き出した。
こう言われたクインスは、相手の顔をじっと見て ”That is the question ?” と応答。
もちろんこれはハムレットの最も有名なセリフ、“To be or not to be ・・・“のパロディだが、こんなしょうもない駄洒落を言ってのける
この若い連中がいっぺんで好きになった。
その後ラスト近くでは、公爵役の俳優がなぜかヴァイオリンを抱えて登場し、やおらブルッフの協奏曲をひとくさり弾いてみせた。
芝居の内容にはまったく関係ないが、実に見事な腕前だったので、我々観客は大いに楽しませてもらった。
これもまた公爵の結婚式の余興の一環と思えば、ごく自然に受け入れられる。
もちろん深刻な悲劇ならこういうことは無理だが、ハッピーエンドで祝祭的な喜劇ならここまで遊んだっていいのだ。
そういう自由さがシェイクスピアにはある。
<妖精をどう演じるか>
森の妖精は、背中に羽根が生えている時もあり、妖精の王様の命令で素早くどこへでも飛んでゆく。
だが生身の人間は、そんなに簡単に空中を飛び回ってみせることは難しい。
かつて見た英国の劇団では、妖精を太った役者が演じ、しかも驚くほど超スローに動いていた。
ちょうど太極拳の動きのように。
一種の開き直りだろう。
意外性を狙ったのだろうが、わざとらしくもあり、違和感があった。
妖精は妖精らしく、やはりスリムで機敏であってほしい。
その点、2007年ジョン・ケアード演出の「夏の夜の夢」(新国立劇場、麻実れい、村井国夫出演)でパックを演じた成河(当時の名前はチョウソンハ)はピッタリだった。
「夏の夜の夢」にはパックの他にも妖精たちが大勢登場するが、ちょっと面白い趣向の演出を見たことがある。
1999年東京グローブ座でのペーター・ストルマーレ演出の公演でのこと。
上杉祥三演じるパックが、手の中に入るくらいの小さな妖精(つまり観客からは見えない)と出会い、彼女?を耳元に持って行って、
そのセリフを代弁し、それに答えていた。
つまり二人分しゃべっていた(相手のセリフの時は高い声を使っていた)。
そういうやり方もあるのか、と驚いた記憶がある。
演出家はここで、言わば役者に丸投げしたわけだ。
ちなみに、この時の演出は徹底して日本趣味だった。
舞台装置、衣装、音楽もすべて。
加納幸和がヒッポリタ役で、ラストは白無垢の打掛姿で登場。これが実に美しかった。
クインス役は間宮啓行。これがまた紋付姿で、しゃべり方はまるで落語家(笑)。
パックとオーベロンの会話も原作から大胆に逸脱してゆくが、まあ面白いので楽しめた。
総じて、ここまでアドリブを入れても大丈夫、という見本のような演出だった。
丸投げと言えば思い出すのは、2010年3月、蜷川幸雄演出の「ヘンリー六世」第一部でのこと(彩の国さいたま芸術劇場)。
5幕3場には、乙女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)が悪霊たちを呼び出して会話するというびっくりなシーンがある。
ところが舞台にはジャンヌ役の大竹しのぶ一人。
彼女は照明のわずかな変化の中、悪霊たちとのやり取りを一人でやってのけた。
悪霊たちにセリフはないが、ト書きに指定された動きがいろいろある。
だが、それらは全部、大竹ジャンヌがセリフと演技でカバーしていた。
こんなことは普通しないが、彼女は演出家の無理な要求に立派に応えたわけだ。
役者の力量次第では、こんなこともできる。
ジャンヌ・ダルクと言えば、フランス人にとっては救国の聖女だが、当時の敵国イギリス人から見れば、当然ながら憎むべき魔女であり、
シェイクスピアも、下品で淫売で親不孝な女として描いている。
「夏の夜の夢」から話がそれてしまった。
ちくま文庫版「夏の夜の夢」の翻訳者・松岡和子氏が「訳者あとがき」で書いていることが面白い。
すでに多くの人が指摘していることかも知れないけれど、以下に引用します。
この戯曲は、一言で言えば「愛の回復」がテーマになっていると言える。だが、その裏には
女同士の蜜月的とも言える親密な関係が、男性の侵入によって壊される(あるいは、壊されかける)という
一面が隠れていると思う。
まずヒポリタ。シーシアスと結婚する彼女はかつてアマゾンの女王だった。アマゾンは女性だけの国だ。
それがシーシアスという男性とその軍隊によって滅ぼされ、ヒポリタはアテネに連れてこられたのだ。
「私は剣をかざしてあなたを口説き / 害を加えて愛を勝ち得た」
ティターニアはインドの子供を可愛がっていて、その子を小姓にしたいというオーベロンの要求をはねつける。
子供の母親はティターニアの信者で、二人がどんなに親しかったかは、彼女の口から語られる。
お産がもとで死んでしまった「あの女のためにあの子を育てているのよ。/ あの女のためにもあの子を
手放すわけにはいきません」
そして、言うまでもなくハーミアとヘレナ。「ちょうど双子のサクランボ、見かけは二つ別々でも / もとはひとつに
つながっている。/ ひとつの茎になった可愛い二つの実」だった二人が、ライサンダーとディミートリアスの出現によって、
いっときとは言え敵対するはめに陥る。
