ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

 RSC 「ハムレット」

2010-06-30 22:38:21 | 芝居
先日テレビで、RSC の「ハムレット」を観た(演出:グレゴリー・ドーラン)。
ドーランは、この前の「ANJIN」でも演出をやった人。

この映画は2008年夏に Stratford-upon-Avon で上演された芝居を、少し映画向けに変えて撮影した作品。

主役デイヴィッド・テナントは目が大きくてカフカに似た若者。

時々画面が白黒になる。これは監視カメラの映像、つまり、エルシノア城のあちこちに監視カメラが仕掛けてあるという趣向だ。
音楽は最小限しか使われていないが、適切に入ってくるのが好ましい。

detail が面白い。レアティーズが王にフランス行きの許可をくれるよう願い出ている間、彼の父ポローニアスの口が動いている。息子にあらかじめセリフを教え込んだのだ。
国王クローディアスは甥ハムレットの留学先の大学(ヴィッテンベルク)の名前を知らず(あるいは忘れ)、王妃に教えてもらう。二人の間の距離感が分かる。
オフィーリアは兄のトランクからコンドームを取り出して見せる。

オフィーリアはがっちりした体格の若い女性。
ポローニアスはちょっとボケ気味という設定で、時々ボーッとしてセリフの間が空く。そのせいでかなり上映時間が延びたんじゃないか。
主役とポローニアスは時々カメラ目線で語る。
尼寺の場で、ハムレットは監視カメラに気づく。床は鏡のようになっている。その後、独白の後、カメラを取り外して壊す。

劇中劇のシーン。オフィーリアとハムレットは明らかに既に肉体的に結ばれているようだ。
ハムレットはビデオカメラで劇や王たちを撮影する。
王はフラッと立ち上がり、ゆっくり歩いてハムレットの前に来て顔を見下ろし、首を振り、立ち去る。これはいただけない。

王妃の部屋で、王妃は苛立たしげにタバコをふかし、酒を飲んでいる。
ハムレットは枕元のピストルをつかみ、壁が一面鏡になっている所に向かって発砲。

ポローニアスの死後、ハムレットは王の家来たちに追われる。しまいに車椅子にくくりつけられ王の前に引き出される。

画面がいきなり白一色になる。「あれはノルウェー軍、指揮しているのはフォーティンブラス・・」というシーンは雪原。男たちがカメラを見上げている。ヘリの音。

急きょ帰国したレアティーズは王に銃を向ける。

ハムレットの手紙のシーンはカット。

第5幕第1場、墓掘りのシーン。
いかにも英国風の建物・・・修道院の回廊の裏庭のような所に墓穴を掘る道化。cockneyをしゃべる。しかしちょっとめかし込んでいるのはなぜ?
棺の中のオフィーリアは兄が抱き上げた一瞬のみ見える。

ハムレットがホレイショーに船での出来事を語るシーンもカット。

決闘の場。母がハンカチでハムレットの顔を拭こうとすると彼はいやがる。
ガートルードは息子が勝っているので喜びに顔を輝かせて杯を取る。王が呼びかけると振り向く。王がゆっくり「飲むな」と言うと、杯を見つめ、「いえ・・」とゆっくり飲む。一体何を考えている!?まさか自殺じゃないだろうし、だったら何やら意味深な演技などしないでほしい。それより、この時の王の心境を思うとたまらない。人殺しなのだから同情する必要はないと分かってはいるが、目の前で愛する妻が毒入りの酒を飲もうとしているのに人前なので止めることができない(何しろついさっき自分が甥っ子に飲ませようとした酒なのだ)というこの辛さ。自業自得を絵に描いたような状況だが、こんな悪い奴でも天才劇作家の手にかかるとつい同情してしまう。

ハムレットが王に剣を突きつけると王はそれをつい手でつかんでしまい、その手を見つめる。ただそれだけ。ハムレットが毒入りの酒の残った杯を差し出して「これを飲め」と言うと、王は杯を受け取ってそれをじっと見つめ、少しこぼしながらゆっくり飲む。まだかなり残っていた模様。クローディアスが自分で杯を持って飲むなんて、こんなの初めて。この男の人生は王妃の死と共に終わっていたのだ。純愛と言えないこともないだろう。すべてはガーティの美しさが原因だった!?

フォーティンブラスは来ない。
ホレイショーに抱かれてハムレット絶命。
ホレイショーの「天使の・・・」というセリフで幕。

主役を演じたデイヴィッド・テナントは英国のテレビ番組「ドクター・フー」の主役を務める人気俳優で、この時初めてシェイクスピア劇の主役に抜擢され、そのためこの「ハムレット」のチケットは即日完売、興行的には大成功を収めたらしい。批評も好意的なものが多いが、中には「テナントはパトリック・スチュアート(クローディアス役)に食われた」という評もある。確かにこのクローディアスは実に堂々としていて国王らしい威厳がある。敵役はやはりこうでないといけない。
全体に、役者が皆うまくて圧倒されたが、当たり前か。特にテナントは表情豊かで発音も素晴しい。

監視カメラを使ったのも面白い。最近知ったが、英国は監視カメラ大国で、世界の監視カメラの20%が英国にあるとも言われている由。この映画にはそんなお国柄が表れているようだ。