ハーミアとヘレナの関係が男たちによって壊されかける、というのは分かりやすいので、芝居を見ればすぐに気がつくことだ。
だが、その前に、そもそもこの物語の枠構造であるアテネの公爵シーシアスとアマゾンの女王ヒポリタの関係もそうだと言われると、確かにそうだ。
そして、妖精の女王ティターニアと王オーベロンの関係にもまた、同じことが言えるという。なるほど確かに。
これはどういうことなのだろうか。
シェイクスピアの戯曲にはたいてい元ネタがあるのだが、この作品にはない。
劇中劇の「ピラマスとシスビー」の物語と、シーシアスとヒポリタの物語とを、他の作品から借りてきてはいるが、
主筋は彼のオリジナルだ。
彼がその中に、こんな風に女たちと男との独特の関係を持ち込んでいるというのがちょっと不思議だし、興味深い。
男女が逆の場合(つまり男たちの友情が女によって壊れる)は、シェイクスピアに限らず古今東西多いけれど。
<シェイクスピアで遊ぶということ>
2009年に英国の劇団プロペラが来日した時のこと。
「夏の夜の夢」1幕2場で、公爵の御前で上演する芝居の稽古のために、大工クインスが村の職人たちを集めて一人一人に芝居の役を割り振るシーンで、
ふいご直しのフルートという男に「お前はシスビー(役)だ」と言うと、フルートがニヤニヤ笑いながら「シスビー?オア・ノット・シスビー」と言うので吹き出した。
こう言われたクインスは、相手の顔をじっと見て ”That is the question ?” と応答。
もちろんこれはハムレットの最も有名なセリフ、“To be or not to be ・・・“のパロディだが、こんなしょうもない駄洒落を言ってのける
この若い連中がいっぺんで好きになった。
その後ラスト近くでは、公爵役の俳優がなぜかヴァイオリンを抱えて登場し、やおらブルッフの協奏曲をひとくさり弾いてみせた。
芝居の内容にはまったく関係ないが、実に見事な腕前だったので、我々観客は大いに楽しませてもらった。
これもまた公爵の結婚式の余興の一環と思えば、ごく自然に受け入れられる。
もちろん深刻な悲劇ならこういうことは無理だが、ハッピーエンドで祝祭的な喜劇ならここまで遊んだっていいのだ。
そういう自由さがシェイクスピアにはある。
<妖精をどう演じるか>
森の妖精は、背中に羽根が生えている時もあり、妖精の王様の命令で素早くどこへでも飛んでゆく。
だが生身の人間は、そんなに簡単に空中を飛び回ってみせることは難しい。
かつて見た英国の劇団では、妖精を太った役者が演じ、しかも驚くほど超スローに動いていた。
ちょうど太極拳の動きのように。
一種の開き直りだろう。
意外性を狙ったのだろうが、わざとらしくもあり、違和感があった。
妖精は妖精らしく、やはりスリムで機敏であってほしい。
その点、2007年ジョン・ケアード演出の「夏の夜の夢」(新国立劇場、麻実れい、村井国夫出演)でパックを演じた成河(当時の名前はチョウソンハ)はピッタリだった。
「夏の夜の夢」にはパックの他にも妖精たちが大勢登場するが、ちょっと面白い趣向の演出を見たことがある。
1999年東京グローブ座でのペーター・ストルマーレ演出の公演でのこと。
上杉祥三演じるパックが、手の中に入るくらいの小さな妖精(つまり観客からは見えない)と出会い、彼女?を耳元に持って行って、
そのセリフを代弁し、それに答えていた。
つまり二人分しゃべっていた(相手のセリフの時は高い声を使っていた)。
そういうやり方もあるのか、と驚いた記憶がある。
演出家はここで、言わば役者に丸投げしたわけだ。
ちなみに、この時の演出は徹底して日本趣味だった。
舞台装置、衣装、音楽もすべて。
加納幸和がヒッポリタ役で、ラストは白無垢の打掛姿で登場。これが実に美しかった。
クインス役は間宮啓行。これがまた紋付姿で、しゃべり方はまるで落語家(笑)。
パックとオーベロンの会話も原作から大胆に逸脱してゆくが、まあ面白いので楽しめた。
総じて、ここまでアドリブを入れても大丈夫、という見本のような演出だった。
丸投げと言えば思い出すのは、2010年3月、蜷川幸雄演出の「ヘンリー六世」第一部でのこと(彩の国さいたま芸術劇場)。
5幕3場には、乙女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)が悪霊たちを呼び出して会話するというびっくりなシーンがある。
ところが舞台にはジャンヌ役の大竹しのぶ一人。
彼女は照明のわずかな変化の中、悪霊たちとのやり取りを一人でやってのけた。
悪霊たちにセリフはないが、ト書きに指定された動きがいろいろある。
だが、それらは全部、大竹ジャンヌがセリフと演技でカバーしていた。
こんなことは普通しないが、彼女は演出家の無理な要求に立派に応えたわけだ。
役者の力量次第では、こんなこともできる。
ジャンヌ・ダルクと言えば、フランス人にとっては救国の聖女だが、当時の敵国イギリス人から見れば、当然ながら憎むべき魔女であり、
シェイクスピアも、下品で淫売で親不孝な女として描いている。
「夏の夜の夢」から話がそれてしまった。