演出家によるカットは大方の不評を買ったようだ。実際、普通カットされる所を長々とやっておいて、大事な所(第4独白の一部)をカットしているのには驚いた。







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オペラ「影のない女」

2010-06-12 23:05:47 | オペラ
6月1日新国立劇場オペラパレスで、リヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ「影のない女」を観た(指揮:エーリヒ・ヴェヒター、管弦楽:東京交響楽団、演出:ドニ・クリエフ)。

リヒャルト・シュトラウスのオペラと言えば「ばらの騎士」と「サロメ」しか知らなかったが、このオペラはシュトラウスの円熟期に作られ、最高傑作とも言われている由。「ばらの騎士」がモーツアルトの「フィガロの結婚」を元に作られ、その次に「魔笛」の精神によるオペラを書こうとしてできたのが、この「影のない女」だという。

筋はものすごく込み入っている。
霊界の大王カイコバートの娘は父からもらったお守りによって獣に変身できる。
彼女が付き添いの乳母から離れ、白いカモシカになって遊んでいる時、鷹狩りに来た(人間界の)皇帝に捕まってしまう。その瞬間カモシカは元の美しい女の姿に戻り、皇帝は彼女を妻とする。乳母は皇后となった娘に付き添っている。
11ヶ月が過ぎ、二人は愛し合っていたが、皇后はまだ人間の女になるまでには至らず、体内から光が出るので影ができない。そのため子供も産めない。
カイコバートは娘が人間と結婚したことを怒り、月に一度乳母の所に使者を送り、皇后に影がないかどうか尋ねさせる。
実は大王は皇帝に呪いをかけていた。結婚して12ヶ月たっても皇后に影ができなければ、皇帝は石と化すことになっていたのだ。

さて、これがあらすじ・・だと思ったら大間違い!ここまでは第1幕の始まる前に起こった出来事なのだった!

皇后は夫にかけられた呪いを知り、何とかして影を手に入れたいと願う。乳母に相談すると、乳母は人間界の染物師バラクの妻に目をつける。この女は夫に不満があり、子供を生もうとしないので、影を売ってくれるかも知れない、と考えたのだ・・・。

この長いストーリーを考え出したのはホフマンスタール、あの「ばらの騎士」の台本を書いた人と作曲家自身である。二人はいろいろな物語やあちこちの伝説からアイディアを借りてきて自由にこのオペラを創り出した。例えばペルシャの詩からは「妖精と結婚した人間の男は一年以内に子供が生まれなければ石とならねばならない」というアイディアを借り、「アラビアン・ナイト」からは傷ついた鷹、カモシカに姿を変えた妖精などのアイディアを借り、染物師バラクはアラビアから、霊界の大王カイコバートはペルシャから、また影が多産の象徴であるというのは北欧の伝説であり、「魂を悪魔に売り渡す」というキリスト教の伝説が、影を売ることに代わり、悪魔の代わりに多少とも悪い性格を与えられた乳母が登場するという具合だ。これらの素材を用いて彼らが言わんとするテーマは「魔笛」と同じく、試練を経て真の愛が結ばれる、というもの。

音楽は始めから終わりまでただもう美しいので、ここでは何も言うことはない。
歌手たちもうまい。ただ舞台の床がデコボコしていたのが気になった。大変な難曲なのだから歌に集中したいだろうに、足元にも気を配らないといけないなんて可哀想だ(美術もドニ・クリエフ)。

大詰めで4人の運命が劇的に転換する場面が唐突に思えた。それまでの大前提であった、大王の恐ろしい呪いがひっくり返るのだから、天地が裂けるとか雷がとどろくとかしないと、ただ石壁の中に閉じ込められていた皇帝がふらっと出てくるだけでは納得いかない。ここは大王カイコバート御自ら登場して直接娘に語りかけるシーンがほしい。

とは言え、ラスト、染物師の前に妻が現れ、後ろから強いライトが当たって彼女の影が家の壁にくっきりと映った時にはつい涙が溢れ出てしまった。全く敵(演出家)の思う壷である。我ながら御し易いお客・・・。

乳母は一人罰せられて、あれほど軽蔑していた人間界に送られる。「魔笛」の夜の女王一味に当たる役回りだからそうなるのだろうが、彼女は本当は霊界に戻りたいのに女主人のために仕方なく知恵を絞って影を手に入れてあげようとしただけなのだから、この結末は気の毒にも見える。だが染物師夫婦の苦しみを見ながら(女主人と違って)全く同情しなかったのがいけなかったのだろう。

音楽とは関係ないが、観ていて、子供を生むことにこだわり過ぎているように思えた。夫婦愛を賛美するのにどうして子供が必要不可欠なのだろうか。子供が生まれないと愛は成就しないのか。かつて子供を生めない女は一人前と見なされなかった。観ていてどうしてもそのことを思わずにはいられず、心に痛みを感じた。所詮男たちの創ったオペラということか。とは言え、音楽が極上なのだから、四の五の言うべきではないのかも知れない。

本当の主役はバラクの妻だと言われている通り、カーテンコールで最後に出てきたのは彼女を演じたステファニー・フリーデだった。タイトルは皇后のことだから、タイトルロールでない人が主役というのは稀有のことではないだろうか。

久々に、ドイツ語やっててよかったと思えた一日だった。











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